均一で隙のないナパージュ デカい口でこれまたデカいハンバーガーにかぶりつこうとしたエペルの目線が、ふとオレの手元で止まった。
「エースクン、それ……お店でやってもらったの?」
「んぁ? いーや、自分で塗ったけど」
「自分で? へぇ、すごく上手だね。ヴィルサンが麓の街に評判のネイルサロン? があるって前に話してたから、てっきりそこに行ったのかと思ったよ」
昼時の食堂は今日も相変わらず盛況だ。一年の頃はまとまった空席を探すのが毎度大変だったけれど、二年に上がると、何も言わなくても新一年生がほんのり顔を赤くしながら無理やり席を詰めたりテーブルを空けてくれるようになった。斜め向かいで豪快にハンバーガーを頬張るエペルは、遠くからうっすら聞こえてきたシャッター音にも気づいていない。
すぐにその方向を睨みつけると、どこかの寮生がそそくさと逃げて行くのが見えた。けれどもうすぐそこまでジャックが向かっている。
「深い薔薇色なんて、ハーツラビュル寮生らしいチョイスだね。格好良いなぁ」
「分かる? オレもこの色一目惚れしたんだよね」
フォークをクルクルと回して、トマトパスタを巻き取る。
たしかに、昨晩塗ったこれは今までで一番ムラなく綺麗に仕上がったと思う。利き手側に塗るのもずいぶん慣れてきて、初めて店で見つけた時の深い赤色が、オレの指先でやっと理想通りに再現された。
そんな指先を眺めながら、良い気分で一口頬張った。
味気ない通話画面が、パッと深い緑色に切り替わった。
「ちょっと、つむじじゃなくて顔見せてくださいよ」
「おっと、そうだな。悪い」
小さなスマホの画面の向こうで、トレイ先輩は顔を上げて苦笑いした。
秋のはじまりに二年生へと進級してから、時間はあっという間にすぎた。季節はもう十二月の冬で、待ちに待ったウィンターホリデーも目前だ。
「トレイ先輩、やっぱり次のデートはクリスマスマーケットに行こうよ。ソーセージとかフィッシュフライとか美味しそうじゃない?」
「うん、いいな。薔薇の王国で一番規模が大きいのは、毎年俺の地元で開催されるんだよ」
「へぇ、じゃあそこ行きたい!」
画面の向こうで、トレイ先輩が「分かった」と笑顔で頷いた。
トレイ先輩が四年に上がり派遣された研修先は、仕事こそ忙しくても休みはきっちり取れるらしい。だからウィンターホリデーも学園と大差ない日数を与えてもらったと聞いた時は、なぜだか自分のことのように安心した。
自分がまさか遠距離恋愛に身を投じることになるなんて、正直付き合うことになった時は、結局よく分からないまま距離が開いていずれ自然に消滅する未来も想像できたのに。
思った以上に上手くいっていることが、なんだか不思議な感覚でもある。
「そうだ、これ見てよ。すげー綺麗に塗れてるでしょ?」
「おお、本当だ。はじめはもっとはみ出していたのに」
「エペルにも店でやってもらったのかって訊かれたんですよ。もったいないから、帰りに購買でトップコートまで買ってきちゃった」
昼間、エペルに褒められたこのネイルポリッシュは、トレイ先輩が研修に発つ前の最後のデートで買ったものだ。
深みがあって大人っぽいのに、塗るといつものように薔薇の剪定をしている気分になる。
何より、トレイ先輩と付き合うことになった時も、同じようにそばには真紅の薔薇が咲いていた。
偶然それを見つけた瞬間は、考えるより先に二つ掴んでいて、気づいたらレジで精算していた。
そんなオレにぽかんとしながらも、二つのうちの一つを押しつけられたトレイ先輩はどうしてもオレに金を払おうとしていた。しかし受け取ったら最後、大事に飾られるだけになってしまうことは目に見えている。だから何がなんでも拒否したら、結局その日の夕食はデザートまで奢ってくれた。
