生誕 いつもと違う靴音が聞こえてくる。ややふらついていて、まるで酔っ払いのような靴音だ。誰のものだろう。侵入者か、と警戒を深める中。現れた姿に、僕はすぐに納得した。
「あにうえ、こんばんは、調子はどう?」
ふにゃふにゃな声色で、檻越しに声をかけてくるヘレル。腰の鍵束から錠の鍵を探す手すら覚束ない。どうやら……かなり、酔っているらしい。扉を開けて鍵束を掴んだまま、ふらふらとこちらへ歩いてくる。
本を閉じて、本棚へと戻して。椅子の側に座り込んだヘレルを見る。顔どころか耳まで真っ赤だ。吐息も荒く……酒臭い。
「ぇへ、へへ……きいて、あにうえ。僕ね、誕生日のお祝い、してもらったんだ……」
……誕生日? ……僕が知る限りでは、まだ先のはずだ。何せ双子なのだから、当然のことだけど。不思議そうにする僕の視線で気がついたのか、ヘレルは僕の膝の上に頬を乗せながら彼は言う。
「僕の。僕だけの誕生日。「明けの明星」の生まれた日だよ。みんなが、ね、覚えててくれたんだ……ん、ふふ、ふは、あはは……」
……楽しげに声をあげて笑う彼を見ながら、……僕は深く溜め息をついた。
……ただの、自慢話か。
「それは良かったね。おめでとう」
嫌味を込めてそう言うと、ヘレルは僕の膝の上でけらけらと笑い出す――気分が悪い。酒臭いしうるさいし……一体誰が彼にこんなに酒を飲ませたんだ。
「んふ、ふふ、ありがと……にいさま。……にいさまは? 僕になにか、プレゼントをくれないの? 今日はみんな、お祝いしてくれたんだよ。豪華な食事、美味しいお酒、宝飾品とか、趣味の悪い置物とか……アハ」
僕の立場をすっかり忘れているらしい弟は、ずっと上機嫌なままだ。膝に頬を擦り寄せ、鼻歌なんて口ずさんでいる……。
「……思い出せよ。僕には、お前に与えられる「もの」なんて、何も持ってない。何もないんだよ」
彼の頬を撫でながら、声をかける。ヘレルはにっこりと笑って、「だよね」と呟く。理解していて、要求していたのか。まったく性格が悪い。それに……僕が素直に、「日蝕者」の誕生を喜べるわけがないのに。
「くちづけのひとつだけで、喜べたのに」
そう呟いて、ゆっくりと立ち上がったヘレル。覚束ない足取りで僕に覆い被さるように、無理やり膝の上に座ってくる。構わずキスをしようとしてくるのを、手を掴んで引き剥がした。
むっとして睨む彼を、こちらも睨み返す。ゆっくりと深呼吸して――そして僕は言ってやった。
「お前はこの十年、僕の誕生日を祝ったことがあったか?」
「……」
一瞬の間。彼は少しバツが悪そうな顔をして視線をそらす。それだけで充分だった。
……「生まれたことを、まともに祝われること」。そればかりに目がいって、僕のことを忘れていたのだと、ようやく気がついたようだ。
今までの……幽閉していた頃の彼は、僕の持ってきた誕生日のプレゼントは「そんなのいらない」と跳ね除けようとしたし、少し豪華な食事を出しても、いつも通り、無表情のままに食べるだけだった。まるで喜びという感情が抜け落ちてしまったかのように。
そして……同じ日に生まれ落ちた僕に。祝いの言葉なんて、口にしなかった。
そんな彼が、素直に喜んでいる姿を見てしまって……喜ぶよりも苛立ってしまった。……傷口を深く、深く抉られた。そんな気持ちでいっぱいだった。
「……ごめん」
謝罪の言葉がぽつりと、零れた。それっぽっちで納得できるわけがない。謝るくらいなら――いや。彼の性質上、もうこれはどうしようもない。諦めに近い感情を無理矢理飲み込んで、そっと唇を合わせてやる。……ただ触れ合うだけの、軽い口付けだった。
「今のお前にお似合いな「プレゼント」は、このくらいだよ。……退いて」
そう言って、彼の胸を押す。ヘレルは抵抗することもなく素直に離れていった。
そして――小さな声で呟くように口を開く。
「……十年分の贈り物を、……言葉を返したら、祝ってくれる?」
そう尋ねてくる声は震えていて、表情も……仮面をつけてはいるが、とても不安そうだった。
長年抑圧された感情を持て余しているのだろうと、すぐに分かった。僕に対する期待や希望があったのが、分かってしまった。
「……いやだ」
首を振って拒絶する。彼を喜ばせる言葉を返すつもりは、毛頭なかった。そこまで優しくするつもりもなかったし――僕は彼が期待するような、良い兄じゃない。それは僕自身でもよく分かっていることだ。
もう僕もヘレルも子供じゃない。立派な大人だ。いちいち互いの誕生日を祝い合うような年齢は過ぎた。
……なにより、も。
「お前は、ずるいよ」
思わず、目頭が熱くなる。ずるい。ずるいよ。僕とずっと「同じ」だったのに。一人だけ、新しい「誕生日」を手に入れた、だって?
