神の目にも涙「俺のこと、囲ってみません?」
ねぇ宇髄さん。と、まるで任務中にあった何でもない事を話す時のような声色で呼ばれ、特に構えもせず適当に注意を向けたらコレだ。
確かに予想外の事ではあったが、宇髄は少しも動揺することなく紫煙を吐いて、横で呑気に茶をすする男を見やる。
出会った頃より幾分か背が伸び、宇髄を真似て──あくまで本人は女受けが良いからだと言い張っているが──伸ばし始めた髪ももう腰に届く。顔も同世代の柱のような精悍さが付かなかった代わりに、大人びた鼻筋と顔の輪郭に、変わらない大きな瞳が合わさった妙な色気を纏うようになった。
容姿が語る歳月に感慨深さを感じつつも、柱に任命されたとてちっとも変わらない中身に安堵と呆れが入り交じる。
「別にいいけど」
「いいんだ」
驚いた様子を見せたのは、とんでもない事を言い出した本人。
ただでさえ大きな瞳をまん丸に開いて宇髄を見る。
「なに?お前、俺の事好きだったの?」
「んー、まぁ。顔面と図体と嫁三人っていうのは憎くて仕方がないし、横暴で無茶苦茶な割には意外と面倒見が良いとこも狙ってんのかふざけんなとは思ってますけど」
「どこに好きの要素があんだよ」
「他の隊士より金払いがいい」
「最低だなお前」
確かに、遊郭潜入を共にした三人に何かと世話を焼いているうちに、人一倍懐いて来たのはこの男だ。
懐いたというよりも、駆け込み寺という方が正しい。
女だ何だに使って金が無い時、蝶屋敷に行くまでもない怪我をした時、腹が減った時やどこぞの誰かと喧嘩をした時、そしてどうにもこうにも一人になりたい時。
そんな時、この男は宇髄のところに来る。
何も言わないので何も聞かなかったが、どうやらそれが心地良い様子。
慕う、というと少し違うが、自分を一番目の敵にしていた男が当てにしてくる様は、気難しい動物に懐かれたような達成感はあった。
「ま、衣食住には不自由させねぇよ」
「うわー、かっこい」
「でもお前、俺に囲われるってことはアッチの方も相手してもらうことになるけどいいのか?」
「あー、はい、まぁ別に。初物でも無いですし、適当に使って貰って結構ですよ。ていうかあんた、男いけんの」
「まぁ忍ってのは色々あるからな」
「ふぅん」
聞いておいて、大して興味もなさげにそう呟いた善逸の、腰まで伸びた髪を眺めながら宇髄はまたぷかり、紫煙をくゆらせる。
「でもまぁ、この俺が一旦囲うと決めたからには、生半可な真似はしねぇけど、その辺は大丈夫か?」
「え?」
「俺の嫁になるってことは、ド派手に幸せになってくれなきゃ困るのよ。他の男を思って泣くような、惨めで寂しい思いなんかさせてやるつもりねぇんだわ」
流石に驚いて宇髄を見る善逸の琥珀を見据え、宇髄はその顎に指先をかけ、視線を逸らさせぬよう上向かせた。
「一度手に入れたもんは、どんだけ他の男が良いと泣いたところで、逃してやらねえっつってんの」
大きく見開かれていた琥珀が、すぅ、細まり宇髄を貫く。
この雰囲気の変わりよう。遊郭に潜入した頃から感じていたが、柱になってからは随分と顕著だ。
下の者といる時の、肩肘を張った澄ました顔で宇髄を見ながら、善逸は顎にかけられた宇髄の指先に触れた。
「嘘ばっか。相手の幸せのためならすぐに手放すくせに」
それを体現するかの如く、呆気なく取り払われた指先に視線をやって、善逸はほらね、と呟く。
「それが分かっちまうから駄目なんだよお前は」
「どゆこと」
「本当に欲しいものは、ちゃんと捕まえとかなきゃ駄目なんだとよ。普通はな」
「……でも、俺なんかといる事が本当に幸せだとは思えんのよ」
「そう思っちまうのも駄目なんだと」
「だめだめばっか」
「そ、駄目なのよ」
俺らみたいな人間は。そう言って、宇髄は庭へと視線を向け、また紫煙をぷかり、空へと放つ。
「うちは俺なんか、って言うと散々責められ怒られ打たれた挙句、三日はおやつ抜きだぞ」