それでも、どうせいまだに蓋も開けていないんだろうけれど。
ツヤツヤな指先をまた眺める。画面の向こうのトレイ先輩は、今夜はやたらと下を向いている。
「まーたつむじだし。さっきから爪でも切ってんの?」
「いいや。塗ってるんだよ」
「何を?」
「何って、同じやつだよ」
当たり前だろといわんばかりの顔で、トレイ先輩はネイルポリッシュの筆を軽く掲げた。そしてまたすぐ下を向いた。
「……えっ!? 同じやつって、マジで塗ってんの!?」
「そ、そんな驚くか? お前がプレゼントしてくれたんじゃないか。それに、けっこう練習したからこんなに減ったんだぞ」
瓶も見せられる。その言葉の通り、それはたしかにオレがプレゼントしたというより押しつけたネイルポリッシュで、下手するとオレのものより減りが早いかもしれない。
「手に塗るのは俺には少し恥ずかしいけど、足なら人に見せないからな」
「ど、どうして何も言わなかったの!? つーか見せてよ!」
「い、今見せないって言ったよな?」
「なんでよ! オレはいいじゃん!」
「ああ、お前が驚かせるからはみ出た」
画面の向こうでずいぶん熱心に下を向く様子に、驚くような呆れるような気持ちでいたら、トレイ先輩が画面の端に目を向けて「あ」と言った。
「あと五分で消灯だろ? そろそろ部屋に戻れ」
「えー、見てないのに」
「また今度な」
「……はぁい。おやすみなさーい」
仕方なく最後に、いつものように投げキッスをプレゼントする。
トレイ先輩は、眉を下げて「大好きだよ」と微笑んだ。
所狭しと屋台が並び、見上げても足りないほど大きなクリスマスツリーが煌びやかに輝く。聞いていた通り、トレイ先輩の地元のクリスマスマーケットは一晩じゃ周りきれないほど大規模だった。
ソーセージにフィッシュフライ、ベイクドポテトに温かいぶどうジュースなどなど、色々な食べ物を二人で楽しんでいたら、ふと暗い夜空から雪が降ってきた。
「トレイ先輩……」
「ん? ああ、綺麗だな」
「……いや、寒くない?」
「なんだそっちか。仕方ない、そろそろホテルに戻ろう」
ロマンチックな情景を楽しむ家族連れやカップルの間を縫い、オレたちはそそくさと今夜泊まるホテルに戻った。
ホテルの部屋に着いたら、すぐに冷えた身体をシャワーでしっかり温めた。そして、かちゃかちゃとお茶の用意をしたがるトレイ先輩を交代でシャワールームに押し込む。
備えつけのカップに、持参したハーブティーの茶葉をセットする。そこにケトルで沸かしたお湯を注いでいると、さっきシャワールームに押し込んだばかりのトレイ先輩がもう出てきた。
「早くない? ちゃんと温まったんすか」
「元からそこまで冷えてなかったからな。というか、この香りは……」
「トレイ先輩、これ好きだったじゃん。持ってきてあげましたよ」
以前電話で、自分がハーツラビュルでよく飲んでいたハーブティーが研修先の近辺では売っていないと少し残念そうに話していた。それを聞いた時から、次のデートでは絶対に持っていこうと決めていたのだ。
今夜飲む分とは別に、今回のために奮発した缶入りのそれを渡したら、「おお」とトレイ先輩は驚きながらも嬉しそうな笑顔を見せた。
「ありがとう、エース。まさか持ってきてくれるなんて思わなかった」
「まぁね。オレってばデキる彼氏なんで」
「本当に嬉しいよ。いくらだった?」
鞄から財布を取り出そうとする、雰囲気もクソもない手を掴んだ。
「ちょっと、オレがダサいじゃん」
「でも、そういうわけには、」
「まぁもちろんタダとは言いませんよ。オレが研修に行く番になったら、その時は色々よろしくってことで」
財布を掴み損ねたその手に、ハーブティーのカップを乗せたソーサーを渡す。
