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    torimune2_9_

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    ①名前を呼んでほしい坊ちゃん
    ②坊ちゃんと特別授業
    ③坊ちゃんと激おこ執事
    ④坊ちゃんと悪天候
    ⑤風邪ひき坊ちゃん

    SSまとめ◆名前を呼んでほしい坊ちゃん
    「坊ちゃん、起きてください」
    聞こえてきた声に、ふわふわとぬるま湯の中に浸かっていた意識が浮上する。瞼越しに柔らかい光が差し込んで、遠くからいつも窓際にいる小鳥たちの鳴き声がした。柔らかい布団の中良好な睡眠をとったお陰で頭はすっきり冴えている。いつもの自分ならすぐにでも起きておはようと返事をするだろう。
    「……坊ちゃん?」
    けれど今日は違う。寝返りを打って、枕に顔を埋めて、聞こえていないふりをする。下手な演技だろうが、そこは問題ない。寝たふりも、その意図も、彼は正しく理解してくれるはずだ。
    (――今日こそ名前で呼んでもらうまで起きん)
    彼、炎司が執事となってから短くない時間が経ったが、生真面目な彼は啓悟のことを頑なに「坊ちゃん」と呼ぶ。それが嫌と言うわけではないが、折角なら名前で呼んでほしい。だって以前は名前で呼んでくれていたのだ。それが主従関係になったからダメだなんて。『前みたいに呼んでほしい』。ある時ぽろりと零したそんな些細なお願いに、炎司の解答は無情にもNOだった。
    (炎司さんの真面目なとこが好きだけど、こういうときは嫌い)
    大人しく炎司が名前を呼んでくれていたらこんな強硬手段を取る必要はなかったのに。執事相手にそんなことを思うのは変なことなのだろうか。きちんとした場所では我慢するから家では名前で呼んでほしいと、散々そう言っているのに聞いてくれない彼が悪いのだ。なんなら敬語だってやめてほしいのに、彼は一度だって頷いてくれたことはない。主人と従者という関係上そういうものだということは十分理解しているが、この屋敷にいるのは自分と彼ともう一人の執事だけ。立場として一番上にいる自分が望んでいることなのに、誰が咎めるというのだろう。
    (今日は出掛ける用事もないから、あと一時間は粘れる)
    分刻みとまではいかないが毎日授業やらなにやらであまり時間に余裕があるとは言えない日々の中、「先生」に頼み込んでまで作ったチャンス。自分だって本当はすぐにでも起きていい子だと褒められたいけれど、ここまで来たら諦められない。小さなことに意地になっている自覚はある。それでも、また名前で呼ばれたいのだ。何度も何度も躱されてきたが、今日こそは。
    数秒か、数十秒かして、はぁと溜め息が聞こえる。やっと折れたかな、と頬が緩みそうになるのを堪えて耳を澄ませると、耳のふちを吐息が擽った。
    「今日は坊ちゃんの好きなパンケーキだったのですが、これでは冷めてしまいますよ」
    「えっ!」
    (炎司さんのパンケーキ!)
    魅力的な誘惑に、つい反射的に飛び起きる。だってそれは、テストでいい点を取ったり、パーティーで上手に振舞えた時しか作ってもらえないものだ。時折それ以外のタイミングで作ってもらえることもあったが、それだって数えるほどの頻度しかない。
    ――と、そこまで思い至ったところでハッとする。
    「…………しまった!」
    折角寝たふりをしていたのに。しぶとく二度寝の姿勢を取ろうとするが、啓悟の小さな体はあっけなくベッドから引き離されてしまった。シーツにしがみつく間もなくふわりとした浮遊感のあと、啓悟の何倍も大きく太い腕で抱えなおされる。こうなればもうあとはリビングまで連れていかれるだけだ。
    「朝ですよ坊ちゃん」
    「ず、ずるか!パンケーキで釣ったと!?」
    「パンケーキは本当です。アレがたまには作ってやれと……坊ちゃん、アレに強請って今日の授業をずらしたでしょう」
    「うぐ」
    「全く……」
    呆れたような声に、ぷうと頬を膨らませる。有能で格好良くて優しくて強い自慢の執事だが、どうしてこんなに頑固なのか。
    「炎司さんのいじわる」
    こうして、朝の小さな攻防は敗北の二文字で終わったのだった。



