出られない部屋続き真白い空間にベッドがひとつ。そう聞くと物寂しさを感じるものだが、一面に散った赤い羽根とその中心で座り込む青年の姿が、どこか現実離れした宗教画のような雰囲気を漂わせる。壁に嵌められた扉よりも大きな窓は半分ほど空いており、そこから吹き込む風は少し肌寒かった。ベッドの下に脱ぎ捨てられた薄緑色の病院服に、はあとため息を吐いてぴしゃりと窓を閉じる。
「ホークス」
「ぴ!」
低い声で名前を呼ぶ、名を呼ばれた青年は物憂げな表情から一転、綻ぶような笑みを浮かべてエンデヴァーに両手を伸ばした。向かってくるそれを避けることはせず、しかし仕置きとばかりに額を指で弾く。
「ぴィ!?」
「貴様はまた……きちんと服を着るか、嫌なら布団を被っていろ。風邪を引く」
分かりやすくむくれた顔をするホークスは、僅かに赤くなった額を手で押さえながらもエンデヴァーのもとへ擦り寄ってくる。ベッドの端に腰を下ろせば、好機とばかりに太股に頭を押しつけてきた。まるで子供か小動物のような挙動だ。
「具合はどうだ。身体は痛むか?」
「くるる……」
ホークスはゆるゆると首を横に振る。緩みきった表情から特に苦痛を堪えているような気配はない。羽根もすっかり気を抜いたようにぺたんと重力に従っており、警戒している様子もなかった。その隙間から覗く肌に巻かれた包帯は一部が赤く滲んでおり、無垢な表情を相反して痛々しい。
「包帯を取り替えるぞ」
「ぴぃ……」
はぁい、と。むっとしたような、むず痒さを抱えながらも不本意だと隠しきれないような、そんな幻聴が聞こえた気がして思わず自嘲する。思ったより重症なのは自分かもしれない。
ホークスが言葉を失って、既に五日目を迎えていた。
あの日、個性増強剤によって暴走したホークスをどうにか宥めたエンデヴァーはそのままセントラルまで同行した。一旦は落ち着いたとは言え油断の出来ない状況に周囲から反対の声は無く、事情を聞いたホークスのSKからも正式に身柄を任せられることとなったのだ。最も、後者は病院に着いた後オニマーたちが向こうとやりとりをした結果によるものだが、それがなくともエンデヴァーはホークスを他の誰かに任せるつもりはなかった。
流石と言うべきか、エンデヴァーが状況を報告してすぐ塚内はセントラルに連絡を取っていたらしい。人目に付かぬよう運び込まれ、すぐにヒーロー専用の病室まで通された。そのまま意識が戻らぬうちにと麻酔をかけ、採血をする。ただでさえ人の気配の多い病院でまた暴走したらと気が気ではなかったが、そんな心配を他所にホークスは検査が終わっても目を覚ますことはなかった。次に目を覚ましたホークスがホークスである保証はどこにもない。落ち着かせるための目隠しに、逃走防止のための足枷。寝かせられているのは確かに病室だというのに、まるで檻のように思えてエンデヴァーの方が落ち着かない。気付いた時には、病院側からホークスの居る病室に泊まる許可をもぎ取っていた。
体温を分け与えるように冷えた手を握り、夜を明かす。朝日が昇ってもホークスが起きる気配はなく、微睡んでいたエンデヴァーの意識を覚醒させたのは担当医からの連絡だった。
分かったのは、ホークスが使用した薬は通常の数倍の濃度はあるものだったということ。そして常人であれば廃人になりかねないほどに強力なそれは既存の中和剤では効果が薄く、完全に薬の作用が消えるのには時間がかかるということだった。
「本来なら、この手の薬の効果はそう長くは続きません。ですが随分と質の悪い改良を重ねていたようで、分解されないまま成分が体内に残っているようです」
「……中和剤を使ってもすぐにという訳にはいかないのか」
「はい。彼の場合無理矢理引き起こされた身体の変化によって、目で見えない内側の部分に相当なダメージを受けています。必要なこととはいえ、今の彼の状態での多用は身体への負担が大きすぎる」
