次の機会は手に入れるもの プロ野球選手がいかに肉体的に選りすぐりの存在でも、人体である以上限界はある。例えば、長距離の移動は乗り物を使うのが常だ。だから、交通事情で選手が移動できない、という理由で予定されていた試合が中止になってしまうこともある。
東海道新幹線が保守用車両の脱線で急遽朝から運休、その代替手段として人が集中し始めた北陸新幹線の架線に農業用ビニールが引っかかり一時運転見合わせ、秋分の日の連休にかかっていたため空路は最初から予約でいっぱい。そんな風に複数ある移動手段がすべて絶たれた結果、選手がたどり着けなくなり本日の試合は中止で決定した。
その中止の知らせを受け取った円は、先程から「北陸新幹線まで動かへん」という内容のメッセージをやり取りしていた乗車中の桃吾に急いでメッセージで伝えるか、それとも電話ができる状態になったら伝えるか少しだけで迷って、早く伝えた方がいいだろうとメッセージを送ることにする。
『選手とスタッフが移動できひんから、今日の試合中止じゃと。もうすぐ正式発表出るらしいで』
できるなら、この試合の中止を桃吾に伝えるのは、自分からがよかったのだ。中止になった今日の試合は、円と桃吾にとってどんな結果になっても忘れられない試合になるはずだったのだから。
メッセージに既読は付くものの、それまでわりとすぐに返ってきていた返事がピタリと止まってしまった。この試合に思い入れを同じだけ持ってくれていたことが嬉しく、だからこそどうしようもないこととはいえ中止になってしまったことが悲しくなる。
『桃吾、生きとるかー?』
『生きとるわ! 驚いとっただけや』
ただ驚いただけでないことは、通話をすれば声音でわかるだろう。だが、今桃吾は新幹線の中にいて、それは望ましい状況ではない。また、たとえマナーとして問題なかったとしても、今の桃吾の心境から発せられる声音が不特定多数の人の耳を震わせることを、円はよしとしなかった。
『落ち着いたら電話せえ。必ず出る』
『おん』
端的な返事のあと、先程まで頻繁に送られてきていたメッセージはピタリと止まる。待つしかできない状況が、ただただもどかしい。
円にとってもこの試合は特別で、だから円もまた桃吾と話したかったのだ。
太平洋沿いの新幹線が止まって、既に飛行機が満席だからと日本海側を迂回することにしたら、そちらも止まってしまう。そんなめったに起こらない偶然によって立ち往生しかけた桃吾は、しばらくの点検の後ようやく動き出した新幹線に揺られて、なんとか関東にたどり着いた。
道中という中途半端なタイミングで通話する気持ちにはなれず、結局深夜になってから着いた宿泊予定のホテルの部屋に入るまで通話はできなかった。
こんな時間になったものの、途中遅くなるがホテルに到着したらかけることは伝えていたので、まだ円は出るだろうという確信のもと、桃吾は円に電話する。今日の試合のことを最初に言い出したのは円からだった。世間からしたらいつもと変わらないシーズン終盤の試合だが、二人にとっては一つの区切りになるはずの試合で、それがなくなってしまったことに円が何も感じていないなどある筈がないのだ。
「お、桃吾、遅かったのー。調子崩しとらんけ?」
短いコール音の後に、敢えて明るくしているのだとわかる声が聞こえてきて、桃吾の声は揺れそうになる。
「平気やわ。円こそ今日投げへんかったけど調子狂っとらんやろな?」
それを抑えても円にはおそらく伝わってしまうが、それでも強がりたい気持ちはお互い様だ。軽く煽ると円の声が作った明るさではなく、本心から笑ったのが感じ取れた。
「予定通り投げへんかったくらいで調子狂わんでー。ほな、桃吾は明日からの試合、普通に出られそやな」
「おん。……やっぱり、明日明後日は円投げへんのやな」
「予告先発しとるからのー。トラブル起こらへんかったら投げんやろなぁ」
既に明日明後日の先発投手は予告されている。その上で、円のチームは今年圧倒的な勝率でもう優勝を決めていて、今は次のシーズンに向かって色々試している最中だ。明日明後日で予告されている若手投手に不調やトラブルが起こったとしても、即球団エースの円への交代ではなく、他の試したい投手への交代になるだろう。今日の新幹線のような滅多に起こらないトラブルが連続すれば円が投げることもあるかもしれないが、低確率な物事は普通起こらないものなのだ。
「……円が投げへんくても俺のやることは変わらん。こん試合で活躍して、来年から所属するチームに雛桃吾が味方におったら心強いてアピールするだけや」