    ◆坊ちゃんと特別授業
    「今日の授業はここまでにしようか」
    そう言って先生は開いていた歴史書を閉じ、啓悟を見る。先生の授業は分かりやすい。いつだって優しくて、啓悟が他の貴族と対等に立てるよう様々な知識を教えてくれる。最初に出会ったときからそうだ。炎司はいつも先生を前にすると普段の五割増しで表情を険しくするが、炎司と同じくらい先生のことも大事で大好きだった。
    だから、先生に秘密と言われたら、それは炎司にも秘密なのだ。

    「この後は特別授業だよ」
    先生がそう言うと、扉を開けて入ってきたのは見慣れない顔の給仕だった。恐らくは三十代くらいの、緊張で顔を強張らせた男だ。広すぎる屋敷には主人である啓悟以外、炎司と先生しか住んでいないし出入りもしない。だが「特別授業」の時だけは、時折こうして先生が「お友達」を連れてくる。きっと今回もその一人なのだろう。
    「どうしてかつての貴族社会でカトラリーに銀製品が使われていたと思う?」
    特別授業が始まるのはいつも突然だ。先生の言葉に合わせるように、コト、と給仕が目の前にティーカップを置いた。色も、匂いも、普段のそれと変わりない。
    「ええと、昔はヒ素を使った毒殺が多くて、作る過程で混ざった硫黄が銀に反応したから、ですよね。前に授業で先生が教えてくれました」
    「そう。よく覚えていたね」
    コト、ともう一つティーカップが並べられる。中身はやはり、至って普通の紅茶に見えた。
    「中世ヨーロッパでは、王位継承権を巡ってヒ素を用いた毒殺が横行していてね。無味無色無臭のヒ素を検知できる銀食器は王侯貴族の間で広く普及したんだが、あくまでも銀が反応するのは混ざり込んでいる硫黄だ。今じゃ銀食器はただの高級品で、毒見としての意味は皆無に等しい。なら、見抜くにはどうすればいいと思う?」
    かちゃん、とさらにもう一つ。ティーカップを置く給仕の指先が微かに震えている。これもまた、中身は先二つと変わらないように見えた。
    「今日のテストはこれだ。選んでいいのは一つだけだよ」
    青い顔で下がる給仕に、楽しそうに微笑む先生。目の前に並んだティーカップは三つ。見て分かる違いはない。給仕の表情はこの部屋に入った時から緊張の色が滲み出ていたが、カップを鳴らしたのは最後だけだ。先生は中途半端なことはしない人だから、毒かどうかはともかく何かしらを紅茶に混ぜさせたのは本当だろう。もし啓悟が毒入りの紅茶を飲んでしまったらそれを出した自分が罰せられると、そういう怯えからきた震えだとしたらハズレは最後の紅茶ということになる。
    (――でも)
    カップが音を立てた時、給仕の心音は変わらなかった。表情には焦りの色が見えていたのに、聞こえてくる音は安堵を表していた。耳で聞こえなくても、給仕の背に張り付けた羽根は確かにその音を拾ったのだ。
    「……………………」
    迷わず一番端、最後に出されたティーカップを手に取る。まだ湯気が立っているそれにふうと息を吹きかけ一口啜れば、いつもと変わらない紅茶の味が口の中に広がった。それは啓悟が好きだと言って以降、先生が取り寄せてくれているものだ。
    「流石だね、啓悟」
    「最後、指先は震えてたけど心臓の音は普通でした。わざわざ動揺してるふりをしたのは、疑うよう仕向けて、最後の紅茶さえ避けてくれればいいからですか?」
    選んでいいのは一つだけと言ったけれど、ハズレが一つとは言われなかった。多分残りの二つはどちらもハズレだったのだろう。そう話せば、先生は一層笑みを深くして啓悟の持つティーカップに角砂糖を落とした。
    「その通りだ。観察力もだけど、個性の使い方も上手になったね」
    どこから取り出したか、銀に光るスプーンで紅茶をぐるぐると混ぜる。角砂糖が崩れて、広がって、そして見えなくなる。褒められたことが嬉しくて、ついぱたぱたと羽根が動いた。
    「啓悟。君の周りには君を狙う大人が山ほどいる。だからこそ、周囲をよく観察する必要があるんだ。誰が君にとって毒になりうるか、目に見えているものが本当かどうか、常に疑わなければ危険な世界だからね」
    分かるかい?と、その言葉にこくりと頷く。
    「誰を味方に出来るか、誰が自分に敵対心を抱いているか、誰と誰がどんな関係性で、それが情なのか損益なのか。会話も視線も声色も、全てが重要な手がかりになる。時には、先を見据えて眼前の毒を飲む必要も出てくるだろう。……でも大丈夫。君が不安に思うことはない。いつか全てが君にひれ伏す日が来るよ」
    隣のティーカップにスプーンを放ると、伸ばされた手が啓悟の髪を梳き、頬を撫でる。炎司とは正反対のひんやりとした手だ。心地よさに目を細めながら見上げれば、先生は酷く楽しそうな笑みを浮かべていた。
    「……先生?」
    「必要なものは全て僕が揃えよう。僕は、そのための先生だからね」

