夢を渡り歩く者 時刻は未明、午前三時。睡眠薬の魔力に意識を融かし、夢遊病者も孤独な舞踏に終焉を告げる頃。ノースディンはあてもなく深夜の街を彷徨いていた。
深夜の公園には誰もいないと踏んでいたが、本の頁を捲る音が静寂を切り裂いた。彼は不意に音の主に気を取られて視線を寄越すと、夜目の利く赤い瞳は忌々しいほどに明るい色を目視した。
ベンチで脚を組むYは本に視線を落としたまま、ゆっくりと吐息を吐き出すように言葉を紡ぐ。
「裸体は交流状態であって、それによって存在の可能な連続性の探索が明るみに出る。肉体は猥褻の感情を抱かせるこの秘かな行為によって、連続性に道をひらく。裸にすることは、それが十分な意味を持つ文明のなかで考察されるならば、死刑にひとしい」
「…ジョルジュ・バタイユ」
「ご名答」
ノースディンは立ち止まったまま短く返答すると、Yは含み笑いを漏らしながら本から顔を上げた。
Yが手にしているそれはブックカバーに包まれているために、読み上げている本書であるかどうかは分からなかった。Yは続け様に口を開く。
「今や断頭台上に立ち、手を縛られた罪人は、まだ死んではいない。死ぬには一瞬間が足りないのだ。死を猛烈に意欲するあの一生の瞬間が…」
「サルトル」
「正解」
どうやらYが手にしている書籍と彼が口にする言葉達は無関係らしい。ノースディンは公園の入り口に立ったままYを見つめていた。
「近代文明がデザインした不毛な認識のコスチュームを剥ぎ取らねばならぬ。被害者意識に組み立てられた骨格を、生々しいバイタリティに組み換える仕事だ。悲劇に対する感覚は肉感に比例する」
「…シオラン」
「違うよ」
「ニーチェだ」
「正解、シオランはもっと絶望を愛しているね」
Yはその時、ようやくノースディンの方を向いた。朱色の瞳は爛々と光を放っている。それはいつも悪い夢のようなものをノースディンへ見せる。Yは続けた。
「才能とは、素材に対する礼譲に他ならず、それは声無き者に歌を与えることによって成り立つのである。わたしの才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対してわたしが寄せる愛以外のものではないだろう」
「…ユイスマンス」
「違うね」
「それは誰だ」
「ジャン・ジュネさ。彼は囚人だった。刑務所をよく分かっている」
Yはにやりと笑うと、片手にしていた本へと再び視線を落とした。ノースディンは気が付けば、Yが腰をかけるベンチの隣へと移動していた。
「貴様は何を読んでいるんだ」
「これ?乱れ堕ちる人妻、情欲の」
「もういい。エロ本を読みながら哲学の話なぞするな」
「私くらいの歳になればね、官能の中に哲学を感じるし哲学の中にエロスを感じるものさ。人間は命が短いのにこうも利発なのはどうしてだろうね?」
「人間のことなど…」
「それは限りがあるからさ」
ノースディンが苦々しい表情を浮かべるのも他所に、Yは頁を捲りながら夜風に身を任せている。骨張った手ははためこうする紙を撫で付けながら続けた。
「吸血鬼は殺されない限り果てが無い。血と愉悦以外に何も必要が無いと識ってしまえば、莫迦になる方が愉しめると分かれば際限がない。人間は限りがあるからこそ答えを探そうとする。人生とは何ぞや、生まれた意味とは何ぞやと、愛おしく思うねえ」
「…貴様は人間の醜さをしらないつもりか」
「まさか。どの側面に目を向けるかの話だよ。あくまでも解釈の話さ。ノース、君には何も押し付けるつもりは無いさ」
ノースディンは矢鱈と大人しいと言うべきか、下らない悪戯に走らないYを見て不思議な心持ちに陥っていた。
いつY談波を浴びせられても反撃出来るように身構えていたが、それは取り越し苦労のように思えた。
「ああ、もう来てしまった」
Yは顔を上げて独りごちる。ノースディンがそれに対して何をと口にする前に、Yはいつしか立ち上がってノースディンへ押し迫ってきた。
「さあ、君は帰るんだよ。お邪魔をしたのは私だけど、ノースは何事も無いうちに帰るんだ」
「貴様は何を言って…」
ノースディンはその時にようやく気付いた。自身が居る場所が何処か分からないことに。帰り道も分からないということに。
「目が覚めてもこのことは秘密にしておいてよ、頼んだからね」
Yの手がノースディンの体を両手で押した。その瞬間、公園の入り口からはもう一つの影が近付いていた。
振り向いてはいけない、本能がそう叫ぶそれは───。
ゴトン
「……っ…」
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる。薪が燃え落ちる音でノースディンは目を覚ました。午前三時、いつから眠っていたのかは分からないが短く浅い眠りであったと思われる。
先程のものは不可解な夢だと感じた。そして何故に忌々しい男の夢なぞを見なければならないのかと眉を顰める。そして気掛かりな言葉があった。
「お邪魔をしたのは私…」
そして突如現れた人物の正体。あれは人間ではない、しかし吸血鬼とも思えない何かであった。
ノースディンは膝の上に乗ってきた猫を撫でながら、飲みかけの冷めた紅茶を口にして喉を潤した。
「ああ、彼は帰ってしまったんだ」
「私の気配を察して私が帰したんだよ」
「どうしてだい?三人で楽しくお喋りしたかったのに。そもそも夢の主を追い返すなんて」
Yはベンチの隣に座ってきた人物を見据えた。左右非対称の瞳に変わった瞬間は好奇心の証、自身と同じく神出鬼没の男。
「あのねえ、坊やはまだ私と違って私とお話出来るような精神力を持っていないんだよ」
「見た目よりも若いんだね」
「分かってやってるでしょ。その目で見て分からないことなんてあるのかい?」
「どうだろうねえ」
二度ほど瞬きすると、彼の瞳は左右対称の色合いに戻った。Yは呆れたように溜息をつくと、同じ容貌の彼は呟くように言う。
「柔らかな雪の香りがしたね…」
「坊やかい?」
「ああ。燃え盛る暖炉に、アールグレイの香り。動物を飼っているね、柔らかい毛は猫かな。スコーンの香ばしい残り香がした。上等な香油、紳士然たる風貌によく合っている」
「…振り向かなくてもそこまで分かるとは恐れ入ったね」
「分かるさ、私の中を覗けば顔立ちも分かるよ。でもそれはやめておく」
自分のこの目で見たいからね。
秘められた悪意は柔らかく笑うと、Yは肩を竦めて再び本へと視線を落とした。
[完]