陽は堕ちず/1「兄上。ご機嫌はいかがですか」
日に二度の食事。そのどちらかに必ず訪れる、甲高い金属音。――彼の脚に取り付けられたスティルトが奏でる不協和音は、首に繋がれた鎖よりもずっと高く、不愉快な音楽だった。
「幽閉生活の調子はどうでしょう。楽しい? たまに見にきてくれるありがたさってものを理解できましたか。僕が兄上をどれだけ恋しがっていたか分かった? ……ああ、しかし日に日に痩せていきますね。一日三食に戻して差し上げましょうか」
長々とよく口が回る。柔らかい声色を作り、しかしそれでも、こちらを嘲るようなニュアンスの発声までは隠しきれていない。
――「ヘレル」。僕の弟。唯一無二の家族。そして僕をここに幽閉した、最も憎むべき男。その彼が、食事の乗った皿を持って檻の外へと立っている。
「いらない。日に二度も、君と顔を合わせるなんて。さらに痩せてしまう」
「酷い。兄上のことを思って言っているのに」
がちゃりと音を立て、檻が開かれ、すぐに後ろ手に鍵まで締められる。万が一ということがないように――僕に奪われることがないように、いつもその鍵を、床に落とす。その度に僕は舌打ちをしたくなる。けれど彼はそんな僕の様子にも気付かないふりをして、食事を持ったまま僕の側へと近づき、側で膝をついて、食事の乗ったトレイを床に置いた。
「手枷を外しましょうか」
「……今日はいらない」
「そう。食べさせてあげてもいいんですよ」
彼の言葉を無視して、手でトレイを引き寄せて持ち上げ、膝の上に乗せる。……ミートパイをフォークで切り分け、口に運ぶ。咀噛する。飲み込む。香辛料で誤魔化されているが、上質な肉ではないことが分かる。
その様子をじっと見つめてくる弟に気付いて、眉間にシワを寄せた。
「……なんだよ」
「いいえ、別に?」
「見て楽しいものじゃないだろ」
「……楽しいよ」
ふっと笑って、彼は膝をついたまま、僕の側へとずりずりと寄ってくる。思わず身構えると、「何もしないさ」と言って肩をすくめた。
「僕は美味しいと思ったのだけど、兄上はそうは思っていないのだなと考えて。それが嫌だと思った。それだけだよ」
「……」
何を言わんとしているのか、僕にはわかる。少し前――僕がここに幽閉されるまで、今この場所に居たのは、彼だった。彼は、……ここで出される食事に満足できる味覚なのだ。
心底、彼のことを殺しておけばよかったと、そう思う。十年前……僕が王位に就くことになった時。彼の暴力性と、僕の双子の弟であるという立場を危険視した家臣と僕によって、彼はこの場所へと幽閉された。
お互い、物心はすでについていた。檻の向こうから手を伸ばし、兄上、兄上と泣き叫ぶ彼の顔を忘れたことはない。
それに絆され、僕は何度も――それこそ、十年間。ずっと定期的に、彼の元を訪れ続けた。
最近の流行りものの話をしたり、自分で勉強できるようにと本を差し入れたりした。けれど彼は、いつもそれに悲しみと恨みの籠った目で応対した。
流行りものの話なんて興味がない様子で……檻の向こうで貪欲に本を読み漁る彼に向かって、僕は……何度、「この手」を使おうと……思ったことか。
十年前。彼をこの手で殺していればよかった、と。
彼から恨みと歪んだ愛情を向けられている事に気がついたとき、僕はそれを「当然だ」と思った。彼は十年間、僕と数人の世話人としか接してこなかったのだから。
愛情を向けるべき矛先は、肉親……僕ひとりしかいない。だから僕に、すべての欲をぶつけてきた。家族に向ける愛、友人に向ける愛、そして恋人に向ける愛、それらすべてをだ。
接し方を間違った。その一言に尽きる。下手に愛情を注いでしまった。彼に無視されようとも……檻越しに、彼の伸びた髪を櫛で整えてやったり、読み方が分からないという本の文字列の読みを教えてやったり。まるで子供の世話をするみたいに、彼の面倒を見てしまった。
けれど彼は、その愛情を「恋愛的なものだ」と勘違いしてしまったようだった。
『兄上。兄上、行かないで』
――彼はたまに、去ろうとする僕の背に向かって、そう呼び止めていた。
『行かないで。どうか、側にいて。少しでいい、いいんです、お願い……』
――僕はその声を聞いても、振り返ることはなかった。