「何それ、厳しいんだが甘いんだか分かんない」
「お前もそうだろう?」
「……まぁ、こっぴどく、怒られはしますけどね。でも喉元過ぎればなんとやらとも言いますし」
「その喉元過ぎんのに何年かかってんだよ」
「いやそう、ほんとそうなの、しつこい、あいつしつこいの」
「それはもう愛、ってやつなんだよ、善逸」
「……あい、ですか。これが、噂の」
「そう。まぁ思ってたより怖くはねぇもんよ?」
「うぅん……そう、かなぁ……」
「そろそろ覚悟して絡め取られてみろよ。もしそれでもダメなら、俺が囲ってやるから」
きっと、物足りないだろうけど。
長年に渡る真っ直ぐな執着を一身に受ける幸せ者を見やって、宇髄はその言葉を飲み込む。
この男に必要なのは避難所だ。日陰を歩いてきたものにとって、太陽の下で生きてきた人間は眩しすぎる。時々、それから隠れて休める日陰が必要なのだ。
けれど影が出来るのも、太陽あってのこと。
結局のところこの男には、眩し過ぎるくらいの太陽がいて、ちょうど良いのだ。
日陰同士では、じめじめと鬱陶しくって仕方がないと言われる未来が見えている。
下ろされた髪にふぅ、と紫煙を吹きかけて、宇髄は縁側に寝転ぶ。
「猪の結婚式までには決めてこいよ」
「明日じゃん」
馬鹿なの、と言って立ち上がった善逸の尻を蹴ってやると、何すんのさと蹴り返してくる。
ぎゃいぎゃいと罵詈雑言を並べ立ていつもの調子を取り戻したところで、善逸は髪を結い上げ刀を差した。
「帰ります。おやつも出ないし」
「おぅ。明日だったら出たんだけどな」
「あんたも大概だね」
「ひん曲がった性格はそう簡単には直らねぇよ。ま、死ぬまでには多少マシにはなんじゃねぇかな」
「死ぬまでには……ね、いつ死ぬか分からんのに」
「だったらさっさと矯正してもらえ。素直にな」
「それが出来たら苦労せんのよ」
はぁやだやだ、そう言って去っていく背中に笑みを浮かべる。裏口から出る前にぺこりと頭を下げたのを見ると、彼の中で何かしらの成果はあったらしい。
「ったく、今も昔も手のかかる奴らよ」
目を離したら死んでしまうような餓鬼だった子供達は、ようやくそれぞれの足で歩きだそうとしているのだ。
あとはそっと背中を押して、転けた時に起こしてやるだけでいい。
一抹の寂しさを感じるのは、自身はその恩恵を受けたことのない父性というやつなのだろうか。
「結婚式で泣いちゃうかも、俺」
そうなったら、きっと自身も、生きてきた価値はあったのだと、それなりに思えるかもしれない。
明日以降は毎日おやつにありつけると良いのだが。そう思いつつ、宇髄は肌を焼く太陽にうまくやれよ、と口角をあげ、金色の髪に存分に纏わせた煙を吐き出した。
「おかえり、善逸」
「たっ……だいま……びっくりしたぁ」
「どうしてそんなにびっくりするんだ?ここは俺とお前の屋敷、俺がいたって不思議じゃないだろう?」
「ここはお前の、屋敷で、任務もう少しかかると思ってたから気を抜いてただけだよ、あー心臓に悪い」
大袈裟に胸を押さえて見せて、善逸はよろり、よろりとこの屋敷の主、日柱を避けて縁側に倒れ込む。
「なんかおやつある?お腹減ったよたんじろぉ」
「宇髄さんのところでは出なかったのか?」
「……あー、うん、あのおっさん、今お嫁さん怒らせておやつ抜きなんだって」
宇髄の家に行くと言った記憶は無かったが、何故知っているのかと詰めよれば墓穴を掘る気がして、善逸は正直なところを話した。
「何で怒られてるんだ?」
横に腰を下ろし、日輪刀を置いた炭治郎からは山の匂いがする。きっと、本当にたった今、任務から帰ってきたところなのだろう。
「あー、なんか、お嫁さん達の地雷を踏んだとか、なんとか」
「地雷?」
「まぁ要するに、言っちゃいけないことを言ったわけ。それで三日間おやつ抜きなんだって。甘いよねぇ」
「なるほど。それいいな。うちも取り入れようか、善逸?」