    今日のことも轟には内緒だよ、と。額へのキスとともに先生は授業の終わりを告げる。
    手付かずのティーカップの中で、黒く変色したスプーンがからりと音を立てた。



    ◆坊ちゃんと激おこ執事
    啓悟にとって、炎司も先生も肩書こそ執事であるが家族も同然だ。しかしいくら啓悟がそう思っていようと、公の場では通じない。まだ成人には程遠い啓悟を気遣い同伴を許しくれる場合もあるが、今回はそうではなかった。「鷹見」の家と前々から事業で繋がりがあるという旧家が主催したパーティー。炎司は最後まで渋っていたが、一人でも大丈夫だからと出席を決めたのは啓悟自身だ。
    今思えば、そこにあったのは規律規範を守るという意図よりも、啓悟を一人にしたいという思惑だったのだろう。

    「……う」
    きつく縛られた身体が痛い。殴られた頬がじんじんと熱を持つ。もうずっと無縁だったそれらに、堪らずじわりと涙が浮かんだ。まるい瞳から零れ落ちた水滴に、下卑た笑みを浮かべていた男たちがぱたりと声を静め息を飲む。加虐欲に染まっていた男たちの視線に別の色が混ざる。妙に高揚した表情。荒い吐息。その恐ろしさにひっと息を飲むが、拘束された身体では逃げることも叶わない。
    「こ、んで……やだ、やだ……」
    醜く口角を上げた男の一人が啓悟に向けて手を伸ばし、服のボタンを外していく。
    「おい」「いいのかよそれ」「ビビらせんならこっちでもいいだろ」「なら俺も」
    聞こえてくる会話の意味は分からなかったが、悍ましいものだと本能的に察知した。怖い。怖い、怖い、怖い。屋敷での平和な日々で忘れかけていた、身体の支配権を奪われることへの恐怖が蘇ってくる。
    これから何をされるんだろう。肌を晒されてまた殴られるのか、それとも鞭でも持ち出してくるのか。見栄を張って一人で大丈夫なんて言わなければよかった。わがままでも、一緒がいいと言えばよかった。そんな後悔ばかりが脳裏を巡って、きつく目を閉じる。しかし想像していたような痛みは一向に訪れず、少しして、キィと扉の開く音が聞こえた。
    「ああ、乱暴な部下たちで悪いね」
    その声にハッとして顔を上げる。そこにいたのは、パーティーを主催した旧家の現当主だった。先代は幼い啓悟にもよくしてくれて、社交界に慣れていない啓悟に色々なことを教えてくれた気のいい紳士だったが、現当主の男とは今日が初対面だったはずだ。
    「……どうして」
    零れ落ちた言葉に、男は張り付けたような笑みを浮かべる。
    「君自身に恨みがあるわけじゃあないんだけどね。当主が死んだあと大人しく没落しておけばいいものを、君のところの執事……何と言ったか?名義としては君の代理だが、随分とやり手なようじゃないか。困るんだよね。先代は君のことを可愛がっていたようだけど、このままじゃあウチの方が飲まれてしまう」
    一歩一歩と近づく男に、啓悟の周りにいた男たちが慌てたように姿勢を正した。
    「そんなに怯えなくていい。こちらの要求を聞いてくれれば命までは取らないよ」
    「……なに、すれば、よか」
    「君のところの執事をウチに譲るんだ」
    「…………え?」