彼が、僕を愛している事を知っていても。僕が彼に抱いている感情とは、全く違うものだとしても。そして……自分の立場を理解していて、それを逆手に取った狡猾な方法で、僕を籠絡しようとしていることだって、知っている。
――愛していた。家族として。だから、殺したくなかった。幼い頃に共に遊んだ記憶、母の腕に抱かれて笑いあったあの日……何年経とうとも覚えている。
フォークを置いて食事の手を止めると、彼は僕の前に座ったまま、じいっと――顔の上半分は仮面で覆われているが、それでもわかる――僕の様子を伺っていた。
「兄上」
「……何」
「僕を殺さなかったこと。まだ、後悔してる?」
その問いに、僕は一瞬だけ黙ってから、口を開いた。
「君を殺したところで、僕はここから出られない」
「そうだね。でも……僕が生きている限り、君はここを出ることはできない。それは事実だ」
どちらにせよ「詰み」だった。檻に繋がれた首輪では、あの扉にはどうやっても辿り着けない。……協力者が必要だ。この叛逆者を――僕を蝕む、「日蝕者」を排除し、また陽の光として再臨するためには。だが、今の僕には……。
「……兄上。僕はあなたを、愛しています」
その言葉に、僕は息を呑む。
「……君の言うことは信用できない」
「どうして。……あなたも、僕のことを愛しているのに?」
そんな言葉を吐いて、彼は下唇を噛む。昔からの癖だ、気に入らないことがあると拗ねて、唇を噛む。
「兄上は僕とお話しなんてしたくないんだ。わかってる。僕が「そう」なっていた時も同じだったから」
ぼそぼそと、心の底から残念そうな声を作る彼。……以前はよく、唇を噛むのを見ていた。ここ数年はそれを止めさせられたと思っていたのに……まさか、「謀反を企てていたから、ずっと機嫌がよかった」のだなんて。誰が想像できるものか。
「愛していない」
「嘘つき」
「……僕は君を、憎んでいる」
「酷い人だ」
「そう思うなら、出ていけよ」
「嫌。嫌だ。絶対、出て行かない。……まだ食事も終わってないだろ」
「……食べたら、出ていくんだな」
食事を再開するためにフォークを手に取る。なまくらで、刺し心地の悪いこれでは、彼の肌どころか衣服すら貫けないだろう。そう思いながら、美味しくもない食事を腹に詰め込んでいく。
「兄上。ねえ、兄上」
「うるさい」
食事中も彼の声は止まない。この牢から脱して、民の「扇動者」として再教育された彼は、昔よりずっと、話すことが好きになったようだった。
それに気分を害されながらも、ようやく食事を終えて、薄いスープを飲み切ったときのことだ。
「愛しています」
ヘレルが囁く。
「僕はずっと、あなたのことが好きだった。だから、あなたが王になると、冠を掲げることになると決まったのが、嬉しかった。兄上の剣として、兄上の隣に立つことができるんだ、と。……けれど兄上は。兄上は、どうして? どうして僕を。こんなところへ?」
……僕の姿を模った、趣味の悪い調度品たちが僕を睨みつけてくる。彼が部下たちに命じて、この「鳥籠」の外に集めて来させた彫像の数々。自らを神として崇めさせたのだ、このような調度品が作られるのも当然だ。
それでも、今はそれが――僕の顔ではなく、彼の顔に、見える。
「僕こそが兄、お前の太陽だ」
ぼそりと呟く。弟の、「日蝕者」の笑みが深まった。それを見て僕は……唇を噛む。
「――腰のナイフを寄越せ。今すぐこの首を掻き切り、お前に「落日」を見せてやろう!」
そう啖呵を切って、僕は勢いよく立ち上がった。がらんと落ちていくトレイ、転がるフォーク。一転して、見下される立場となった彼だったが……彼は慌てる様子はない。それどころか一層笑みが深まり、嬉しそうな顔をして、立ち上がってみせた。スティルトを履いた脚のおかげで、今度はまた僕が見下される立場となる。
「――あぁ、そう来ないと! 舌を噛み切る勇気もないくせに! 兄上、その調子だ、もっと驕り高ぶってみせてよ!」
彼の手が伸びてきて、僕の顎を掴む。ぐっと力が込められ、僕は抵抗しようと腕を伸ばすが、両手首を拘束する手枷の鎖を掴まれて、抵抗ができなくなった。そのまま強引に引き寄せられる。間近に迫る、血を分けた弟の姿。
「兄上。――兄上に、落日なんて、訪れない。僕が……ずっと。一生。ここで、兄上を護ってあげる。愛しています、兄上」
唇が重なる。鉄臭い味がする。……僕は、彼のことを、憎んで、いる。
そう自分に言い聞かせて、僕は強く目を閉じた。