もしも記憶が消せたなら 何もない暗闇から、ぼんやりと人の姿が浮かび出る。
「思い出した?」
スカートを翻し、小西先輩と同じ姿をしたそいつはニコニコと笑う。
キリキリと脳みそを縛られるような痛みを堪えながら、何のことだと問うた。
「んー、色々あるけど。花ちゃんはどれだと思う?」
要領を得ない会話だ。会話をするだけ無駄。なのにどうして俺はこいつの相手をしてしまうのか。
「酷い大雨のときに、二人でモップ掛けをしたときのこととか?」
あの時は結露が凄くてさぁととぼけた顔をする。やめろ。お前がそれを語るんじゃない。
「どうして? だって私も【私】でしょ?」
花ちゃんだって覚えてるくせに、と唇を尖らせる。
それはお前ではない。お前じゃないんだ。
自分の体が揺れて、脳裏がチカチカと点滅する。見知った仲間達がテレビの中に入っているのが見えた。
これが夢なのか現実なのか混乱したが、落ち着いて今日が何月の何日なのか思い返す。
記憶が焼け焦げるように穴だらけだ。落ち着いて今日の朝見たカレンダーの日付を探し出す。
ゴールデンウィークの始まりの日。そうだ、本来ならあいつが帰ってくる日だ。
……あいつ? あいつって誰だ?
分かったようで何も分からない。目を瞑ればスサノオが仲間達を襲っている場面が映し出される。
何をしているんだ。これが夢でも現実でも、そんなことはどっちでも良い。帰ってこいスサノオ。止まれスサノオ。ここにお前を呼んでこいつを消しさえすれば。
手を宙にかざすと、手首にヒンヤリとした感触がした。
「ダーメ」
手首を掴まれ、そこから動けない。笑顔のそいつが憎い。
手首がじんわりと冷えてくる。心臓が震える。冷たい。嫌だ。先輩と同じ顔をするな。嫌だ。冷たい。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「離せ!!!」
思い切り振り払うと、あははと笑われた。
冷たくなった手首をもう片方の手で擦り、摩擦で手首を温める。嫌だ。嫌だ。嫌だ。こんな冷たい感触を覚えたくない。上書きしないでほしい。忘れたくない。忘れたくない。
「ほら、忘れたくないって言った」
「えっ……?」
クスクスと笑う。
「花ちゃんが、忘れたくないって思ったから。だから【私】がここにいるんだよ」
何を、言っているんだ……?
「花ちゃんが、そう望んだから」
望んでない。俺はそんなこと。
「【私】自体は元々花ちゃんの中にいたんだよ。でもこうしてここに出てこれたのはもっと別の、強い願いがあったから」
何を。俺が何を望んだというのだ。
目を逸らさずに見つめるのも苦しい思いを、どうして。
「忘れちゃったの……?」
何を。俺は何を忘れたというのだ。
視界が大きく振れて揺れる。頭の痛みで身動きが出来ない。
勢いで目を瞑ると、ロクテンマオウと対峙している光景が見えた。
スサノオが拳を握り、ロクテンマオウを殴ろうとする感覚を感知して、焦って全力で意識をそっちに集中させた。
「やめろスサノオ!!」
代わりに重い衝撃を頬に受け、そのまま弾みで頭ごと地面に叩きつけられる。
激しい痛みに息を吐き、うめき声をあげた。
「かはっ……」
走馬灯のように今までの記憶が蘇る。写真を床にばら撒いたような感覚と、パラパラと捲るような感覚、声、匂い、感触、それら全てが血液を巡るように全身を駆けまわり、目眩がした。
くらりとその場に倒れ込み、大量の記憶が走る中で俺は意識を手放した。
◆
歪んだ構造で出来たコニシ酒店の中に入ると、更に奥に道が続いていた。
「先輩、この奥だよ!」
りせの声を信じて奥に進む。光が一切ない暗闇であった。霧でもかかっているのかと思ったが、俺を始めとして全員メガネを掛けている。霧ではないのだろう。
しかし、どれだけ進んでも何も見えては来ない。りせのことは信じているが、少々不安になってくる。
「間違いない。この先だよ」
不安を解すように語りかけるりせに、ありがとうと詫びた。
そうして大分走った先に仄かに人のようなものが見えてきた。
「ヨースケ!」
りせと同じく探知が出来るせいか、クマは先頭を突っ切って駆けるが、ピタリと止まってしまった。
意識を失っているのかぐったりと横たわる陽介の側に、八高制服を来た女性が座り込んでいる。
「花ちゃんを迎えに来たんだね」
笑っているのか、怒っているのか、俺には表情が読み取れなかった。
「月森先輩、その人……」
なんとなく誰なのか察しているのだろう。りせはその先の言葉を紡げなかった。
クマは一歩踏み出したが、その人に手を出され静止されてしまう。
「キミ達にとって、花ちゃんは必要?」
「当たり前クマよ」
「花ちゃんにとっては?」
視線を下へ向ける。よく見ると陽介の体にキラキラと光る糸が何重にも巻き付いていた。
「花ちゃんにとっては、何が必要なんだと思う?」
「…………」
クマには難しい問答だったか。黙り込んでいる。
「花村先輩にとって何が必要なのかは、花村先輩が決めることよ」
代わりにとりせが答えた。
「そうかもね。そうかも」
その人は視線を下に向け、倒れた陽介を見つめた。
「でも、花ちゃんは選べなかった」
「何を言って……」
クスクスと笑い声をあげるその人を、俺達は呆然としながら見ていた。
