蒼き埋葬「彼の国と戦争になる」。扉を開けるなり彼は僕にそう告げた。
どうやら軍法会議が終わるや否やこの雨の中傘も差さずやってきたようで、ノブに乗ったままの手からは決して少なくない量の水が重力のとおりに滴り落ちている。晴れ男の彼からは想像し難い光景だ。
いつもの屈託のない笑顔と鬱陶しい大きさの花束を家に置き忘れたらしいツカサ聖騎士長殿は、目を見開いては呆然と立ち尽くす僕を少し伏せた瞳でただ真っ直ぐに見据えていた。
まず、何故それをわざわざ僕に? 貴方の告白をもう数年も袖にし続けて、最早腐れ縁と変わりなくなってしまった僕の元に。喉までそう出かかった言葉を既の所で呑み込んだ。ああ、そういえばこの人には肉親も縁者も居なければ病弱の妹君とも数年前に死に別れたのだった。寄る辺がこんな引き篭もりの魔導士にしか無いだなんて、普段の苛烈な戦いぶりしか知らぬ者からしたらさぞ驚きだろう。
何せ王国の英雄と名高いこの聖騎士長殿の実態は、孤児として妹と共に国に拾われ、妹の身の安全を担保に戦いにその命を捧げる天涯孤独の戦闘兵器だ。
…その唯一の光すらも、もう彼には残っていないと言うのに。
僕の逃げ道を塞ぐかのように玄関先から動かない彼の背に、耳鳴りなのか雨音なのかも分からないノイズが囂々と響き渡る。
雨足は絶えず、寧ろ強まっているというのに、何を期待してこんなところまで来てしまったんだ、貴方は。こんな時にかけるべき言葉なんて、それこそ僕が知る由もないじゃないか。
貴方と違って、僕は人を慰める事も元気づける事も、ましてや自分の心すらも言語化出来やしない欠落した人間だ。今でさえ「冷えますから上がってください」の一言も言ってやれない。
「…理解出来ませんよ。愚かしい行為だ」
「そうだろうな。それこそが、あなたが幸福である証だ。オレは誇らしい」
そう、理解出来ない。どこか満足気ですらある彼の思想も。この皮肉たっぷりの僕の台詞は決して彼を煽るための文句ではないのだ。
―――〝彼の国〟がかねてより小競り合いの絶えない真隣の皇国を指すだろうことは、軍事に疎い僕にだって分かる。
そして、圧倒的な国力の差も。
これは『戦争』ではなく、『降伏を前提とした蹂躙』になるだろう。王も恐らく最終的には自身の首を差し出すつもりで――稀代の暴君として時代に名を刻む辱めをも受け入れてなお、この戦を仕掛けるのだ。戦わずして無条件降伏など疾うに出来る頃合いでは無く、共に地獄へと向かう兵士達を数千と道連れにして、それでこの国の歴史は終わる。そんなのは彼にだって分かっているのだ。
つまり彼は、
「…死ぬ為に、往くんですか」
命を喪うことを目的として僕の元を発つ。これは決定事項であり、確定した未来の話だ。だからこの問いはやはり疑問ですらなくて、確認作業でしかない。
末路の知れた国の体裁の為に、大勢の人間が死ぬ。謂わば時代の生贄なのだ。それを分かっていて死地に向かう狂った人間共のことなど、理解出来ない僕の方が正常である。
―――…はずなのに、ね。
僕からの予想外に真っ当な質問に彼は驚いたように目を丸くしたあと、「…変わりませんね、魔導士殿は」と少しだけを眉を下げて続けた。
「…サキを待たせているんです。それに、この命は国に捧げたものですから」
「その国が…無くなる事が分かっていても、ですか」
「そうです。それに、この国にはまだあなたが居る。オレにとってはそれだけで十分な理由だ。」
「…皆殺しになるかも知れないじゃないですか。生きて守ってやろうとは思ってくださらないんですか? 敗戦国の民草の末路なんて、高が知れているでしょう」
「そうならないように、オレ達が可能な限り敵兵を殺しに行くのです。あなたが思うほどただ悪戯に命を棄てに行く訳じゃない。――それに、あなたはただ黙って守られてくれるような、か弱い人ではないだろう? だから、……もう、良いんだ。」
「よくもまあ……それが五年間口説いた人間に最後に掛ける愛の言葉ですか? …薄情者。」
彼が並べ立てる〝言い訳〟の数々に逐一言い返してしまう自分が厭になる。こんな有様だから自分からは人が離れていくというのに。
思えば出会った当初は彼とも言い合いが絶えなかった。僕は頭の回転が早いだけだけれど、彼は感情で口がよく回るタイプだった。水と油で例えるならば、僕は水側といったところだろう。
それももう七年前になるのか。ついでにまだあどけなさの残る年齢だった彼の表情まで思い出されてしまって、少し吐き気が込み上げてくる。
新雪を土足で踏み荒らすかのような、感傷ともまた違った不快感だった。
