大人へなった君との約束 壁に掛けられた時計が、ゆっくりと時を刻んでいく。その様子を、天彦は自室のベッド脇に腰掛けながらぼんやりと眺めていた。
あと数分後に二本の針が頂上へ辿り着いたその瞬間、日付は四月二十九日へ変わる。同居人の一人である、伊藤ふみやの誕生日である。
“ふみやが誕生日を迎え二十歳になったら、天彦が用意した酒を一緒に飲む”
四か月前の天彦の誕生日に、ひょんなことからそんな約束を交わした。
あっという間だったような長かったような、不思議な四か月だった。その間にも、ハウスの皆と初詣へ向かったり、節分で豆まきをしたり、バレンタインに依央利による抜き打ちチョコチェックを受けたり、と様々なイベントを共に過ごした。けれど、頭の片隅にはあの冬に交わした約束が常にあり、それを思考することが天彦の楽しみにもなっていた。
酒が初めてであるならば、節度を持って楽しみながら飲むことから教えなければならない。
自分の趣味に合わせるならウィスキーやブランデーなどの蒸留酒だが、飲酒経験がない彼にはさすがに苦く渋すぎるか。
彼の嗜好に合わせるなら、甘い類のリキュールが好まれるのではないだろうか。
様々な予測を立てた上で検討に検討を重ね、数日前にやっと彼に贈る酒を購入した。
ベッドから立ち上がり、デスクの上に置いていた物を手に取る。
オレンジのリボンで飾られた、黒い箱。この中に、明日彼と飲むボトルの酒が入っている。
これを初めて飲んだ時に見られるであろうふみやの姿をいくつか想像するだけでも、胸の内が跳ねるのが分かる。
予想以上に、浮かれているのかもしれない。自分の誕生日でもないのに。
「……まあ、彼の場合忘れている可能性がゼロではないからなぁ……」
他者に自ら頼んだことを“そうだっけ”とよく忘れてしまう彼のことだ。今回の約束も、実は彼の中ではさほど重要でなく、全く覚えていない可能性もある。彼と自分との温度差にショックは受けるだろうが、そうなったとしても二十歳を迎えた記念としてこの酒は勿論贈るつもりだ。
それに、どう転んでも僕は―…
コン、コンー…
「ん……?」
自室の扉から、ノックの音。空耳か、と思ったが、数秒置いて再度同じノック音が室内に響いた。
こんな夜遅くに誰だろう。深夜に尋ねてくる人物に心当たりがないのもあり、疑問と同時に警戒心が強まる。
箱をデスクにそっと置き、扉に向け慎重に歩みを進める。やがて、ドアに辿り着くとドアノブに手をかけ、扉の外を警戒しながらゆっくりと開いた。
「天彦」
「……ふみやさん?」
扉の前に姿を現したのは、ふみやだった。風呂を済ませているため、ストレートの黒髪は後ろに流れず降ろされており、寝間着であろう緩いTシャツとスエット姿だった。
彼が部屋を尋ねてくることは、さほど珍しいことではない。ただし、こんな深夜なのは初めてだ。
「こんな夜中にどうしたんですか?もしかして寝ぼけてます?」
「約束」
「え?」
ふみやの特徴ともいえる寝起きの悪さの一種かと思ったが、彼の口から出た単語ははっきりとしていた。
「約束、果たしてもらおうと思って」
約束。主語もない抽象的な表現だが、それが何を指しているかは、直感的に理解できた。
「……覚えて、いたんですか?」
「うん。えっ、天彦は俺が忘れてると思ってたの?ひどくね?」
「いやそれは…………貴方なら、万が一そうでも不思議ではないなと」
「だいぶ失礼だな」
前髪が降ろされているからだろうか。不満げな表情が、いつもより幼く感じる。
天彦自身も、この日をかなり楽しみにしていた。日付が変わるこの時まで、目が冴えている程には、だ。けれど、ふみやは日付が変わり自身の誕生日になると同時に、交わした約束を果たしてもらうために天彦の部屋を尋ねてきたのだ。恐らく、前日の内から寝まいと心がけ、日付が変わるこの瞬間を待っていたのだろう。
それほどまでに、自分との約束を心待ちにしていたのだ。この感情表現の乏しいことで有名な青年が。
その事実を認識するだけで緩む表情と“エクスタシー!!”と叫び出したい衝動を何とか隠そうと、天彦は片手で口元を覆った。
「……え、まさか用意してないなんてことないよね。あんな大口叩いておいて」
黙り込んでしまった天彦の反応から、ふみやの眉間に皺が寄る。
不満げな様もとてもセクシーだが、あらぬ勘違いで不機嫌にしてしまうのは本意ではない。
「ふふ、失礼。心配しなくても、貴方が楽しめるであろう物をちゃんと用意していますよ」
