四畳一間のたたみごはん〜ペペロンチーノ〜 予想外に扉は開いた。
グエルは少し目を開いて驚く。
「てっきり鍵は変えてると思ったが……」
鍵穴に差し込んだ、五年前にもらった合鍵をまじまじと見つめる。用心深いあの男の性格ならば、もうとっくに鍵を変えていると思ったのだ。当時渡された鍵が今も使える、たったそれだけのことがグエルにじんわりとした懐かしさと安堵をもたらした。
音を軋ませながら、古いアパートのドアを開ける。
時刻は夜七時。薄暗いその部屋は殺風景で、ほとんど生活感を感じない。一つ隣の自分の部屋と全く同じ造りの部屋だ。しかしどことなくあの男の匂いを感じる。
グエルは遠慮なく靴を脱いで部屋に上がると、手に提げていたビニール袋を揺らしながら部屋の奥に入っていく。
リビングの電気をつけ、小さなキッチンに向かいシンクの上にどさりと袋を置く。中からは野菜や乾燥パスタの袋が顔を覗かせた。
「よし、オルコットが帰ってくるまでに作っちまうか」
きっとあともう少ししたら、彼は帰ってくる。
春用のジャケットを腕まくりしながら、グエルはにやりと口角を上げた。
ジェターク一社CEOであるヴィム・ジェタークの暗殺未遂事件から、五年が経った。
当時十三歳だったグエルは十八歳に成長した。背は高く伸び、平均的な男性の身長を今では優に超える。線の細かった手足も逞しくなり、日課の筋トレのお陰で服の上からでも綺麗に隆起した筋肉が伺えるほどだ。ふわふわと綿毛のようだったくせ毛は長く伸び、まるで毛並みの良い獅子のたてがみの様に背中で揺れる。前髪にはマゼンタ色のメッシュを入れ、奇抜な色であるものの彼の華やかな顔によく似合っていた。
高校卒業後、グエルは大学に進学した。世間でもよく知られたエリート大学だ。入学のハードルの高さで有名だが、大企業の御曹司が進学先としては妥当かもしれない。
しかしそんな御曹司グエルが選んだ引っ越し先は、すぐ近くにある築二十年以上は経過したボロアパートだった。
蛇口をひねり、取り出した小鍋に水を入れる。
鍋に水がたまっていくにつれ、五年前にここで過ごした一ヶ月足らずの記憶も蘇ってくる。
グエルにとってこの部屋の主、オルコットは間違いなく恩人だ。
道ばたで行き倒れていた自分を拾ってくれた。文句を言いながらもこの部屋で匿ってくれた。ボロボロになりながら、何度も助けてくれた。
そんな彼に今の自分なら、何か返せるものがあるんじゃないか。
世話になった恩を返したい思いが半分と、あの頃を懐かしむ気持ちがもう半分合わさり、今回の引っ越しを決めたのだ。
父ヴィムも弟ラウダもボロアパートへの引っ越しは反対だった。ヴィムは「御曹司がオンボロアパートに住むなど何事だ」と言い、ラウダは「兄さんがあの半グレみたいな男と一つ屋根の下に暮らすなんて!」と言っていた。が、ほぼグエルの独断で勝手に引っ越してきてしまった。
「父さんとラウダには悪いことしたな……」
八分目まで鍋に水を入れ、二口コンロの片方に置き火をかける。
シンクの下から小さなまな板を取り出し、買ってきたにんにくを一欠けもいだ。包丁の面で軽く潰したあと、皮をとり薄くスライスする。にんにくは潰した方が香りが立つのだ。
壁にかけていたフライパンを手に取り、グエルは上の戸棚やシンク下を開けきょろきょろと中を見回した。オリーブオイルを探していたのだが、そもそも調味料らしきものがない。まさかコンロの奥に置かれた塩と醤油、そして味の素の三つだけではないだろうな。
グエルがオルコットの部屋のキッチンに立つのは今日が初めてだ。そもそも部屋に入る事も今日を入れてたった二回目だ。引っ越してきたばかりの時、鮭おにぎりとコーヒーゼリーを手土産にオルコットの部屋を訪れたがそれっきりである。以降引っ越しの片付けや入学に向けた準備などで忙しく、同じアパートであるが顔を合わせる事もなかった。
今日はようやく時間に余裕ができ、折角ならオルコットの晩飯も作ってやろうと大学帰りに近くのスーパーに立ち寄ったのだった。
