ヒースクリフによる独白 暫く前からファウスト先生が女体をとっている。
普段から体型の出にくいキャソックにマフラーを掛けていたから見た目には大きな違いが無いが、僅かに縮んだ背丈や一回り小さくなった手の平、喉仏が消えて高くなった声は隠せていない。そもそもファウスト先生本人は隠そうとしていないのだと思う。ただいつも通りに振舞っているだけなのだ。ファウスト先生は何もその体の事を説明はしなかったけれど、俺達も無理に聞き出そうとはしなかった。いの一番に問い詰めそうなシノですら、「変身魔法のやり方を教えろ」と講義を希望するだけだった。
俺達は東の魔法使いだから。突然の変化に驚いたり、騒ぎ立てる事はしない。でも西の魔法使い達だって、ファウスト先生の体の事は誰も核心の部分は触れなかった。変身魔法が得意なムルは面白がって一時期女体で過ごしていたが、それも半月もすれば飽きてしまっていた。
ネロは何だか察した様子で、スノウ様は「健気な事だのう」としみじみ言っていた。その時点で想像する事は出来たのかもしれない。だが俺が知る事になったのは北の魔法使いであるブラッドリーの言葉を聞いてしまったからだ。
「お前がそこまでする価値があるってのか。あんなの今代で絶やしておいた方が世の中の為ってもんだろ」
魔法使いが性別を変える理由なんて限られている。任務や修行、遊興のために一時的に変える場合か、自分自身の体で妊娠出産する場合くらいなものだ。ファウスト先生がここまで長く女体を続けている理由なんて、どう考えても後者でしかなかったのに。
未だ二十年そこらしか生きていない俺はまだ魔法使いとしての感覚より人間の感覚の方が近いのかもしれない。魔法使いにとっては至極当然な事でも、俺は思い付きもしなかった。
だって、ファウスト先生が誰かに恋をしたり、愛を囁く姿を想像出来なかったから。
それも女体をとるという事は相手は男性だ。そして少なくともブラッドリーの知っている人物。魔法舎の誰かなのかもしれないと思い至ったら頭が沸騰しそうになった。先生が親しくしている人物なんて、同じ国のネロや、以前からの知り合いだというレノックスが真っ先に浮かんだが、彼らの事をブラッドリーが悪し様に語るとは何となく思えなくて。
今まで他人との接触を極力拒んでいた先生が、女体で過ごす事も厭わないほどに好きな相手。それも妊娠したいが為の魔法だ。
気付いた瞬間からドキドキしていた。まるで自分自身の事みたいに。尊敬している彼が幸せになろうとしているのだから精一杯応援したい。産まれてくる子供が魔法使いだったなら、ほんの少しだけ年上の自分がこれからの長い人生が孤独で無い事を教えてあげたい。そう思って毎日を過ごしていた。
ファウスト先生は口先だけの文句を言いながら危険な任務にも向かうし、前線にすぐに出ようとするから冷や冷やする。特に口にはしなかったけれど、シノは以前よりも率先して前に出るようになったし、俺だって身を挺してでもファウスト先生を守る気持ちでいる。体を大切にしてほしいけれど、直接それを伝える事が出来なくてムズ痒い思いをした。
やはり先生のあの黒い服は体型を隠し過ぎて、お腹が膨らんでいるのかどうかすら正確には分からない。もし体内に待望の命があるのなら先生だって無理はしないと思うが、でももしもの事が起こって妊娠出来ない体になんてなって欲しくない。俺が一歩間違えればファウスト先生が今年も大怪我をしかねないのだ。守るつもりが守られたなんて、俺の方だってごめんだ。だから必死に生き残る事を考えた。
大いなる厄災は今年も勢いを増していたし、国中の至る所で被害が出たし、犠牲者だって少なくない。その中で、俺達東の魔法使いが一人も欠ける事無く厄災を追い返す事に成功したのは僥倖に他ならなかった。
そしてもう一つ喜ばしい報せが、厄災が去った後にあった。
――ファウスト先生が懐妊したのだ。
どう計算をしても厄災と戦っている時には既に妊娠していた筈で、喜ぶと同時にゾッとした。妊娠初期だからこそ大事にすべき時期になんて事をしているのかと、思わず叱ってしまったくらいだ。それに対してファウスト先生は、若干拙く言い訳をした。ちゃんと保護の魔法を幾重にもかけているだとか、無茶な事はしていないとか。戦っている時点で駄目だという認識を持って欲しくて、絶対に納得なんてしなかった。