医学に関してエンデヴァーは全くの専門外だ。だが、長年のヒーローとしての経験から使われた薬がそこらで蔓延っている代物でないことは薄々勘づいていた。ホークスが理性を掴みきれないほどの劇薬。「増強」という言葉では片付けられない、進化とも呼べる変異を遂げた剛翼。一晩経っても羽根は肥大したままで、手足の鱗も減った気配すらなかった。
「……アレは、元に戻るのか」
「今は、なんとも。ひとまず落ち着いているようなので一度通常の量で投与します。身体への負担と症状の様子見ながら対応していくしかないでしょう」
それから、既に三回の投与が行われた。
徐々にではあるが中和剤は効いているようで、爪こそ鋭利なままだったが鱗は随分と少なくなった。肥大化していた剛翼も随分と本来の大きさに近づいており、体温も微熱程度にまで下がっている。それだけを挙げれば、経過は順調を言えただろう。
けれど、未だにホークスの自我は戻らないままだ。本物の鳥のように自由気ままで、減らず口を叩いていた唇からは鼻歌のような囀りが響く。孵化して初めて見た相手を親と思い込む雛鳥のように、この状態のホークスはエンデヴァーにだけはよく懐いた。
人より高い体温に安心感を覚えるのかもしれない。好きにして良いと右手を差し出せば、ホークスは囀りに喜びの色を乗せて手のひらに頬を擦りつける。気配に敏感過ぎるホークスもこうしている間は大人しく、じゃれついている間に視界の端で看護師が点滴を取り替えるのが見えた。
「ッ、キュウ?」
「こら。あまり動くな」
点滴の中身はホークスのために調整された中和剤だ。身体への負担を極力減らすために、長期投与を見越してその分一度の効果は弱まっている。もどかしいが、苦しんだり嫌がったりする様子がないことから医師の判断はやはり正しかったのだろう。ぽたりぽたりと一定の間隔で落下する雫を見つめていると、くい、と袖を引かれた。上の空になったのが気に入らなかったのか、不満げに頬を膨らませる。
「ぴっ、ぴ、ぴぃ、」
「俺に鳥の言葉は分からんぞ」
「ぴ!」
ホークスが何を言っているのか、何を伝えたいのかエンデヴァーには分からない。なのにただ返事を返すだけでぱっと笑顔になる。そうして先ほどまでの不機嫌さなど忘れたかのように、またぴいぴいと忙しなく鳴く。
それはいつものホークスと何ら変わりないように思えるのに、その唇がエンデヴァーの名を紡ぐことはない。今一見変わりないからこそ余計に目立つ空白に心を苛まれる。お互いに拠点も離れており、そうでなくとも全国を飛び回るホークスと丸々ひと月以上連絡が取れないことも珍しくない。だというのに、どうしてこんなにも物足りなさを感じているのだろう。
「……撫でてほしいのか」
「キュ」
その鳴き声は肯定なのか。ごろりと膝の上で寝返りをうち、小さな鼻先がすぽんとエンデヴァーの腹筋に埋もれる。無防備にも露わになった背中に手を伸ばすと、ホークスはもう一度キュッと鳴いた。
ふわふわとした羽根の根元を撫でてやれば、僅かに頬を染めてくるくると囀る。もっともっとと強請るようにぱたぱたと動く羽根が肌を擽り、飛び出した雨覆羽が機嫌良く宙を舞った。
以前、同じようにこうしてホークスの羽根に触れたことがある。その日は雨が降っていて、ホークスは背中の火傷跡が疼くと脂汗を浮かべていた。酷い顔色のまま福岡まで飛んで帰るなどと抜かす男の腕を引っ掴んでベッドに寝かせたのも記憶に新しい。
『ね、エンデヴァーさん。羽根の根元撫でてくれませんか。痛覚なんて無いはずなのに、びりびりして落ち着かないんです』
『……てっきり、そこに触れられるのを嫌っていると思ったが』
『急所、って訳じゃないですけど。まあ剛翼にとっては生命線みたいなところですから、そう簡単に誰にでも触らせたりはしませんよ。でもエンデヴァーさんは特別です』
――特別