なので、レギュラーシーズン中に円と桃吾が真剣勝負する最後の機会はほぼ消えてしまったようなものだ。振替試合は行われるが、その試合で円が投げるかはわからない。偶然に裏切られたばかりの桃吾としては、偶然に頼る気持ちにはなれなかった。
「まだFAでうちのチームからオファーあるか決まっとらんじゃろー」
「せやから、絶対手は抜かん」
FAを宣言した後球団から話が来るかどうかは、選手の実力と各球団の事情による。そして円の球団は今捕手不足と言える状況で、実力があれば移籍できるチャンスであった。FAを宣言できるタイミングでこの状況な以上、今年を逃す理由はない。円と桃吾が同じチームで野球をできるチャンスが目の前にあるのだ。
でも、だからこそ。
「……最後に勝負、したかったのぉ」
こぼれ出てきた円の本心を聞いて、桃吾は一度口を噤む。これから同じチームになるなら、もう公式戦で真剣勝負はない。そうなると最後の勝負をちゃんとやっておきたいという気持ちも芽生えるものだ。
円と同じく、桃吾だって最後の勝負を楽しみにしていた。そして、運に頼って振替試合に祈るなんてことはしたくない。それでも、取れる手段は細いだけでまだ残っている。
「クライマックスシリーズ、出て勝って、で、もっかい勝負のチャンス作る」
レギュラーシーズンが終わった後、上位三位はクライマックスシリーズで試合が組まれる。まだ本当にこれが最後になると決まり切ったわけではないのだが、円がそちらを最後の対決として考えに入れていなかったのは理由がある。
「今五位のチームがなんか言うとるのー」
クライマックスシリーズは三位まで、一方桃吾の所属球団の順位は現在五位。だから、確実に行われるだろう今日の試合を、レギュラーシーズン最後の試合として戦おうと話していたのだ。
「順位はそれでもゲーム数の差はほぼあらへんねん! 一点も取らせへんし、打って点も取ってクライマックスシリーズ出るから待っとれ!」
だが、予定していた試合自体がなくなってしまったなら、確実な機会は勝って掴み取るしかない。桃吾が円の待つ場所にたどり着くと言い切ると、穏やかででも内心に火が燃えているような、そんな声で円の言葉が返ってくる。
「わしんこと目指して、勝ち進んでくるんじゃな」
それを聞いて桃吾も、上で待つ円のいる場所を目指して勝ちを積み上げるのは、高校時代と立場を逆にしたみたいだと気づく。
とはいえ、同じプロ野球のステージに立っている状態からスタートなのだから、高校時代の円と桃吾と競べたら、追いつくべき距離は随分近い。円がもっと難しいことをできたのに桃吾が今あるハードルを越えられないなんて、起こっていいはずもなく。
高校時代と逆になっているというのなら、桃吾は絶対にたどり着くしか選択肢にないのだ。
「せや。ちゅうか、お前が日本一になんのはなぁ、俺がおんなじチームおる時決まっとんやろ」
「ハッハッハ!」
いつか話したことと同じことを言えば、円も同じように笑う。明日球場で会えるとは言え、あの時と違って今は電話なのがひどくもどかしい。
「円が日本シリーズ出るの阻止してうちが今年日本一なったら、今のチームでやり残しものうなるしな。ちょうどええ」
「うちのチーム、今年ようまとまっとるんじゃ。簡単に日本シリーズの席は渡さへんでー」
「それに勝つからええねんやろ。本気の円の球打ったら、エースの球のホームランを手土産で新しいチームに挨拶できるしな」
「ほな、わしも調子整えて、桃吾が打てへんほどええ球投げられるようにしとかんとのー」
公式戦で最後となる対決の機会を失った瞬間の悲しさは、もう二人の間にはない。負けないと煽り合う言葉の応酬も、次の機会を確信した対決の前提のものに変わっている。
そのまま色々と話した後、明日に響くからそろそろ切ろうとなった時だった。
「桃吾、待っとるから勝ち上がってくるんじゃぞ」
桃吾にとっての勝つ理由そのものから、勝利を求められる。それは、今は違うチームに所属しているはずなのに、とっくに同じチームにいるようなそんな感覚を桃吾にもたらして。
「絶対行く……! 最後の対決も、FAでのチーム移籍もや」
「楽しみじゃのー」
電話ごしなのに燃え上がる心が止まらない。これが最後で、そこからが始まりで。ならば、やはり後悔が残る形で終わるのではなく、一番いい形で次に進みたいと桃吾は決意を固めた。
この年、直前五位からのクライマックスシリーズ出場、そしてそのままの勢いで日本シリーズ優勝が話題となるのだが、それを二人が望みとして語るのではなく実体験するのは、もう少し先のことである。