    言われた言葉を理解するのに、数秒時間がかかった。彼の言う執事は炎司のことなのか先生のことなのか、それとも両方か。なんにせよ突然そんなことを言われ――いや、突然でなくとも頷けるはずがない。しかし男は一枚の紙を目の前に置くと、力任せに啓悟の前髪を掴み上げた。
    「ッ」
    「彼らも、君のようなお飾りの当主じゃなく、歴史ある私の家に仕えるほうが幸せさ。ああ君には代わりの執事を用意してあげるから心配しなくていい。書類は用意しておいたから、あとは君がサインをするだけだ。簡単なことだろう?」
    がつん、と。床に打ち付けられた顔面が熱い。鼻を打ったのか、生暖かい液体が鼻孔を伝い口元を濡らした。熱いのか痛いのか、目の前が白く明滅して眩暈がする。
    「さあほら、これ以上痛い思いをしたくなかったらサインをするんだ。君が大人しく私に従うと言えば、その縄だってすぐに外してあげるよ」
    寒気のするような猫撫で声で男が言う。その間にもぷち、ぷちと髪の毛が千切れる音がして、口の中も切れたのかじんわりと鉄の味が広がった。
    痛いし、怖い。こんな理不尽な目に遭って、怖くないはずがない。けれどそれ以上に、大切な二人をモノのように扱う男に怒りが沸いた。二人のことを何も知らないくせに勝手に幸せを決めつける男が許せなかった。この男は知らないのだ。啓悟にとってあの二人が何よりも大切な存在だということを。
    「……わ、た、さん……ふたりとも、のぞむなら、ちゃんとてばなすって、言ってある。でも、ッおれからは、ぜったいに手放さん……」
    男の目が冷たく細められる。
    髪を掴んでいた手が離れ、その瞬間、衝撃と同時に身体が浮いた。革靴の先端が鳩尾に食い込み、勢いのまま啓悟の身体を蹴飛ばしたのだ。
    「ッかは……!?ヒュ、ッ、げほ、げほ……ッ」
    肺にあった空気が無理矢理押し出され、びっしょりと全身から汗が噴き出る。酸素が足りないのに次が吸えず、開いたままの口から血の混ざった唾液が零れた。呼吸が出来ない。痛みだけではない生理的な涙で視界が滲む。酸素を求めて開いた口からは飲み込み切れなかった唾液が溢れ、喉の奥からは隙間風のような音が漏れた。
    (……あ、……まえにも、こんな)
    思い出したくない過去が脳裏を過る。腹を蹴られて、呼吸が出来なくなり、頭がぐらぐらと揺れて気持ちが悪かった。あの時はすぐに意識を失ってしまって、その後どうなったかよく覚えていない。けれど、過去と今の違いなら分かる。炎司がここにいないのだ。
    「…………じ、さ……せん、せ……」
    「チッ。お前たち、この子供は好きにしていい。だが殺すなよ」
    好きにしていいと、男がそう言った途端空気が変わる。控えていた男たちが一斉に舐め回すような視線を啓悟へと向け、中途半端にはだけた服へと手を伸ばす。いくつもの手が服を引っ張り、髪に触れ、胸を撫でた。
    「――――ッ」
    殺されないなら大丈夫。大丈夫。耐えられる。そう心の中で唱えながら、背筋を駆ける悍ましさに目を閉じる。けれど、痛みが襲ってくることは無かった。
    聞こえてきたのは爆発音と、二人分の足音。


