賢さだけでは空は晴れない肘が張っているという主張をした時に、念のため病院に行くことになるかもしれないとは思っていた。けれども、誰も怪我をしなかった試合で、もう一人一緒に病院へ行くことになるのは、花房の想定外だった。
「なんもないです、大丈夫です」と主張するキャッチャーは、花房と同じ念のためという理由で病院に向かう真木コーチに預けられている。
雨の降る中宿泊先のホテルの入り口で車を取りにいったコーチを待っているのだが、不機嫌かつ沈んだ顔から表情が動かない桃吾が気になって、花房は一つだけ言っておくことにした。
「さっき大丈夫って言ってたけどさ、この大会の後も野球するんでしょ? ここで無理して壊れたら監督達の責任にもなるんだし、大人しく言われた通りにしたら」
「壊れてへん」
「それを確認できるのは自己判断じゃなくて医者の診察でしょ。ピッチャーよりは故障しにくいからって、油断したら誰でも故障するよ。俺はばんばか変化球なげるの避けてるけど、こんな風に身体壊さないように意識するのも大事じゃない?」
「せやな……」
ついでにあまり変化球を使いたくないということも混ぜこんでおく。正論の中に潜めた望みは、桃吾が覚えていたら試合中の配球に影響が出てくるだろう。この捕手はこちらがいつもどうしているのか、ちゃんと気にするまじめな捕手なのだ。
とはいえ、いつもある覇気が完全に消失しているので、今話したことを覚えているか花房は少し不安になる。こういう時瀬田ちゃんならぱっと活気づけできるのになと思うものの、花房にはここでパトカーの音が聞こえてもあんな風に空気を和ますことはできない。後はおとなしく真木コーチが車を持ってくるのを待つことにした。
待っている間雨の音を聞いていると、先ほどの試合の様子をどうしても思い出してしまう。初日に暴言と暴力で問題を起こして折り合いなんて絶対に悪くなったはずなのに、アクシデントの中心の二人は組んで格上を抑えきってしまった。捕り切る捕手もまじめだが、何より投手が規格外だからこそ勝てたということはチーム全員がわかっている。
とはいえ、投手が規格外過ぎて捕手側への負担が大きいとも判断されている。もしこの後の診察で、ドクターストップで捕るのを止められたらどうなるのか。その答えは簡単で、桃吾が捕るのを止められたら綾瀬川は投げられなくなる。そして、その分花房の大会中の負担は増える。本来なら避けたいことのはずなのに、一瞬だけ、負担が増えてもいいという感情が湧き上がって。
同時に車が到着して、車に乗るよう促された。ドアを開けて車に入るその一瞬の傘をさしていない瞬間に、一際強く降る雨が容赦なく花房の身体を濡らしていった。
U12スーパーラウンド一戦目は、例年の負けイベント相手だった。そんな相手の先発に選ばれた花房は、雲で日差しが陰った球場で、今まで投げたどの試合よりも打ちこまれた。そして相手のピッチャーは恵まれたフィジカルから速い球を投げてきて、こちらは全然点が取れない。
この表を抑えきっても、裏にまた点がとれなければコールドだ。ここから頑張って抑えても、この点差ではもう勝ちの目はないだろう。
一度目を瞑って、そして開いて受け取った次の球のサインは、今日何度も打ち上げられたストレートだった。桃吾は壊れたくないと言った花房の意を汲んで、変化球を多用しない配球で組み立ててくれている。ただ、今はサインを出すまでの時間が長く、一球一球大いに迷っているらしいことはマウンドからでも伝わった。
病院への行き帰りで、桃吾のことを見られなかったことを花房は思い出す。病院に行くことになった理由が綾瀬川にあることだけは同じなのに、一人は戦い抜いた後でもう一人は戦いから逃げた後と、中身は大きく違う。その事実から目を背けていたことを、こんなコールド負けの直前に思い出しても、何かが変わるとは思いにくい。
だけれども。
分厚く見えていた雲に切れ目ができ、そこから日差しが差し込んでくる。直射日光は花房の身体にじんわりと伝わって行く。その熱に導かれるように、花房は出されたサインへ首をふった。
桃吾も迷いがあったのか、次のサインはすぐに送られてくる。けれどもそれもストレートで、花房は再び首をふった。出される度にそれは違うと何度も首をふっていると、だんだん物言いたげな様子になってきたのがマウンドからでもわかった。変化球を投げさせないで欲しいとやんわり伝えた手前、まじめな捕手はきっと少し混乱している。
出されたサインに首をふるのを少し繰り返した後、何かに気づいたかのように変化球のサインがきた。それは花房が変化球をここにと考えていたのと同じコースで。頷いて投げた球は、二人の想定通りに相手打者のバットに空を切らせた。コールド前の最後の回は急に増えた変化球の割合によって、他の回より楽にアウトがとれて終わりになる。
ベンチに戻る際、待っていた桃吾が花房に「よかったん?」と尋ねてきた。
「いいんだよ。変化多くても早くアウトとった方が球数減るでしょ」
今更という気持ちがあり、ここで変化を投げたことに小言を言いそうな兄に用意した言い訳がとっさに出て、なのに桃吾はこちらをじっと見ると、太陽の光に似た黄色の眼が静かにまたたく。
「また変化込みで勝負したなったら、次は左手で手ェふって合図せぇ」
それだけ言って、桃吾は先にベンチに戻っていった。
曇って灰色だった空は先ほど切れたところから雲が流れはじめていて、まもなく綺麗に晴れ渡る。おそらく敗けの試合なのに、花房がベンチに戻る足はこれまでの回よりだいぶ軽かった。