トレイ先輩は渋々頷いてから、ハーブティーを一口飲んだ。
その隣に腰をおろす。ベッドのひんやりとしたシーツが、薄手のガウン越しに触れてだんだんそんな気分になってくる。
「色々って、たとえば?」
「うーんと、まずは毎日『会いたい』ってメッセージ送ってほしいでしょ」
「それは今でも送ってるじゃないか」
「これからもずっとですよ。あとはそうだなー、着信とかばんばん残してほしいし、たまにお菓子作って持ってきてほしいし」
「良いな、それ。リクエストがあれば言ってくれ」
「ほんと? やりー!」
「あとは?」
楽しそうに、それでいて幸せそうにオレを見るトレイ先輩の目がこんなにも心地良い。
見つめ返しながら、体重をかけてベッドに押し倒した。
「決まってるじゃん。デートは絶対泊まりがいい」
ほんの少し痩せた気がする頬を撫でる。キスしながらガウンを剥いで、腹の上に跨る。唇から顎へ、顎から首へ胸へと口づけて、乳首に軽く吸いついたら、やんわりと頭を掴まれた。
「何すんの」
「キスが足りない」
「またまたぁ。恥ずかしがっちゃって」
唇を重ねて、深くなると自然に舌が交わって、強く吸われると下腹部がぞくぞくと疼く。しばらくキスしていたら、トレイ先輩の喉仏がごくんと上下に動いた。
ガウンの中に入ってくる手が腹や尻をいやらしく撫でてくるから、避けるように身体を捩った。
「なんで避けるんだ」
「オレがすんの」
ほどよい厚みの胸板や、引き締まった腹筋を唇で辿っていく。凹凸や、しっとりとした肌の感触を唇で感じるのが気持ち良い。
「っ……エース」
「ん?」
「指が綺麗だな。ずっと言おうと思ってた」
トレイ先輩がオレの手を握ってそう微笑んだ。
今日ももちろん、爪先はあのネイルポリッシュで彩っている。なんならデートのために塗り直してきたくらいだし、トレイ先輩がずっと嬉しそうにオレの手を見ていたことにもちゃんと気づいていた。
「生で見るのは初めてでしょ? ねぇ、似合ってます?」
「ああ、すごく似合ってるよ」
「とか言って、オレの動きを制限して、主導権奪おうとしてません?」
「まさか」
するりと手を解いたら、トレイ先輩は「寂しいな」とやらしく微笑んだ。そんな足元を見たら、爪先に同じ赤があった。
「……へぇ、本当に塗ってたんすね」
「疑ってたのか?」
「そうじゃないけど、生で見るとちょっと嘘みたい」
ゴツゴツした足指のそのすべてに、あの日オレが選んだ真っ赤なネイルポリッシュが綺麗に律儀に塗られている。
トレイ先輩がまだ寮にいた頃、パーティーのために作られたイチゴのタルトを思い出す。ナパージュで艶出しした芸術作品のようなイチゴに、なんの躊躇いもなくナイフを入れる、そんなトレイ先輩の潔さを見ているのが好きだった。
身を屈めて、艶めく親指にキスした。こんなところからも、トレイ先輩の肌の匂いがするのだからたまらない。
ほかの指にもキスして、唇で食んで舌を伸ばした。
「っ、くすぐったいな」
「ん……」
「エース、そんなところ舐めなくていいよ」
髪を撫でてくる指先の力が、いつもより少し強い。
かまわずに親指を咥えた。舌を這わせたら、口の中でその親指がくんと上を向き、上顎を掠めた。
「っ、んっ……!」
「おっとすまない、痛かったか?」
「わ、わざとでしょ……」
「わざとじゃない」
脇の下に手を入れられて、ずるずると引っ張り上げられた。まるで寝巻きの子供を着替えさせるみたいな手際でガウンを脱がされる。
そんなわけないはずなのに、指をふくんだ口の中が、角砂糖を丸ごと一粒食べたみたいに甘ったるい。
「こら、置いていくなよ」
ゆるやかな弧を描く唇を、親指で撫でる。
トレイ先輩が、イチゴのタルトを一口食べた。