甲子園の組み合わせを見て、綾瀬川は何度目かのため息をついた。大和と当たるのは準決以降。早く戦いたいのに、綾瀬川に運はなかったらしい。
「何度見とんねん。結果は変わらへんやろ」
ため息が気に触ったのか、桃吾が綾瀬川に静かにしろと言いたげに声をかけてくる。
「この勝負のために俺は野球続けてたの! てか桃吾はさ、円と当たるのこんな後でいいの?」
「最初に当たって初戦敗退になるのもドラフトに関わるやろ。後の方が戦績ようなるし、当たるの決勝がええわ」
「あー……」
円には見てわかるハンデがある。本人の実力がどうであれ、ドラフト前にわかりやすい結果がある方がいいのは間違いない。それに、もし綾瀬川が打たれて負けるとしても、桃吾にとってだって甲子園の結果は高ければ高いほどいいのだ。勝って野球を辞めるつもりの綾瀬川とは見ているものが違う。
「そんな早くやりたかったんけ?」
「俺は三年に一回しか戦えるチャンスないの! 織姫よりも待ってる時間長いの!」
「なら甲子園の期間くらい誤差やろ」
誤差でも近づくと一日が長く感じると言おうとして、綾瀬川はやめた。対戦タイミングがいつになるかは、綾瀬川でなく今後も続ける予定の桃吾と円に味方している。それを否定するのは、どこか気がのらなかったのだ。
「……てかさ、俺は戦うけど、いいんだよね」
怖い打者が一人だけなら、敬遠して点をとらせないのも野球のセオリーの一つだ。堅実に勝利を狙うなら敬遠は選択肢になるのに、そういえば桃吾からは一度も大和の敬遠を提案されたことがないなと綾瀬川は思う。
「ダメ言うても絶対敬遠せぇへんやんけ……。織姫に彦星と会うな言われへんわ。協力したるから思いっきり投げることだけ考えたらええねん。あとな、」
桃吾の目が一度綾瀬川から離れて遠くを見た。誰のことを想ったのかわかりやすく表情が和らいで、その顔のまま綾瀬川にまた視線が戻る。
「打たれても、俺が点取り返したる」
柔らかな表情のまま発せられた言葉が意味することを、綾瀬川は噛み締めた。
「……円から、打つつもりなんだ」
「アホか。真剣勝負やぞ。当然や。円かて、俺に打たれてもええ思て投げるとかあれへん」
ふと何かを思い出したのか、桃吾は一度口を閉じる。遠く彼方にいる投手を想う顔から、いつも綾瀬川が見ている顔に戻った。
「打たせてあげようよ、とか円は絶対考えへんからな」
「……懐かしいね」
それは昔、綾瀬川がまだ色々なことを知らなかった時に言わずにはいられなかった言葉だ。
あの日、桃吾が何を思って「バカにすんな…」と言ったのか、今の綾瀬川には理解できる。なぜなら。
「棒立ちの園大和から三振とれても、嬉しゅうないやろ。そういうことや」
綾瀬川に手を抜かれて勝ててもまったく喜べない相手ができたからだ。
とはいえ、生意気な後輩を抑えるためだけに野球を続けていて、それ以外の勝利を道筋としか思えないのも、カスに当たるんじゃと綾瀬川は思っている。思っているが、それを桃吾には言わない分別は、この歳になったらついていた。
円のために、綾瀬川の正捕手の地位を三年間一度も譲らなかった男だ。
綾瀬川の球を捕りたいと熱望していたキャッチャー全員を一顧だにせず蹴散らすのと、トーナメントを大和と勝負するまでの通過点として見なすのは、同じ種類の残酷さである。
そんな、一般的な動機とは少々外れたものでも、人を負かす覚悟には間違いなく、今の綾瀬川にはそれがあるとこの三年で桃吾にも伝わったからこそ、今まぁまぁのバッテリーとしてやっていけているのだろう。
「さ、トーナメント表見とらんで練習行くど。格上相手や。できること全部やらんとな」
「ちょっと! 俺は大和三タコして野球辞めるつもりなんだけど」
大和は綾瀬川より強いと、聞き捨てならないことを言って練習に向かう桃吾を追いかけ、綾瀬川も練習に向かう。こう言えば、綾瀬川がトーナメント表を見るのを止めるとわかった上で選ばれた言葉だ。それができるくらいには、桃吾は綾瀬川の動かし方をもう把握している。
あの夏の日に乞われた円の前から消えるどころか、なぜか綾瀬川と桃吾とバッテリーを組んで最後の甲子園で円と投げ合う。そんな甲子園開始まで後少し。
待ち望んだ戦いは、決勝まで延びてももう今月だ。