俺がいた時はもう少しまともな調味料があった筈だけどな。そう訝しみながらも、仕方なくサラダ油を取り出しフライパンに注いだ。
スライスしたにんにくと、小さな赤唐辛子も二本フライパンに入れて火を点ける。まるで油でことこと煮る様に、フライパンを傾けながら低温でじっくりと温める。ぽこぽこと小さな油の泡が出始め、立ち上ってきたにんにくの香りがグエルの鼻をくすぐった。
料理は好きな方だ。グエルはそう自負している。
最近はキャンプにハマっているグエルだったが、その時作ったキャンプ飯が家族に好評だった。以降自分でも料理をするようになり、暇なときはよく料理系動画の解説を見ている。
手軽さよりも一から勉強して作る方が楽しい。凝り性なのは元からであった。
鍋のお湯が沸騰してきたタイミングで塩を入れ、買ってきたパスタを投入。きつね色にローストされたニンニクをフライパンから取り出し、ゆであがったパスタをフライパンに入れる。塩を適量振りニンニクのエキスが染みこんだ油にパスタを馴染ませ、鍋に残ったゆで汁を少しフライパンの中に入れた。とろりとしたニンニクオイルがパスタに絡み、卵色の麺がキラキラと照り輝く。
上の戸棚から種類の違う二枚の平皿を取り出し、パスタを盛り付け先ほどローストしたニンニクと唐辛子をふりかけ、パセリを散りばめれば完成だ。ペペロンチーノである。
その時、ガチャリと玄関のドアが開く音が聞こえた。
グエルはひょこりとキッチンから顔を出し玄関の方を覗く。
「お帰り」
玄関にはこの部屋の主、オルコットが立っていた。
「なんでお前がいるんだ」
「まぁ、その……別にいいだろ」
「別によくはないが。不法侵入だ」
ブーツを脱ぎのしのしと部屋に上がる。グエルの不法侵入に対し、オルコットはさして驚いた様子はない。驚きよりも呆れているといった風だ。
しかしはりきって晩飯を作りに来ていたグエルは、不法侵入と指摘され今更ながら恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にさせる。
「お、お前の分のペペロンチーノやんないからな!」
「晩飯作ってたのか」
グエルの後ろにあった、皿に盛られたペペロンチーノをオルコットは覗く。そして「フォークはないから箸で我慢しろ」と言い、シンクの引き出しから割り箸を二膳分取り出してきた。当たり前の様に共に晩飯を食べる流れになれ、オルコットに向けようと思っていた怒りも行き場を無くしてしまう。
畳の居間に置かれた小さなちゃぶ台に、ペペロンチーノを盛った平皿二枚と、付け合わせで作って置いたベビーリーフのサラダが並んだ。
いただきますと丁寧に手を合わせたあと、黙々とパスタを食べ始めたオルコットをグエルは不安げな目で見る。
作っている最中は何も考えていなかったが、そういえばグエルはオルコットの好みを知らない。眉一つ動かさず、まるで焼きそばでも食べるみたいにオルコットは無言で食べている。
その表情はマズイのか? 美味かったらもう少し美味そうな顔するんじゃないのか? いや何も言わないということは、まだ食えなくはないという事か?
オルコットの感情が一切読めない。堪らなくなったグエルはぼそりと呟いた。
「不味かったら……食わなくてもいいぞ」
「いや、美味い」
間髪入れずに即答され、いつの間にか俯いていたグエルはハッと顔を上げた。
やはり表情を変えずに黙々とオルコットは食べていたが、その言葉に嘘偽りは感じなかった。
思わず口角が緩んでしまう。
「そう、か……」
グエルもようやく割り箸を手に取り、ペペロンチーノを口に運び始める。
次来る時は調味料も買い足さないとな。食器も一人分しかないからもうワンセット買っておこう。そうだ、普段何を食べてるのかも聞いておくか。好物ぐらいは知っておいてもいいだろう。
既に次の予定を頭の中で組み立てながら、グエルはオルコットと同じ様に箸で持ち上げたペペロンチーノを豪快に啜った。