冷静な様を装いつつそう返すと、ふみやの雰囲気が一気に明るくなった。
「よかった。じゃあ、それ持って早く下行こ」
「えっ、今からですか?」
「当たり前じゃん。だから来たんだし」
「……分かりました。着替えていくので大人しく待っててくださいね」
自身の手を引いて誘おうとするふみやに続いていきたかったが、今の天彦は寝巻用のバスローブ一枚だ。普段から全裸になっているのに何をいまさら、と言われそうだが、祝いの場ではもう少しちゃんとした衣服で臨みたい。
「わかった」
思いの外あっさりと天彦の言葉を受け入れ、ふみやは足音を消しながら廊下を先に進んでいった。
カチャ、パタン。
今は二人しかいないダイニングと、そこに隣接するキッチンはとても静かで、ガラス音や扉の開閉音などの生活音がやたらと大きく響く。
キッチンで作業をする天彦を、ふみやは両手で頬杖をつきながらじっと観察するように見つめる。以前テラとバーへ行ったことがあると聞いたことはあったが、カクテルを作る様がよほど珍しいのか彼の視線は熱烈だ。
「お待たせしました」
見られすぎて穴が開きそうとはこの事だろうな、とやや気恥しくなりつつも、天彦は完成したものをふみやの前に差し出した。
「チョコレートリキュールとミルクを合わせたお酒です。空きっ腹に飲むのは刺激が強いですから、先にこちらを幾つかつまんで下さいね」
ミルクチョコレートを想起させる淡い色合いの色で満たされたグラスの横に、ナッツとドライフルーツを乗せた小皿を添える。
物珍し気にグラスと小皿を見つめるふみやを横目に、天彦は自分用のロックグラスを手に取る。
「……?俺と天彦の、全然違う」
深い色で染められたロックグラスの身が気になったらしく、ふみやが指を差して指摘をする。
「ベースのリキュールは同じですよ。僕のはロックでビターに、ふみやさんのはミルクたっぷりでスイートにしているんです」
アルコールとはいえ、チョコレートのリキュールは元々が甘い。甘党のふみやであれば何ら問題はないだろうが、ミルクで割ったものは天彦には些か甘すぎる。度数はやや高いが、ストレートで飲むくらいで丁度よいのだ。
「では、グラスを持って」
あっという間に小皿のナッツをふみやが食べつくしたのを見届け、二人は互いのグラスを持ち傾ける。
「ふみやさんの二十歳の誕生日を祝って、乾杯」
「かんぱーい」
グラス同士が軽く当たり、キンと綺麗な音が響く。
流れるように、互いにグラスを口に付け中身をゆっくりと口に流す。
口に広がるチョコレートの甘さと、その中に漂うアルコール特有の苦みを堪能しつつ、天彦はふみやの反応を注視する。
「ふみやさん。初めてのお酒は、どうですか?」
「うん、うまいよ」
「それはよかった」
グラスに口を付けたまま勢いよくごくごくと飲み続けるふみやがやや心配ではあったが、彼から高評価を得られて天彦も安堵する。
「アルコールのせいかちょっと苦いけど、カフェのフラペチーノみたいで飲みやすい。もう一杯」
よほど気に入ったのか、ふみやはあっという間に飲み干しからになったグラスを天彦に差し出す。
「ペースが速いですよ。こういった物は、チェイサーを挟みながらゆっくり楽しまないと」
飲酒経験の浅さ故に、酒の席で失敗をした経験は天彦にもそれなりにある。ふみやにも徐々にそれを学んでいってほしいが、初めての経験である今日は楽しい記憶だけ残してほしい。
「それに、実は二杯目よりも楽しめる物を用意してるんですよ」
水の入ったグラスをふみやに渡し、中身を飲んでいる間に準備を進める。
冷凍庫を開け、依央利に頼んで作ってもらっていたソレをガラスの器に盛る。そして、乳白色のそれにリキュールのボトルを傾け、ゆっくりと垂れるそれをかけスプーンを添えたら完成だ。
「!?アイス!」
「そう。大人のデザートですよ」
器を受け取ったと同時に、ふみやはアイスとリキュールの両方をスプーンで掬い、口の中へソレを収めた。
「……!俺、今めちゃくちゃ感動してる」
彼がよく見せる控えめな笑みに合わせ、周囲が輝いているかのように明るい雰囲気が放たれる。
やはり、甘党のふみやに合わせて甘いリキュールを選んでよかった。天彦は内心でガッツポーズを取った。
「天彦、おかわり」
「えっ!?もうですか!?ちゃんと味わってます?」
天彦が喜んでいる数秒の内に、ふみやはあっという間にリキュールアイスを平らげてしまったらしい。
甘いものに関する彼のスピードと胃の要領が規格外なのは理解しているが、あまりの勢いに吸い込んでいるだけなのでは、という疑念が沸き起こる。