魔法舎で懐妊が知れ渡ってからは、やたらと皆が顔を出すようになった。クロエは変わっていく体型に合わせて衣装を作り始めたし、ラスティカは胎教に良い音楽をしょっちゅう奏でに来てくれる。スノウ様とホワイト様は孫でも出来るのかという勢いで服やら玩具やらを毎度大量に持ってきて、気が早すぎると苦笑されていた。
そしてようやく、俺は一つの疑問に突き当たったのだ。
どうして、父親になるであろう魔法使いがいないのか。ふつう、いの一番に駆けつけて、付きっきりで傍に居るものではないのか。勿論それは俺の中の小さな世界での常識なのかもしれない。だが、誰も自分が父親だと名乗り出ないし、父親がいない事に誰も疑問を抱いていない。ファウスト先生もそれを受け入れているのが、不思議で堪らなく、すぐに怒りへと変化していった。
でも、ファウスト先生にその事を直接問い質すような事は出来ず、毎日食事を運んだり、生活の手助けを続けた。その間ふつふつと怒りが蓄積していったが、見て見ぬ振りをした。だってファウスト先生はちっとも嘆いてなんていなかったから。ただ幸せそうにお腹をさすって、少し遠くの空を見ているだけで。
中央の国にしては珍しく、雪がちらつく空模様をしていた。オズ様が雪を降らせたのかと思ったが、そうではないらしい。北の国から来ている風が雪山の上の方から運んできた、花のような雪だった。
そんな日に、ファウスト先生は子供を産んだ。ファウスト先生はずっと我慢していたのだろう、いたる所で内出血を起こしていたが、産声を聞いた瞬間ゆるりと表情を緩めた。その様子を見た最年長の魔法使い達は「良かったのう」と穏やかに微笑んでいたが、俺はすとんとその場に座り込みそうになった。ほっとした、どころの話では無い。初めてひとが生まれる瞬間に立ち会った、それも尊敬している先生の。
「いつまでそんな所にいるんだ……近くにおいで。君が良ければ抱いてやってくれないか?」
ファウスト先生に声をかけられて、はっと意識を浮上させる。そして招かれるままに近くに寄って、手を差し出した。とても柔らかくて、猫みたいで、少し怯みながらもその外に出たばかりの命を抱き上げる。
「あ……先生、抱き方はこれで良いんでしょうか。……真っ赤ですね……ああ、困ったな……嬉しいのに、泣いてしまいそうで……」
「ふふ、どうして君が泣くんだ。しっかりしてくれ、これから君の助けを必要とするだろうから」
「魔法使いの赤ん坊だな。まぁ、そうだろうと思ってたけど」
横でネロがそう呟いたのを聞きながら、これからを夢想した。きっとこの子は、俺よりも強い魔力を持つに違いない。先生のように聡明で、努力家で、真面目で、優しくて、そしてとても愛情深いひとになるだろう。
一筋流れ始めると、どうして涙は止まらなくなるのだろう。
多分俺はいくつもの手掛かりを見逃し続けて、今日まで来てしまったのだ。
まだ何も見えていないだろう瞳が開かれて、その色形を見てようやく気が付いた。遅すぎる、と自嘲する。その無二とも思えた瞳を見れば、全てを察する事が出来た。
先生、あなたが愛したひとはあのひとですか。
ネロもブラッドリーも、スノウ様もホワイト様も、きっともっと沢山のひとが気付いていたのに、俺は今の今まで気が付かなかった。その事が無性に悲しくて、悔しくて、情けなかった。信じたくない訳ではないのに、見てみない振りをしていたのだろう。
陣痛に苦しむ先生の手を握るのは俺じゃなくて彼である筈だった。一番にこの子を抱き上げるのも。今後成長する姿を見守るのだって、俺以上に望んでいたに違いないのに。
涙が止まらない俺の膝が崩れなかったのは、震えそうになる手の上にシノが手を重ねて支えてくれたからだ。
「少し落ち着け。落としたらファウストが怒る」
「怒るじゃ済まないだろ。……絶対に落とさないよ」
「そうか。……よく似てるな」
シノは、どちらに、とは言わなかった。けれど俺はその言葉に頷く。一見正反対のような親だが、その子供を見るにどちらか片方に似ているわけでは無さそうだ。外見だけでも偏りが無いのだから、中身はもっと混ざっている可能性がある。
ファウスト先生は首を傾げながら子供の顔を覗き込むと、腕を伸ばした。腕の中に戻った子供をファウスト先生は緩く抱きしめて、俺達に問いかける。
「この子がどう育つのか、どの国の気質が強く出て、どんな考え方をして、どんな魔法が得意になるのか。想像するだけで面白いだろう?」
シノは即答で「ああ」と答えたが、面白いと同時に末恐ろしさも感じてしまう俺は典型的な東の魔法使いなのだから仕方ないだろう。
ファウスト先生は子供の顔を見つめ、この十数ヶ月で最も穏やかに笑って言った。
「楽しみだ」