    「貴様ら、誰の主人に手を出している?」


    そして啓悟以外の人間にとっての死刑宣告だった。




    ◆坊ちゃんと悪天候
    「……ねむれん」
    枕に埋めていた顔をのそりと持ち上げ、ベッド横の時計を見る。時刻は丁度零時を回った頃で、いつもならもうとっくに寝ている時間だ。なのに眠れない。目が冴えている。疲れてないとか、昼寝をしたとかそういうことではない。
    「………………ねむれん」
    むっとした顔で布団から顔を出し、窓を見る。今夜は台風が来ると昨日から先生と炎司が話していたがその通りだったようで、ざあざあごおごおと雨風が窓ガラスを打ち付けている。収まる気配がないどころか、きっと屋敷中の窓から同じ音が響いているのだろう。
    「炎司さん……せんせ……」
    いつもは二人が屋敷の片付けをしたり難しい話をしている声が聞こえるのに、今日は全て掻き消されてしまっている。傍にいなくても、音が聞こえるだけで安心して眠れたのに。音を拾おうとすればするほどノイズのような大音量に頭を揺さぶられ、頭から布団を被っても落ち着かない。気持ち悪さに耳を塞いでも羽根が音を拾って、かえって意識してしまうせいか余計に頭の中で音が反響する。
    「……なんで、きてくれん」
    いつもなら。いつもなら、こんな時様子を見に来てくれるのに。雨風で音が聞こえないのではなく、二人ともこの屋敷にいないんじゃないか。自分一人ここに置いていかれたんじゃないか。そんなはずないと分かっているのに、もしかしてが脳裏を過り余計に眼が冴えていく。次第に目の奥が熱くなって、とうとう涙が溢れた。
    「ううん。炎司さんも、先生も、俺を置いていくはずなか」
    伸ばした袖で目元を擦りながらベッドから降り、素足のまま部屋を出る。冷え切った空気に鳥肌が立つが、それ以上に募る焦燥感で額に汗が浮かんだ。
    「……炎司さん」
    まず向かったのは炎司の部屋。明かりはついておらず、こんこんと部屋の扉をノックしても返事はない。もし中にいるならすぐに返事があるはずだ。もう一度ノックをして扉を開けてみるが、期待も空しく中は暗いままで人の気配はなかった。
    「……せんせ?」
    先生の部屋も同じように訪ねてみるが、やはり中には誰もいない。二人は大人だからまだ寝ていないだけできっと屋敷のどこかにいる。そう思いながらもぼろぼろと両目から涙が溢れて止まらない。明かり一つ点いていない屋敷はいつもよりずっと広く感じて、寂しさと怖さが一緒になって襲ってくる。
    「………………おらん」
    こんなことで泣くようではいつまでたっても立派な大人になんてなれないのに。ひくっ、ひうっ、としゃくり上げながら二人を探して歩き続ける。擦り過ぎて目尻が痛い。いっそのこと大声で泣き喚いたら来てくれるだろうか。でも、もしそれで何の反応も無かったら。
    朝になれば、なんであんなに不安がっていたのかと笑い話になるはずだ。いつものように起こされて、朝ごはんを食べて、一日が始まるはずだ。けれど外を見ても月すら見えず、夜が明ける気配はない。
    ざあざあごうごう
    ざあざあごうごう
    外の音は大きくなるばかりで、増々孤独感に苛まれる。部屋に戻れば温かい布団もお気に入りのぬいぐるみもあるのに、一人の夜なんて何度も経験しているのに、こんなにも寂しくて長い夜は初めてだ。
    「…………ぐす、……ぐすっ……」
    「……坊ちゃん?」
    雨音と鼻をすする音の隙間から聞こえた声にハッとして顔を上げる。まず見えたのは、暗闇でそこだけ色が宿ったようなオレンジ色。俯いていたせいで気付くのが遅れてしまったが、そこにいたのはランタンを持った炎司だった。
    「えん、じ、さん……?」
    「どうしてこんな時間に…………ッ!何故泣いて、何があった!?まさか侵入者でも……」
    顔を上げたことで啓悟の表情まで見えたのだろう。目を見開いたかと思えば、慌てたようにしゃがみこんでランタンを床に置く。ぐしゃぐしゃの泣き顔を見られてしまった気恥ずかしさなんて感じる暇もなく、安堵と怒りが混ざり合って堰を切ったように溢れ出した。
    「うぅうぅううう~~!!」
    「…………ぼ、っちゃん?」
    「なんっ、なして炎司さんも先生も部屋におらんと!?おれ、ずっとさがしとったんに!」
    大きな首に腕を巻き付けて、ぎゅうぎゅうとしがみつく。泣きすぎたせいか音量調節も下手になってしまった。こんなのただの八つ当たりで、きっと炎司も困っている。そう思っても一向に涙は止まることなく、そのまま赤子のように泣き続ける啓悟の頭を大きな手がそっと撫でた。
    「坊ちゃん」
    「…………」
    「坊ちゃん、泣かないでください」
    暖かな熱気が、啓悟を気遣うように全身を包んでいる。炎司にしがみついたままどれだけ時間が経ったのか、白くなっていた指先には次第に色が戻り、涙はいつの間にか止まっていた。
    「落雷による停電が起きて、見回りをしていたんです。不安にさせてしまい申し訳ありません」
    「……みんな、いなくなったって、おも、って」
    「坊ちゃんを置いて出ていったりしませんよ」
    「ほんと?ぜったい?」
    「ええ。俺もあいつも、貴方以外に仕える気はありません」
    淀みなく言われた言葉に、ふへ、と頬が緩んだ。だってそれは、啓悟が手放そうとしない限りずっと一緒にいてくれるということだ。張り詰めていた糸が途端に緩み、そっか、そっかぁ、としがみつく腕に力を籠める。肩に顔を埋めれば、聞こえてくる鼓動が雨音を忘れさせてくれた。
    「あのね、俺のしつじは二人だけやけん」
    ずっといっしょやね、と。炎司の大きな体に抱きしめられながら、内緒話のように告げる。安堵とぬくもりに包まれながら、啓悟はようやく訪れた睡魔にそっと目を閉じた。



