紅に染む 薄闇の中、微かな月光が窓辺を照らしていた。三島一八はベッドの縁に腰掛け、片手で顔を覆っている。肩を上下させる息遣いが荒い。風間準は、静かに彼の前に膝をついた。
「また、ですか」
小さな声だったが、確信を持った口調だった。一八は応えず、手のひらの奥で鋭く息を吐く。
「何も言わないつもり?」
彼女の声には怒りはない。ただ、僅かに滲む寂しさが、一八の胸を締め付ける。
「……言ったところで、変わるわけではなかろう」
「それでも」
準の指先が、一八の手の甲にそっと触れた。温もりが、火照った皮膚にじんわりと広がる。
「あなたが今、何を感じているのか、聞かせてほしい」
一八はゆっくり顔を上げた。夜の闇がその瞳に宿っている。光を飲み込んだかのように深い、赤黒い眼差し。
「……喉が渇く」
本来の意味での渇きではない。痛いほどの準は理解していた。
「理性はある。でも、どこか遠くで、もう一人の自分が喚いている」
「──欲しい、と?」
準の問いに、一八の眉がわずかに寄る。
「お前まで、そんなことを言うのか」
「隠さなくても分かるんです」
言葉を交わすたび、一八の中で抑え込んでいたものが揺らいでいく。押し殺していた衝動が、理性の壁を叩く音がする。
「……お前が、近くにいるからだ」
低く、掠れた声だった。準は目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「違う。きさまのせいではない」
一八は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。指先が肌に触れると、準の身体がわずかに震える。
「俺が抑えきれないだけだ」 言葉の端に、自嘲が滲む。
「だったら」
準は、その手の上に自分の手を重ねた。
「はっきり拒んでもいいんですよ。嫌なら出ていきます」
一八の指が、一瞬強く彼女の頬を押した。けれど、すぐに力を抜く。
「……それができたら、苦労はしない」
そう言った彼の声は、驚くほど弱々しかった。
目の前の男が見せるその姿に、胸の奥が締めつけられる。普段の彼からは想像もつかない、危ういほどの脆さ。その正体が、彼女には痛いほどわかっていた。
「抑えきれないのなら、どうすればよいのですか?」
小さな声だったが、揺るがぬ意志が滲んでいた。一八は何も言わなかった。ただ、彼女の手の下にある自分の手をわずかに握り返す。
「俺は……」
言葉が続かない。衝動が、喉の奥で形を成す前に消えていく。否、言葉にした瞬間、何かを決定的に壊してしまう気がした。
「くそ、俺は、お前を傷つけたくない」
絞り出すような声だった。準は一八の手のぬくもりを確かめるように、そっと指を絡めた。
「……それなら」
彼の瞳をまっすぐに見つめる。
「私を信じてください」
一八の指が、僅かに震えた。
「俺が、お前を信じるというのか」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「どんなに恐ろしい衝動に襲われても、あなたは最後の一線を超えない。そう信じています」
苦笑と共に、一八は目を伏せる。
「甘いな。この衝動は耐えられんぞ。お前には分からんだろう」
「それでも、ええ、私はあなたのそばにいたいんです」
準の言葉は、夜の静寂に溶けるように響いた。
一八は、何かを言おうとしたが、その唇を噛みしめた。
彼女が自分に寄り添おうとすることが、どれほど危ういことなのか、誰よりも理解しているのは自分だ。それでも、彼女の決意を否定する言葉が出てこない。
──否、言えなかった。
代わりに、一八はそっと目を閉じる。そして、ほんのわずかだけ、彼女の手を強く握った。
「……勝手にしろ」
囁くような声だった。準は静かに微笑むだけだ。
一八の手が、ゆっくりと準の肩へと滑った。指先が僅かに食い込む。
準は動かなかった。ただ、一八の目をまっすぐに見つめている。
「俺を信じると言ったな」
低く掠れた声。その響きは、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。
「ええ」
準の声には迷いがない。それが一八の理性を最後の一押しで崩した。
彼はゆっくりと顔を近づける。互いの呼吸が絡み合うほどの距離。準の髪から微かな香りが立ち上り、一八の神経を刺激する。喉の奥が焼けるように熱い。
「すまん」
それだけを呟くと、一八は準の首筋に唇を寄せた。
鋭い牙が、柔らかな肌に沈む。
一瞬の痛み。
だが、それはすぐに熱へと変わった。
準は細く息を呑んだ。首筋を伝う生温かい感触、一八の指が肩を強く押さえる力。まるで逃がさぬように、あるいは自らを抑えるように。
一八の喉から、押し殺したような唸り声が漏れる。
血の味が口内に広がる。鉄のような、しかし甘くすら感じる味が、一八の神経を麻痺させるようだった。衝動が、さらに深く牙を突き立てろと囁く。
準の指が、そっと彼の背に触れた。そのぬくもりに、一八は僅かに我に返る。
──これ以上深く噛んではならない、と。
本能と理性の間で揺れながら、一八はゆっくりと牙を抜いた。
首筋に残る二つの痕から、僅かに血が滲む。それを舌で掬うように舐め取ると、一八は目を閉じ、息を吐いた。
「……こんなことをして、後悔しないのか」
掠れた声で問う。準は少し肩を震わせながらも、微笑んだ。
「後悔する理由がありません」
その言葉が、一八の胸の奥に深く響いた。
一八はゆっくりと顔を上げた。薄闇の中でも、準の首筋に刻まれた赤い痕は鮮明に見える。彼の唇から伝った微かな血が、彼女の肌に細い線を描いていた。
準は小さく息を吐いた。わずかに頬を染めながらも、彼を拒む気配はない。むしろ、その瞳には奇妙なほどの落ち着きがあった。
「……思ったより、痛くはありませんでした」
喉を震わせるような小さな声だった。一八は目を細める。
「馬鹿な女だ」
呟きながらも、指先が知らず知らずのうちに準の肌をなぞっていた。首筋から鎖骨へと伝う熱を確かめるように。
準は微かに身じろぐ。自分でも気づかぬうちに、肩がわずかに引き締まる。一八の指が、そのわずかな動きを逃さずに捉えた。
「怖くはないのか? 喰われる恐怖など感じないタチか、貴様は」
一八の声には、自嘲めいた響きが混じっていた。
準はふっと微笑む。
「あなたに噛まれるのは、怖くありません。あなたに殺されるのもおなじ。好きな人の胸で息絶えるのは、悪くないでしょう」
「くだらんな」
一八はもう一度、首筋に唇を寄せた。今度は、牙を立てることなく、熱を帯びた吐息だけを肌に落とす。
準の肩が、かすかに震えた。彼の唇が触れるたび、そこからじんわりと熱が広がっていく。
「……っ」
漏れ出た息が、どこか甘い響きを帯びていた。
一八は、わずかに目を細める。
「……お前は、本当に変わらんな」
「え?」
「昔から、俺のすることを怖がりもせずに、受け入れる」
その声は、ひどく低く、耳元に直接響くような囁きだった。
準は視線を落とす。
「私は、あなたを信じていますから。今も昔も」
そう言った準の手が、一八の背にそっと回された。その細い指が、ゆっくりと彼の肌をなぞる。
「そうか」
一八は、準の額に軽く唇を押し当てると、そのままゆっくりと彼女を引き寄せた。
互いの熱が、夜の静寂に溶けるように絡み合っていった。