「味わってるよ。その上でもう一杯」
だめなの?なんで?と首を傾げてくるふみやは、アルコールのせいかうっすらと頬が紅潮している。決して度数が低くないリキュールをこれ以上与えるのには抵抗があったが、追加を求めてくるふみやのどこか愛らしい様に意思が揺らぐ。
「うーん……仕方ない、もう一皿分だけですからね」
「やった」
ニッと笑うふみやに苦笑しつつ、天彦は再度冷凍庫の扉に手をかけた。
「んぅー…」
「ふみやさん、大丈夫ですか?」
「あー…らいじょうぶ」
「……大丈夫じゃないですね」
多めに作ってくれていたはずの依央利特製アイスがすべて無くなった辺りになると、カウンターに上体を預けたふみやはすっかりと出来上がっていた。
二杯目のアイス以降、リキュールは摂取させず水分も出来るだけ摂らせていたが、やはり初めてのアルコールは負担が大きかったようだ。もしくは、ふみや自身が酔いやすい体質なのかもしれない。
「ほら、お部屋まで案内しますから、そろそろお開きにしましょうね」
ふみやの肩をさすり、自分で起き上がるよう促す。
「あまひこ……」
ほぼ閉ざされていたふみやの目が開き、天彦を捉えたかと思うと、少し体を起きた状態で両手を天彦に向け開いた。
「ん」
明確な言葉はないが、どうやら抱き起してほしい、という事らしい。
「ふふ、セクシーで甘えん坊な坊やですね」
酒が入ることで、こうも年相応……いや、それより幼い反応になるとは思わなかった。
ふみやの新たな一面に驚きながらも、天彦はふみやの両手の間に体を入れ、そのまま抱き起そうと試みた。
しかし、抱き返してきたふみやに強く抱き寄せられたことで、それは未遂に終わる。
「わっ、ふみやさん?」
ふみやに圧し掛からないようカウンターについた片手で中途半端な姿勢を保つ。
少々腰への負担が大きいが、それよりもふみやによる予想外の反応に対する驚愕の方が大きい。
自身の心臓が、彼に抱き締められた瞬間ドッと跳ね上がったのが分かる。
服越しながらも、直接触れる箇所から伝わる熱い温もりに、動悸が一層速まる。
「……しかった?」
「え?」
耳元で囁いたはずのふみやの声が驚くほど小さく、顔を彼の方に向けようと試みるが首から腕を回され抱かれているために動かすことが難しい。
「あまひこは、俺と一緒にのめて楽しかった?」
先程より声量の増した問いかけ。全身に駆け巡るむず痒さは、唇が付きそうな程の至近距離で耳元から囁かれているからだろうか。
「……ええ、楽しかったですよ」
胸の奥底で揺らめく動揺を出さないよう、冷静を努め笑顔でそう返した。
「ん……よかった」
伝わる息遣いから、ふ、とふみやが小さく笑うのが伝わる。そう気づいた直後、左の頬に何か柔らかく温かいものが触れ、ちゅ、という小さな音と共に離れていった。
「え……?」
「へへ、隙あり」
天彦の視界に入るよう顔をあげ、頬が紅潮しているふみやが笑う。その姿はまさしく、いたずらに成功した子供のそれであった。
「……ふみやさん、悪ふざけはよしなさい。起きた時に後悔しますよ」
いけない。自分を正しく律しろ、天堂天彦。
彼は酔っ払いだ。対応を間違えてはいけない。
戒めの言葉を心内で繰り返し、天彦はふみやを引き剥がそうと彼の肩に手をかけた。
「後悔しないよ。だって、ずっとしたかったから」
けれど、押し返そうとしていた天彦の手は、ふみやの言葉でピタリと動きを止めた。
一度逸らしていた顔をふみやの方へ戻すと、天彦の眼に赤らみながらも真剣さを帯びたアメジスト色が映る。
「今日の約束の事考えたり、天彦と一緒にいたりしてると、もっと天彦と一緒に居たいなとか、優しく触ってほしいなとか……そんなことばっか、沢山考えるようになってた」
まるで猫のように、ふみやは自身の頭や頬を天彦の首に摺り寄せながら、いつもの淡々とした語り口調で言葉を紡いでいく。
「他の皆だとこうは思わないのに、天彦にだけなんだ。何でだろう、なにが違うんだろうって、この四か月ずっと考えてた」
天彦の首と鎖骨の辺りに顔を埋め、厚みのある唇が皮膚に触れるか触れないかという距離感で、告白を続ける。
「でも、今一緒に過ごして分かった気がする。俺、天彦の事が―…」
「ふみやさん!」
淡々と紡がれていたふみやの言葉を遮るように、天彦の強い声がリビングに響き渡る。
子を叱る親の口調に似たそれに、ふみやの肩がびくりと跳ねた。
怒鳴られた。なんで?