    ◆風邪ひき坊ちゃん
    こほ、こほっ
    乾いた、せき込む音に振り返る。啓悟はまるで自分じゃないと言うようににふるふると首を横に振り、それからすぐにその小さな手で口元を抑えた。
    「こほ、……こほ、こほっ」
    「坊ちゃん」
    「……俺じゃなか」
    「それは流石に無理がありますよ」
    遮ろうとしてくる羽根を掻き分け、啓悟の額に手を当てる。体温を確かめてから首筋にも手を当てば、体温も脈拍も平時とそう変わらなかった。ならよかったと一息つきたいところではあるが、もしかしたら熱が出るかもしれない。この数日でいきなり冷え込んだことを考えるとあまり気は抜けない。
    「こほっ……ちょっと、ちょっと咳が出るだけやけん。熱もないし、しんどくなか」
    「……」
    「早寝もする!」
    啓悟がこうも必死に訴えてくるのは、明日の約束のためだろう。お気に入りのループタイが壊れ落ち込む啓悟に一緒に買いに行こうと提案したのは炎司だ。狙われやすい立場のせいであまり自由に外出をさせてやれないが、たまにはと。数日前からそわそわと落ち着かない様子でカレンダーを見つめる姿を何度も見かけた。啓悟は賢い。そう簡単に別日を用意してやれないことも察しがついているのだろう。
    「……そんな顔をしないでください。今日は暖かくして寝ましょう。そうすれば大丈夫ですよ」
    「……うん」
    弱々しく頷いた啓悟の額を優しく撫で、布団を掛けなおしてやる。元々置かれていた環境のせいか滅多に体調を崩さない啓悟だが、一度体調を崩すととことん悪化してしまうのが難点だった。今も強がってはいるが、恐らく明日か明後日にでも熱が出るだろう。薬の用意をしておかねばと啓悟の部屋を後にし、そして、翌朝。