そんなの。……許せない。
悔しくて、悲しくて。様々な感情が入り交じって。泣きたい気持ちでいっぱいになったが――ぐっと堪えた。泣いてなんかやらない、そんな情けない姿を、この弱味を、こいつにだけは見せてやるものかと歯を食いしばった。それなのに。
ただ黙ったまま。僕の顔をじっと見つめていた彼が、やがて静かに、僕を見下ろして言う。
「寂しいよ」
……その一言だけで、駄目だった。ぼたぼたと大粒の涙が溢れ出してきてしまう。どの口が。本来それは、僕のセリフだろう。
散々祝われて、上機嫌でここに来て、自慢話をしたお前が、その言葉を発していいと思っているのか。
手で涙を何度も、何度も拭う。それでも涙は止まってくれない。しゃくりあげながら僕は声をあげて泣いた。こんな情けない姿を見られるなんて――泣き止みたいのに涙が止まらない。
恥ずかしい。屈辱だ。怒りでどうにかなりそうだ。
僕が与えられなかったものを、いつか与えてもらったものを、ヘレルが持っているのが、奪っていったことが、悔しくて仕方なかった。
「……今日は、帰るね。……ごめん、兄様……」
今にも泣きだしそうな声でそう言って、ゆっくりと部屋を出ていくヘレルの後ろ姿を睨みつけながら……僕は、考える。
十年。十年分の、贈り物。……僕の居場所と化したこの檻には、彼へ贈ったものなど、何一つ残っていない。
彼がここから逃げ出したとき。いつ帰ってきても――いつ捕らえても、もう一度閉じ込められるように――大切に、残しておいたのに。彼はそのすべてを、既に処分してしまっているようだった。
時の流れは重く、冷たいものだ。
彼にとっての誕生日とは、憎むべき兄たる僕への恨みを深める日。二人で笑い合った思い出は薄れ……そして今日、とうとう、僕という存在の誕生日すら忘れて。
ああして、祝いの言葉をねだりに来た。
その事実が、僕の胸に深く突き刺さる。……同じ日に、同じ腹から生まれてしまったせいで、僕たちは、何もかも損をしている。
自分達は、「望まれて生まれてきた人間なのだ」と、周囲に認められ……愛されて。生まれたことを喜びあう。僕の、「僕たちの誕生日」は、そんな日だったはずなのに。
……あんなに楽しげにここへ尋ねて来たんだ、相当に派手なパーティーでもしたのだろう。羨ましい。羨ましい、羨ましい。
……そんな浅ましい欲を隠せない自分が、大嫌いだ。
「……くそ」
吐き捨てて立ち上がり、座っていた椅子を思い切り蹴る。本棚を横倒しにしてやって、水差しの瓶を遠くに放り投げて割り、グラスも同じように檻の外へと投げつけた。パリンと甲高い音を鳴らして割れる。気は晴れない、ちっとも。
……そうして、寝床とも呼べない筵に腰を下ろし、薄い毛布を被って丸まるように横になる。
もういい、知らない、何も。……いつか、裏切りの代償を、支払わせないと。「同じ獣だ」と宣っておきながら、人間としての生を楽しんだあいつに。……復讐の誓いを立てながら、僕はぎゅっと強く、目を閉じた。