「口説いたからこそだ。無駄ではなかったということだろう? オレにはもう何も残ってはいないが、あなたが心の隅にでもオレを置いてくれるなら、この命にも意味があったのだと思えるんだ。ああ、――本当に、実に…良い人生だったな。」
僕の思惑など知る由もなく、彼は一言一言を食い締めるように語りながらそう笑う。
諦観。勝手に人生の終幕を決めておきながら、それでいて、彼の生きる理由の最後の一本の糸。それは僕が彼の求愛を断る時のそれと全く同じ顔で。
くだらないと一笑に付するには、僕はあまりにも〝君〟を知り過ぎた。
「(…そうなのか。君にとっての僕は、鎖になり得る、のか。)」
そうぼんやりと、胸の内に不思議な実感が湧いた。
何物も顧みず歩みを止めない君を、こんな僕の存在なんかで立ち止まらせることが出来る、のかも知れない。
こんな思い上がった空想は、間違いなく君が僕に気付かせたものだった。君との七年を、誰が忘れたとしても、僕はしっかりと覚えている。僕の中心にちゃんとある。
彼の足元は服から滴り落ちた雨で水浸しになっている。まだ二本の足で立っている。ここに確かに生きている人間だ。
「(ああ…どうして、今頃になって、気付いてしまったんだ)」
目が眩む。ここに君を繋ぎ止めたい。どうかかけがえの無い命を惜しんで、泥臭く、意地汚く逃げ延びて生きて欲しい。そして叶うなら、それは僕とであって欲しい。
誰に赦されなくても良い。どうせ滅びる国だから。死ぬまで追い立てられても構わない。その瞬間まで命が伸びるだけで十分な救いだ。
何でどうして僕は、いつもこんなに愚かなのだろう。声も指先も震えて仕方ないから、袖口をぎゅうと強く握りしめた。
この感情に名を付けても良いのなら、それは、君が僕に与え続けてくれたものだ。
嗚呼、これこそが、こんなちっぽけなものが、僕の命の理由だったのか。
こんなにも真っ直ぐ、こんなにも豊かな心を持って、こんな僕を愛してくれた。
運命に呪われながら、聖人君子の如く何事も許し、目に映るすべてに優しさを蒔き、それでも数日後には惨たらしく肉の塊に成り下がる。
こんな悲劇が〝君〟にあっていいのだろうか。
気付けば僕の口から、信じられない言葉が生まれていた。
「…、僕が、行かないでと言えば、変わりますか」
「…魔導士、殿」
「僕が、君を喪いたくないと、言えば……」
口を開いた途端に視界が滲み始める。後悔が溢れて止まらなくなって、こんなにも苦しい思いを僕は彼に何年も強いていたのだと思い至ると、それは更に酷くなった。
「今更虫の良い話だとは…分かっているんです。それでも僕は、君と過ごす日々が何よりも好きでした。これを愛と呼んで良いのなら、僕の心はきっともう、ずっと前に……」
その先を伝えたいのに息が詰まってしまった。嗚咽と目から零れる雨が止まってくれない。何より、僕にそれを口にする資格があるとは思えなかった。
愚直で忠義に篤い彼が王命に逆らうはずがない。僕が引き留めても無意味なことも、本当は分かっているんだ。非合理で、こんな言っても仕方のないこと、でも、言わないと、彼は知らないまま消えてしまうから。
そう、だって僕はつい七年前まで、こんな人間ではなかったのに。
短いばかりの人生を独りきりで浪費して、せっかく何千冊という本を読み、凡ゆる魔法を学んできたというのに。自分がこんなに愚かで醜いいきものだったなんて、君に出会うまで識らなかった。
「っ、す、好き、です…っきみが、ぼく、は…っ」
「…嗚呼、あなたは酷いひとだ、…ルイ殿……」
そこまで何も言わずに黙っていた彼が、とうとう身を乗り出して僕を胸の内に抱き留めた。いつもなら適当にあしらっていただろうそれを、僕も甘んじて受け入れる。
ぐっしょりと濡れて冷えた筈の身体は、予想に反してあたたかくて、陽だまりのようなかおりがした。
「っ、未練、でしょう、ぼくが…」
「ッ…そんな顔で泣くな…これから死にゆく男に、後悔を与えないでくれ…」
「…嫌だよ…他には何も、要らないんだ。君だけが居てくれれば、ずっと……」
「………」
「っそれでも、きみは、行くんだろう」
「…はい」
「あ、謝っても、くれない…っ、僕をここまで、変えて、おいて…!」
「……、はい」
短い返事の度に、彼の抱きしめる腕の力が徐々に強くなっていく。それに応えて僕もおずおずと彼の背に腕を回した。生まれて初めて人を抱きしめたものだから、不恰好かも知れないけれど。
息を食い殺しながら、苦しげに返事をする彼が痛々しくて愛おしくて、ただ怖かった。離したくないと思ってくれているのなら、本当にそうしてくれれば良いのにと、喉まで出かかった言葉を溢れる涙と共に何度も飲み込んだ。君と同じように。
「……オレの名前を、呼んではくれませんか。ルイ殿」