「私よりお友達が大事? って聞いたら、花ちゃん黙っちゃったもの」
なんと酷な、と思わず顔をしかめる。
「最初はキミ達を選ぼうとしていたみたいだけど、選べなかった。私を選んでくれるのかなって、ちょっと期待しちゃった。だから、死んでくれるのかな? って思っちゃった。私と一緒になってくれるのかと思っちゃった」
りせと目を合せて会話をする。スサノオが俺達を襲ったのはそのせいか、と合点がいった。
「あんなに沢山戦って強くなっても、私のことを助けられない。花ちゃんはやっぱり変わんないね。ずっとずーっと変わんない」
何を言ってるんだ。陽介がペルソナの力を得たのは、小西先輩を失ってからだ。どんなに願っても死者を生き返らせることが出来ない以上は、小西先輩を救うことなど土台無理なことだろう。
「…………もん……」
りせの震える声が耳に入る。
「それでも、花村先輩は私達を助けたもん。助けられたんだもん」
「そ、そうだよ……。花村がテレビの中を調べるとかバカみたいなこと言わなきゃ、雪子を失ってた……」
「千枝……」
「もちろん、花村先輩だけじゃない。月森先輩達や、クマにも助けられた。私の命はみんなのおかげで今ここで、生きてるんだよ……」
りせ達の言葉を聞いたその人は、つまらなさそうな顔をした。
「ふーん。よかったね」
ヒンヤリとした空気が流れる。
「ちょ、なにそれ……」
「だって、キミ達は助けられて、生きてるんでしょう? じゃあ、よかったじゃない」
両手をパチパチと叩く。
「おめでとう~」
その人は笑顔を浮かべて俺達を祝福しはじめた。
「なんなのコイツ……」
りせは顔も声も歪ませ、その人を睨みつける。
「やだー。花ちゃんのお友達こっわーい」
大事なものを愛でるように陽介の頭を撫でると、冷気は更に強まった。
「キミ達は生きられた。私は生きられなかった。それでいいじゃない」
陽介を雁字搦めに縛っている糸を指先でなぞる。
「私は花ちゃんにとって『助けられなかった』存在だから」
その指先は脳の中にある海馬をくすぐるかのようにぐるぐると回る。
「キミ達は花ちゃんにとって『助けること』が出来た存在。それ以上でもそれ以下でもない」
やがて一点に狙いを絞って、ぐいぐいと指先で押し始める。
「花ちゃんに私は助けられない。それだけが事実だから」
ゆっくりと立ち上がると、冷たい風が吹く。
「キミ達も、私のことを消したいの?」
仲間達が俺を不安気に見上げてくる。俺にその問いの答えを持っているのかはわからない。
「月森先輩……、あの糸、多分切らないとダメ。あの人と同じ気配がする」
りせに服の裾を握られる。であるならば、俺が答えられるのはこれしかない。
「そういうことに、なるかもしれない」
「随分と曖昧なんだね」
「慎重派なんだと言ってほしいな」
「そう。じゃあそういうことにしておいてあげる」
その人はスッと手を伸ばすと指先からキラキラと糸を垂れ下げた。そして愛おしげに名前を呼ぶ。
「おいでスサノオ。私の可愛い子」
肌を突き刺すような冷気の暴風に煽られ、俺達は目を瞑った。
◆
白檀の燃える独特な匂い。線香に火を灯すと、線香皿にそっと供える。
「午前中にも来たんだろ? 悪かったな、二度手間させちゃって」
「いえ、また違った趣がありますし」
思い思いに手を合せる。事件を解決したこと、こうして尚紀と二人で墓参りに来れて有り難かったことを心の中で報告する。
線香の煙がどこか嬉しそうに揺蕩うように思えた。ただの思い込みなんだろうけども、それでもそう思っていたくて、そっと目を閉じる。
「姉ちゃんもびっくりしてるかもしれませんね。俺が花村先輩と二人でここに来るなんてって」
「ハハッ。まあ本当は完二の奴も一緒だったんだけど」
「そしたらまた完二と一緒に来ますよ」
軽く笑って、そして尚紀は俺を見てこう言った。
「でも、花村先輩はダメです」
「えっ」
一体何がダメなんだろう。
「花村先輩はこれきりにしてください」
真面目な顔をして俺を見る。もしかしてそれは、墓参りに来ることを指しているのか。
「そうです。俺と一緒に来るのは、これが最初で最後です」
「……そんなに俺と一緒は嫌?」
「そうじゃありませんよ。違います。……、花村先輩、来年も来そうじゃないですか」
えっ、ダメなの? と言いそうになったが口を噤んだ。
「そしてまた再来年も、そのまた次の年も来るんですよ。そんなんダメに決まってるじゃないですか」
「…………」
「本当は、俺とこうして話してるのだって……。いや、いいです。それくらいは許します。一緒にどこか食べに行くだとか、それくらいは多分、良いんです。でも、これだけはダメです」
「……一緒に愛屋行ったりするのは、良いんだ」
「はい」
「そっか」
「……はい」
ダメって言われちった。言われちまったもんはしょうがねえな。……、内緒で来よう。
「俺に内緒で来ようとか思ってませんよね」
「オモッテナイ。オモッテナイデスヨ」
「……、ま、いいですけど」
それはどうやら許されたらしい。まじまじと尚紀の顔を見ていたら「やっぱダメです」と言われてしまった。
じゃあもう尚紀と一緒には来れないのかな。心の中でどこか寂しさを纏った風が吹き抜ける。
晴れ渡った青空とは相対するように、俺の心は色褪せていった。