「な、なによ、何にするつもり、やだよ俺、おやつ無いと死ぬ、死にますよ」
「そうだなぁ。俺が一番困ってしまう言葉でいうと、お前が言う俺なんか、とかだろうか」
「──……っ」
寝転び散らばった髪は、炭治郎の手に集められてその手のひらに乗る。掴まれているわけではないけれど、身動きが取れない。
炭治郎はたった今帰ってきたはずで、宇髄が話の内容を鴉で飛ばすにも時間が無い。そもそも、宇髄はあぁ見えて、善逸が相談する炭治郎に関する悩みに関しては、絶対に告げ口をしたりしない。
だからこそ、誰にも言えない、彼の眩しさに立ちくらみがする現象を打ち明けられるのだ。
「……どこまで、知ってんだよ」
「どこまで?俺は何も知らないぞ。お前が宇髄さんのところで俺の話をしたことしか」
「なっ、んだって……!?」
「宇髄さんは俺が何を聞いても善逸とのことは教えてくれないからな。だからせめて、俺の話をした時は合図を欲しいと頼んであるんだ」
「待って待って、どういうこと!?」
「それは俺と宇髄さんの秘密だ」
髪に口付けながら、炭治郎は深呼吸をする。まるで、宇髄からの合図とやらを確認されているようだ。
「何を喋ったのか教えてくれるなら、もうそんな事はしないけど」
「いや、そもそも、なんで、そんなことすんのよ」
「気になるからに決まってるだろう。体はさっさと許したくせに、いつまで経ってもその心を委ねてくれない想い人の心中が」
「んんっ、いや、あー、んん、炭治郎さん、あのね」
「いくら長男とはいえ、こう何年もはぐらかされるとさすがにきついぞ」
「……んー……」
「なぁ善逸。俺の何が駄目なんだ」
髪を手のひらに掬ったまま、炭治郎が善逸の横に寝転ぶ。男らしさが増した端正な顔に、少しばかりの不安と不満を混じえて。
その顔がひどく幼く見えて、善逸は土で汚れた頬にかかる、赤みを帯びた黒髪をそっと払う。そして自分と同じだけ伸びたその髪に指先を差し込んで、ゆっくりと撫でた。
「……お前の駄目なとこなんてひとつも無いよ」
隅から隅まで、外も、中も、好きなところしかない。
だから不安になるのだ。この完璧な男に、愛される価値はあるのだろうかと。
この男の未来に、自分はいてもいいのだろうかと。
「俺が……俺、なんか」
そう言いかけた唇を、熱く、柔いものが塞いで、言葉を塞き止められる。ぬるりと入り込んできたそれに言葉を散らされ、言いかけた音は吐息となって二人の間に漂う。
「おやつ、抜きになってしまうぞ」
至近距離で、優しい炎が揺らめく。この瞳に見つめられるのが幸せ過ぎて、怖いのだ。
けれど、この瞳に自分が映らなくなるのは、もっと怖い。
「俺、で、いいの」
初めて、未来を問う。
今までの辛いことを全て包んで、余りあるほどの幸せであれと願う男の未来に、自分がいても良いのかと。
「お前じゃないと、駄目なんだ」
もうどうにもこうにも逃れようのない言葉と、出会った頃から変わらない、泣きそうな程に優しい顔で微笑まれてしまっては、もうこの男のいない未来など考えられなかった。
「そういう、とこ、だよっ、お前はさぁっ!」
溢れてきた涙を隠すように襟を掴んで額をぶつける。
ぐわりと頭を揺さぶられる衝撃の後に、鬼に引っかかれるよりも数十倍激しい痛みが額に走る。
「痛いぞ、善逸。何するんだ」
「いっ、たあぁあいのはこっちだわ!いった!は!?久しぶりに思い出したわこの石頭!痛い!はぁ!?俺の頭割れてるよね!?割れたこれ絶対割れた!」
「割れてないから、ちょっと静かにしてくれ。幸せを噛み締めてるんだ」
「っ……おやつ、出せよな……!」
「あぁ、出すよ。お前がそばにいてくれる限り、一生」
手に入れてしまった幸せしかない未来に抱きついて、善逸は溢れる涙を擦り付ける。ぜんぶ、額の痛みのせいにして。
翌日、伊之助とアオイの晴れ姿に溢れかけていた宇髄の涙腺が炭治郎からの報告で決壊したことは、ことある事に持ち出される鉄板の笑い話となるのであった。