Day after tomorrow明後日という言葉が少し嫌いだ。
ずっと嫌いだった訳ではない。人生のとある一点から少しずつ、少しずつ苦手意識が湧いてきた。
リハビリがてら街中を歩くとそこかしこに散らばる企業広告に目が行く。
『明日の自分は変われる!』
『未来の私のためにできることを』
「(随分お気楽で都合のいいこった)」
明るい未来が何だ、どれも綺麗事だろ。
雪祈は視線を下に移した。夢だったSo Blue出演の直前、思うように動かなくなった右手。明日なんて約束されていないこと。未来の自分が綺麗に保たれることがどれだけ奇跡か。知りたくもなかった。しかし、現実は無慈悲である。
左手が残されているのが唯一の救いだった。一生ピアノが弾けなくなるという最悪の事態は免れた。それだけで充分だと言われる。自分にも同じことを言い聞かせる。それでも確実に右手は動いていた。何にも変えられない事実なのだ。上手く使えない箸。お世辞にも綺麗だと言えない崩れた丸文字。明らかに不便になった生活。イライラする。どうしてこうも動かないのか。医者は手術の回数を重ねたら動くようになると言う。希望を持たせるような言い方をされたが、もうわかっているのだ。
「(100%は、ない)」
前を向くには些か時間を要することは目に見えてわかっていた。
大は今頃何をしているのだろうか。ちょっと感傷的になる自分を見たら、なんて思うのだろう。
多分、いいや絶対。
「でっぱれ」と怒られるんだ。