昼下がりのリビングは二人で居るというのに随分と静かだ。隣のピンク色は微動だにせず、さっきから下を向いてスマホ画面とにらめっこしている。沈黙が気まずい、というような事はないけれど、強いていえば少し、そう本当に少しだけ、つまらない……気がする。せっかく二人で居るのに、と思わないわけではない。それでもやっぱり、穏やかな時間は嫌いじゃない。声をかけようか迷った挙げ句、結局私はまた目の前の本に目を落とした。
その瞬間、私の心を見透かしたように隣から私を呼ぶ声が聞こえてちょっとだけ恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになったのは私だけの秘密だ。なんでもないように返事を返せば青い瞳がニヤニヤと此方を見上げていた。
「ボク、なんだかお出かけしたくなってきちゃった!」
「え?今からかい?」
唐突な提案に思わず疑問が口をついて出る。
「うん!ね、車だしてよ!」
ソファから飛び降りて私の腕を引っ張る彼はもう行く気満々のようで、私に断る選択肢は最初から用意されていないようだった。とはいえ、彼が楽しそうならば別に断る理由もないので構わないのだけれど。
「どこに行きたいんだい?」
否定もなく返せば、私の言葉に彼が顔を輝かせて、スマホをずいっと差し出してきた。
「ここ!」
「……花屋?」
目の前に示された画面はとある花屋のショップサイトだった。
「うん!新しくできたんだって!広くて色んなお花扱ってるって話題なの!」
「珍しいね」
二人で行く場所は大抵が水族館や遊園地の類いで、たまのショッピングで見るものも服屋ばかりなのに。素直に驚いていれば、彼がぷくりと少しだけ頬を膨らませた。
「たまにはこういう場所もいいでしょ?付き合ってよ!」
「分かりました、ではそこに行きましょうか」
「やったー!ありがと、じゃくらい!」
なにも機嫌を損ねたいわけではない。大人しく従えば、彼がすぐにニコニコと嬉しそうな表情を浮かべて。つられて笑えば楽しみだねと軽い足取りで玄関へと走っていく彼にまた口元が綻んだ。
◆
車で向かった先は、彼に見せて貰ったサイトで見るより遥かに広くて、素直に感嘆の息が零れる。
「すごく広いね」
「ね、お花たくさん!」
店は随分と奥まで続いていて、色々な花が水に活けられている。そこらじゅうから漂う花の香りが心地いい。平日だからか、店内の人もまばらで落ち着いた雰囲気にほっと肩の力が抜けていくようだった。
「とても素敵なお店ですね」
「来て良かったでしょ?」
「そうですね」
「ボク、あっちのお花も見たい」
「行ってみようか」
花には詳しくないけれど、どの花も瑞々しく愛らしい。それでも、その中でピンク色の花にばかり目が行くのは私の贔屓目なのだろうか。
私の前を行くピンク色へと視線を移せば、ふいに彼がぴたりと動きを止めて、思わず私も立ち止まってしまった。
「乱数くん?どうしましたか?」
「このお花かわいい、これにしよーかな」
「買うんですか?」
「うん、オネーサンに」
小さな呟きに彼を覗き込めば、返ってきた答えに思わず固まってしまった。
「え?」
疑問がそのまま音になる。そんな私を置いてけぼりにして彼が続けた。
「知り合いのオネーサンが誕生日だからお花でも渡したいなぁって思って」
「誕生日プレゼント、ですか」
「うん」
ふわりと微笑む彼は、まるで恋した乙女のように頬を染めて誰かを想っていて。彼とは正反対に私は途端に心に靄がかかったようだった。顔も知らない誰かに勝手な嫉妬心が芽生える。大人げないと分かっていても、心が軋んで嫌だと叫ぶ。せっかくのデートだというのに醜い独占欲で彼を傷つけてしまいそうで。必死に平静を装った。
「そう、だね……かわいらしい花ですしプレゼントには最適かもしれない」
「うん!」
当たり障りのない言葉を絞り出せば彼がまたにこりと笑う。自分がさせたのではないと思ってしまえば、その顔すらなんだか腹立たしくて。そんなことを思う自分自身の恐ろしさに足を一歩引いた。
「乱数くん、他は見なくて大丈夫かい?」
この場に留まっているのがなんだか嫌でそんな提案をしてみれば、彼が何かに気づいたように振り返る。先ほどまで弧を描いていた瞳がふっと憂いを含んで私をじっと映していた。
「じゃくらい?どうかした?」
「え?」
どくりと、心臓が音を立てる。すべてを見透かしたような瞳が私を射抜いて動けなかった。そんな私を尚も詰るように彼が言葉を重ねる。
「なんか、怒ってる?」
確信したような問いかけ。
「……いえ、なんでも」
「うそだ」
思わず取り繕おうとした私の言葉を鋭い声が遮った。
「乱数くん?」
「どうせ、じゃくらいの事だからオネーサンに嫉妬でもしたんでしょ」
核心をつかれて息を飲めば、呆れたようにやっぱりという顔をされて少しだけ居心地が悪い。視線を逸らそうとした瞬間、小さな両手が頬を包んで強制的に彼と向き合う形になった。
「あの……」
「心配しなくても、本当にただの知り合いだから。ちゃんと、特別はじゃくらいだけだよ」
なんて、甘い言葉と共に澄んだ空みたいな青が眇められる。普段あまり聞くことのできない彼のその言葉に、じわりと胸が熱い。わかった?と耳を赤く染めながら可憐に微笑むその姿に、ようやく胸の靄が消えていった。
「そうだね、ありがとう乱数くん」
「うん」
彼の前世は花なのかもしれない、なんて思えてしまうくらいの笑顔に、目の奥に込み上げる熱をやり過ごして、そっと彼の手のひらを包み込んだ。