嫌だった?どうして?
年下だから?男だから?
俺みたいなやつじゃ、ダメだった?
「……っ」
酔いによりふわりとしていたふみやの思考は一気に現実に戻され、血の気が引いていく。
今すぐこの場から離れて消えてしまいたかったが、動揺から思考が十分に働かず、天彦に抱き着いていた手と体を反射的に離すのが精一杯だった。
俯いた顔を、起こすのが怖い。天彦の顔が、見れない。
けれど、硬直するふみやよりも先に動いたのは天彦だった。
「……っ!?あ、天彦……?」
カウンターについていた手を離したかと思うと、もう一方の手と合わせてふみやの背に回し、ふみやの頭と背をしっかりと支えるように強く抱きしめた。
「……ふみやさん。先程の言葉を言う前に、僕とまた一つ、約束をしてくれますか?」
密着するように抱きしめられているため、ふみやから天彦の表情は全く見えない。けれど、彼の声音は先程の大声とは打って変わり、慈しみが込められた優しいものだった。
「今の貴方は酔っていて、目が覚めたらこの時の記憶を無くしているかもしれない。だから、貴方が言いかけたその言葉は、明日目が覚めてから、改めて僕から言わせてください」
ふみやが天彦に告げようとした想い。
彼は、この四か月でそれが培われてきたと語っていた。
実の所、天彦も全く同じ状況だった。
ふみやとの約束を思い浮かべ、そんな中で彼と日常を過ごす内に、天彦の中にはふみやに対する特別な感情が生まれていった。
年の差、性別、互いの境遇など、様々な点が脳裏を過ったが、それ以上にこの青年と愛を育んでいきたいという欲望が勝った。
自分との約束に嬉々としていた彼を、もっと喜ばせたい。
善悪の判断が危うい彼の傍で、道を大きく踏み外さないような道しるべとなりたい。
彼の特別になりたい。
WSAとしてはご法度なのだろうが、ふみやに対する感情は日に日に大きくなっていた。
本来ならば、ふみやが二十歳を迎えた今日以降に、頃合いを見計らって伝えるつもりでいた。
まさか、ふみやから先に切り出されるとは思わず、耐えられなくなって制止してしまった自分が恥ずかしい。
けれどー…
「覚えていようがいなかろうが、必ず伝えます。だからどうか、待っていてください」
年上として、世界セクシー大使として、溢れる愛を、どうしても自分から先に伝えたかった。
初めは強張っていたふみやの体が、次第に力が抜けていき、宙を浮いていた両手が天彦の背に回り遠慮気味に彼を抱き返した。
「……おれ、絶対忘れないから今で良いよ」
「駄目です。酔っ払いは皆そう言うんです。それに万が一忘れられたら、天彦泣いちゃいますよ」
「……泣いちゃうの?」
「ええ」
「ちょっと見たい」
「こら」
「ふふ」
天彦に咎められながらも、彼の肩に顔を寄せるふみやは楽し気だ。
「約束できますか」
「……ん、分かった」
「いい子ですね」
告白こそしていないが、互いに抱く想いが同じだと分かっているから二人を取り巻く空気は優しく甘い。
ふみやが眠気に負けて意識を落とすまで、二人の抱擁は続いた。