飄々としているようでその実警戒心の塊のような男が発する特別とは、どういうものだろうか。自分の生死すら対局のためなら利用出来る程の男にとっての特別とは、どんな意味を持つのだろうか。
考える。
では、自分にとって特別とはなんだろう。
名前を呼んでほしいと思うことは特別だからか。
有給が溜まっているからととつきっきりでいるのは特別だからか。
家族すら大切に出来なかったのに、性懲りも無く大切にしたいと思ってしまうのは特別だからか。
自分が傍にいなければ医者すらまともに近づけない現状に仄暗い優越感が生まれるのも、目を離せばどこへでも飛び立ってしまいそうなこの男がその目に自分しか映していないことに安堵してしまうのも、全て、特別だからだろうか。
そこまで考えて、くしゃりと頭を掻いた。決して綺麗な感情ではない。特別だなんて曖昧な枠組みには収まらない。名前を付けるなら、恐らくこれは独占欲と呼ばれるものだ。
「こんな場所に囚われているのは、貴様らしくないだろう」
しゃら、と足首から伸びた鎖が鳴る。この部屋で実質監禁状態におかれてから数日。思えばホークスはこの拘束を煩わしそうにすることはあっても一度たりとも無理矢理外そうとはしなかった。どういうわけか、地に繋がれることを容認していた。青空を見上げるくせに、羽根だってもう自由に動くはずなのに、乞うことすらしなかった。まるでエンデヴァーの独占欲を満たすかのように。
「……戻ってこい、ホークス」
でも、それでは駄目なのだ。
誤魔化しようもなく、エンデヴァーの中にその衝動は確かに存在する。だが、鳥を飼いたいのではない。その羽根を手折って自由を奪いたい訳じゃない。そんな関係を望んではいない。
「名前を……俺の名を、呼んでくれ」
ただ、止まり木になりたいのだ。
生き急ぎがちなこの男が羽根を休める場所でありたい。エンデヴァーが欲しいのは、きっとそんな特別だった。
ふ、と吐く息が揺らぐ。心のざわめきを誤魔化すように、ぴょいと跳ねた前髪を指先で摘まむ。鳥冠のようなそれを弄っていると、ぱち、と目が合った。穏やかな呼吸にすっかり眠ったのだと思っていたが、どうやら起きていたらしい。
「ぴ、」
「っおい、いきなりどうした?」
大人しく撫でられていたホークスがおもむろに起き上がり、エンデヴァーの膝に乗り上げる。鼻先が掠めるほどの距離で、じっと目の奥を覗き込まれた。無意識のうちに呼吸すらも止まる。まるでここに全ての幸福があるとでも言うように、細められた琥珀色が柔らかい光を灯す。その光には既視感があった。心が折れそうになった時に見た、希望を宿すそれ。
「ぴ、ぃ、……ぴ…………ァ、」
何かを絞り出すように、ホークスの伸びた爪が柔らかい喉元を押さえた。まさか自傷かとハッとして止めようとするが、聞こえてきた音に手が止まる。言葉にこそなりそこなっていたものの、ここ数日で聞きなれた高音とは違う波長。
「あ、……ぅ、……え、ん、……げほ、ッ」
「ホークス……!」
「え、ん、れば、ぁ、」
額に汗が滲んでいる。
発声機関が戻りきっていないのを無理矢理酷使しているのだろう。爪の先が皮膚に食い込むのも構わず、ホークスは震える口角を僅かに上げた。
「えん、でば。なかん、で?」
幼い声色だ。恐らく、完全にホークスとしての自我が戻ってきたわけではない。だというのにこの男は、苦痛を抑え込んでエンデヴァーに微笑みかける。そういう男だと知っていたのに、改めて突きつけられた眩しいほどの善性に目の奥が熱くなるのを感じた。割れ物に触れるように恐る恐る頬に触れれば、喉元から離れた手がゆっくりと重ねられた。自分のものでない体温が、ホークスのものであるというだけでこうも手放しがたくなるなんて。
(――ああ、そうか。これは、この感情が)
独占欲すら退けるこの「特別」が、
胸の奥から引きずり出されるこの炎が、
他でもない、愛情という名前だったのだ。