ぽつりと彼がつぶやいた。
祈りのような声色で生み出された言葉が僕の脳を鈍く揺らす。
名前。そういえば、僕はここに至るまで一度たりとも、彼を友人としての名で呼んですらいなかった事を思い出した。
肩を抑えながらゆっくりと身体を離され、正面の彼の目が僕だけを映し出す。
綺麗な綺麗な、透き通ったカナリアの羽のような色に浮かぶ、僕の夜更けの空のような曇った色彩。
あまりにも正しくて、自分が肯定されたような気がした。…ずっとそこに、僕を閉じ込めていて欲しかった。
「……聖騎士長、殿…」
「オレを呼んで、教えてくれ。あなたの想いを、オレに持って行かせてくれ。」
普段の声量の半分にも満たない言葉の塊が彼の吐息とともに僕の唇に触れる。
するりと愛おしげに頬を右の手のひらでなぞられながら、左手は僕の右手にゆっくりと絡まっていく。
珍しく眉を下げながら目元を歪ませて、いつもよりずっと熱の灯る視線で僕を見据えている彼。
僕は耐えきれず、大粒の涙をいくつも潰しながらしずかに瞼を閉じる。もう、何も取り繕えなかった。
「っ、…ツカサ、くん……いかないで……僕を置いていかないで……ひとりに、しないでくれ…」
「…、ッ……、ルイ…!」
「ん、…っ!」
「…、は……ルイ…」
僕の答えが途絶えた瞬間、性急に唇が重ねられた。
噛み付くように強く押し当てられて、はあと息をつけばすぐに角度を変えてもう一度。そのまま熱い舌を差し入れられて絡められて。くちゅりと響く何十もの水の音が雨の音までも上書きしていく。初めて聞くような高揚したツカサくんの乱れた息が、浮ついた僕の思考を更に狂わせる。彼の鍛えられた肩に何とか腕を回してしがみ付くだけで精一杯の有様だった。
初めて知るキスがこんな荒々しいものになるだなんて、それも君とだなんて、昔の僕ならきっと信じられなかっただろう。
やがて腰が抜けてガクンと膝を落とした僕をツカサくんが抱きかかえる。一国の姫のような体勢にされながらキスは絶えず落とされ、そのまま部屋の隅にあるベッドの上へいつの間にか押し倒されていた。
「ぁ、ふ…っぅ、ツカ…っ、く…」
酸欠か他の何某かで高鳴る心音。彼も同様なのが何故か手に取るように分かる。
キシ、と初めて二人分の重さを受け止めたベッドが悲鳴を上げる頃には、彼の背にかけた手はいつの間にか、縋るように布を引いていた。
まるで、星に手を伸ばす子供のように。
「……あなたの身体に、オレを遺しても良いか? …ルイ」
「…から、だ…」
ツカサくんが、着けていたグローブを歯で噛んでゆっくりと外していく。
訓練でも頑なに外そうとしなかったそれは、騎士長に就いた際の王の恩賜の品だと聞かされていた。そんな彼の命にも代え難い筈のそれを、彼は両手分合わせて優しくベッドサイドへ置いた。彼なりの覚悟の表れだということは僕にすら分かる。
彼が僕に、何を求めているのかも。
「…あなたを抱きたい。誰も、あなたすら知らない場所をオレに暴かせて欲しい。自己満足の我儘だ。…不誠実に、思われるだろうか」
「…ううん…大丈夫…分かって、いるさ」
そう答えながら、想像していたよりずっと綺麗な手のひらを両方とも自分の胸へ充てがった。
服越しにも関わらずひゅっと息を呑むツカサくんの反応に多少の満足を得ながら、開いた脚を彼の腰に女のように絡めて見せる。互いの熱の中心が一瞬だけ擦れた瞬間、どちらの腰もびくりと跳ねた。思わずあっ、と甲高い息を上げた僕を、欲に細められてなお獣のように光るツカサくんの目が見下ろしている。
「っ、良い、のか? …加減出来る気が、しない…」
「良いさ、…僕が許すよ、ツカサくん。どんな君でも、僕は大丈夫だから」
「ッ……ルイ、……あり、がとう」
「…僕の、台詞だ」
「ルイ……愛しいルイ。…叶うならオレがあなたの盾になりたかった。あなたが命を終えるまで、生涯をあなたの為に尽くしたかった…。…許してくれ……」
ありがとう、なんてこの場に似つかわしくない優しい言葉が空気を揺らす。苦しそうに喉を震わせるツカサくんの頭を撫ぜると、戸惑ったように一瞬だけ瞳が揺らいだ。
何も悪いことなどしていないのに謝り続ける彼と、一粒だけ頬に降ってきたあたたかい雨粒。それに気付かないで済むように、頭を強く引いてまた彼と深く唇を重ねた。
言葉なんて要らない。君が僕に君を刻むと言うのなら、僕だって同じようにその命に爪を立ててやろう。何度生まれ変わっても消えないくらいに抉ってやる。それくらい、僕だって望んでも良い筈だ。
外は宛ら嵐のようで、水と風が窓をガタガタと打つ音が部屋を覆い尽くそうと絶え間なく怒る。それでも、僕らの声と彼の祈りは侵されずここに響き続けていた。