雛の家に残るもの「桃吾、雛の家住み替わる代ぞやと、下の句なんやと思う?」
二人で机に国語の教科書を並べていた時、急に円に問われた桃吾はさながら頭にはてなマークが浮かんだような表情で円を見た。
「は? 草の戸も住み替わる代ぞ雛の家やろ?」
今読んだ俳句ももう忘れてしまったんかそんなんで受験大丈夫かと思いながら、桃吾は正しい五七五を読み上げる。
「雛が旅立つやろ。なら、替わるんはなんやろなぁ思て」
発言の意図を説明されて、桃吾は問いかけの狙いを悟る。この俳句は旅立つ松尾芭蕉が長らく住んでいた家を旅立つ時に詠んだものだ。上の句の「草の戸」が松尾芭蕉が住んでいた頃の家を、下の句の「雛の家」が新たな住人が雛人形を飾る様子を示している。
つまり円は、雛桃吾が旅立ったら巴円の周りはどう変わると思うか、桃吾に尋ねたのだ。
円がアメリカに行くと行って連絡を絶ってからも桃吾は日常生活を送っていたが、円はずっと病院だった。だから、桃吾がいない日常生活というものに対して、いまいち想像が追いつかないのだろう。
「円」
「おん」
「五文字でまとまる気、せぇへん」
意図がわかったとは言え、桃吾に俳句の才能があるわけではない。自分が大阪を旅立った後に円の日常がどうなるのか、練習に励む日々になるのだろうということはわかっても、それをたった五文字に圧縮する術を桃吾は知らない。
だが、円に提示された形とは異なるものの、思いついた上の句は一つある。
「やから、約束と住み替わる世ぞ雛の家、や。雛がおらんくなっても約束が最初にある。なら……」
桃吾が旅立った後の日常が円にとってどういうものになるかはとても五文字に固められない。けれど、旅立つ前に渡した約束はその場を離れても二人の目の前に掲げられている。
日常から雛がいなくなっても、何も残さず旅立つわけではない。
「なら、約束守らんとなぁ」
「おん」
円の笑顔は燃える炎のように明るくて、それはなによりも円に似合っている表情だった。桃吾が教科書を置いて握りこぶしを突き出すと、円も同じく右手を握ってこつんと突き合わせる。
「桃吾もちゃんと甲子園こなあかんで。わししかおらんかったら約束守れへん」
「わかっとるわ!」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は高校合格という約束を果たすための第一歩に向かって教科書を取り勉強に戻る。
離れてもなにより強い道標となる約束は、一緒にいる今の時点でも二人の間に希望の光を灯していた。