    「……坊ちゃん」
    布団にくるまり、大福のように丸まったカタマリの中からぐすぐすと鼻を啜る音が聞こえる。
    「坊ちゃん、しんどいでしょう。出てきてください」
    「ねつ、ないもん……」
    漏れ聞こえる吐息は荒く、声も弱々しい。夜に一度様子を見に来た時は穏やかな寝息を立てていたが、日が昇るまでの間に熱が上がってしまったのだろう。朝になり部屋を訪ねた時にはすでに布団の繭が出来ていた。
    「うぅ~~」
    様子を探るためか、制御が出来ていないのか、布団の隙間からふよふよと力なく飛び出た羽根は炎司に届く前に床に落ちてしまう。それを拾い上げながらベッドの前に膝をつき、頭があるだろう部分に柔らかく手を当てる。
    「また出かける機会はあります。元気になったら、買い物だけじゃなくて、坊ちゃんの好きなところに行きましょう?」
    「……ほんと?」
    「ええ。この間動物園に行きたいと言っていたでしょう?」
    「うん……先生も、いっしょ?」
    ほんの少しだけ布団がずれ、その下から熱で潤んだ琥珀色が覗く。ほらほら笑顔、とここにはいない男の声が頭の片隅で再生されるような気がした。ぐ、と呻きそうになるのを辛うじて飲み込み、引き攣りながらも口角を上げる。
    「ええ、三人で行きましょう」
    「……ん」
    その返事に満足したのか、強張っていた身体から力が抜けた。そのまま布団を捲ると、露になった啓悟の顔はのぼせたように赤く染まっている。随分と体温が高そうだ。汗で濡れた頬に手を当てれば、吸い付くような感触とともに熱が伝わってきた。三十八度か、もしかしたら九度を超えているかもしれない。
    「……えんじさん、……しんどい」
    「すぐに薬を持ってこさせます。食欲はありますか?」
    「あんまり、ないかも。あたまいたい……うぅ……」
    これだけ発熱していれば辛いはずだ。潤んでいた琥珀色からついに雫が溢れ出して枕を濡らす。
    「……えんじさん」
    「はい」
    「そばにおって……ぎゅ、ってして……」
    「……ああ」
    炎司の手を握りしめる子供の手のひらの小ささに、胸が締め付けられるようだった。小さい身体がいつも以上に小さく見える。触れれば壊れてしまいそうな、繊細なガラス細工のような。それでも傍にいてという些細な願いを叶えてやるために、毛布ごと包んだ身体を優しく抱きしめる。
    「ふへへ。えんじさん、ひとりじめ」
    へらりと笑った啓悟は、そのまま力尽きたように目を閉じた。熱が体力を奪っているのだろう。呼気は荒く、拭った傍から額に汗が滲んでいる。どうせこちらが呼ぶまでもなくあの男が必要なものは持ってくる。それなら、少しでも啓悟の心を休ませてやりたい。
    「ひとりじめ、か」
    さむいと震える身体を温めるよう、ほんの少し体温を上げる。いつだって炎司は啓悟のためにある。だから、啓悟が独り占めしていない時間なんて本当は一秒だってない。それを言うなら寧ろ――
    「……独り占めをしているのは俺のほうだな」

    早く元気になってくれと祈りながら、炎司は腕の中で眠る子供にそっと額を合わせた。
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    torimune2_9_

    DOODLE非常事態の中で共依存じみた関係を築いていた炎ホが全て終わった後すれ違って後悔してまたくっつく話……にしたい。ホ視点だと炎が割と酷いかも。一応この後事件を絡めつつなんやかんや起こる予定。相変わらずホが可哀想な目にあう
    愛の在処「エンデヴァーさーん。入れてくださーい」
    分厚い防弾ガラス越しに、書類を眺めるエンデヴァーに向けて声を掛ける。きっとこれが敵や敵の攻撃だったら、少なくとも数秒前には立ち上がり迎撃姿勢に入るだろう。だが、ホークスに対してはそうではない。呆れたようにこちらを見て、それから仕方ないといった様子で窓を開けてくれるのだ。
    「玄関から来いと何度言ったら分かる」
    「だってこっちの方が速いんですもん。それに、そんなこと言いながらちゃんと開けてくれるじゃないですか」
    「貴様が懲りずに来るからだろう!」
    エンデヴァー事務所の窓から入る人間なんて最初から最後まできっとホークスだけだ。敵はそもそも立ち入る前にエンデヴァーが撃ち落とすだろうし、他の飛行系ヒーローは思いつきもしないだろう。そんなちょっとした、きっとホークス以外にとってはくだらないオンリーワンのために態々空から飛んできていると知ったらエンデヴァーはどんな顔をするだろうか。
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