願い事ひとつ、廻ってふたつ『────ねえ、何をお願いするか決めた?』
『内緒! 今言ったら意味ないだろ────』
ぱたぱたと軽い足音を立てて傍を走り抜けていく子供たちの陽気な声が、聞き耳を立てるまでもなく雑多な声をかき分けて耳に飛び込んでくる。
記入の終わった宿帳をカウンターに差し出しながら、子供の声を反芻する。今日、そんな話題を耳にするのはもう何度目になるだろうか。──願い事。
たまたま立ち寄ったこの街にとって、どうやら今日は特別な日らしかった。お祭り事にも近い雰囲気のせいか、街の規模に対し人通りが多いとは思ったが、そうとは知らずに偶然訪れるタイミングが合ったことは運が良いのか悪いのか。
少なくともロイドの斜め後ろに佇んでいる男は、いつもよりほんの少しだけ口数が少ないように思えた。
(人混み、好きじゃないって言ってたっけ)
ここまでの山道は整備されているとはいえ、なだらかな山の上に位置するこの街は普段から人の多く集まる土地ではないらしい。そこに人の波ができている理由は、ひとつの謳い文句だった。
──星がよく見える街で、百年に一度の流星群を見よう。
昼間にそんなチラシを見かけて、確かによく見えそうだな、と勝手に納得をした。実際にこの街に天文台が存在するほどなのだから、自然現象とはいえそれを売りにするのはおそらく正しいのだろう。そして流れ星には願いごとをするのが、ずっと昔からの習わしだ。
つまり、今ここに居るのはほとんどが見物客だ。当然人が集まる時には商売も盛んになるし、非日常感に浮かれた人々ばかりなのもまた当然だった。
ロイドはそんな陽気で騒々しい雰囲気が嫌いではなかったが、クラトスはそうではないらしい。もっともロイドとて雰囲気を楽しむことを思い出したのは比較的近年のことだったが。
カウンターの向こうで手続きを済ませていた年若い青年──自覚はともかく外見だけで言うのならばロイドのほうが下になってしまうのだが──が、顔を上げてうなずいた。
お祭り騒ぎなのを知らなかったものだから、宿を探すのに少々手間取ってしまい、気がつけばもう日が傾き始めている時間だ。
……流れ星なんて、今更と言えば今更だけど。そう思いつつも、興味を惹かれる部分はあった。街の雰囲気につられている部分はあるのかもしれないが。
部屋の鍵を受け取りながらそんなことを考えていると、受付の青年がおもむろに屈んでカウンターの下からがたがたと何かを取り出し始める。
(……なんだ?)
ロイドが面食らっているうちに、これもどうぞ、と言ってカウンターの上に置かれたのは、古めかしい小さなランタンだった。
「明日返していただければ結構なので」
そう付け加えられても意図が掴めず、とりあえずそれらを手に取ってみる限り、やはりなんの変哲もないランタンだ。背後からもクラトスの視線を感じる。彼も特に反応を示さないあたり、何か知っているわけではないらしい。思わず不躾に聞き返してしまう。
「……えーっと?」
「ああ、ご存じないんですね。もうすぐ街中の明かりを消してしまうので、夜に出歩くなら足元が危ないですから。うちのサービスですよ」
「そういうことか……。分かった、ありがとう」
だが青年は気を悪くする様子はなく、人当たりの良さそうな笑顔のまま簡潔に理由を述べた。ひょっとしたら同じ疑問を抱いたのは自分たちが初めてではないのかもしれない。
好意をありがたく受け取りつつ、ふと、その細い取っ手を握ってみたところではっとする。
今ロイドの手の中にあるのは夜道を歩くための明かりだ。つまり自分たちも等しく見物客だと思われているわけだが、元々自分たちにそんな予定はなかった。──さて、どうしようか。
夜空は、ロイドにとっては特別なものではない。いつも、ずっと昔からそこにあって、どこからでも見えて、近いようで遠い、でも心を落ち着かせてくれるような、そんなものだった。
しかし、特別な思い出はある。そして、それをくれた人も今ここにいる。
そんな理由で、特別な日だと銘打たれているのを口実に、見慣れているにも関わらずこのひとと同じものを見てみたいと思うのは、一体どこからくる感情なのだろう。
「…………あのさ、クラトス」
邪魔にならないようカウンターから数歩離れつつ、人を避けて少し離れた壁際に佇んでいたクラトスに歩み寄る。呼びかけた声が自分で思ったよりも小さかったことに苦笑したくなったが、彼は名を呼ばれるまでもなくこちらを向いていた。
それからロイドが次の言葉を発するよりも先に、
「構わない」
そう、ロイドの手元を見つめながら呟いた。見透かすような視線の前に、ロイドは驚くことしかできずにいる。
「まだ何も言ってねえのに」
──認めよう。確かに誘いを一蹴されることは流石にないだろうと踏んで声をかけたことは。
事情を知らない者には雰囲気から勘違いされやすいが、少なくともロイドにとっては、なんだかんだと言わなくてもクラトスはやさしいので。
しかし、まさかそれ以前のところで承諾されるとは予想していなかった。ぽかんと口を開けたままのロイドに対し、クラトスが肩をすくめた。
「昼間から気にしていただろう。むしろ、既にそのつもりなのだとばかり思っていたが」
とっくに全部わかっていたのだと言いたげな口調にロイドは脱力しかけるが、それよりも騒々しさを好まない彼がハナから誘いを断るつもりが無かったことには驚きと、それから単純な嬉しさを感じる。
昔とは変わったこと。自分たちの関係が昔と同じようでほんの少しだけ変わったことに、ロイドはまだ慣れないでいる。……クラトスはどうなのだろう。
こうして偶に気が乗って娯楽のたぐいにクラトスを誘ってみると、案外付き合ってくれるようになった。昔はやんわりと置かれていた距離がなくなったように思えるのはきっと気のせいではない。饒舌な共通の知人に言わせれば、そういうところが甘い、らしい。
クラトスはふっと視線を外して、夕陽のさしこむ窓のほうを見た。つられて目を向けると、先ほど聞いたとおり、家々の明かりがまばらになり始めている。この街にとっての特別な夜が始まろうとしている。
「ちょうどいい時間帯のようだ」
「じゃあ、俺たちも荷物置いたら行こうぜ」
せっかく乗ってくれるのなら、楽しまなければ損だ。そう気持ちを切り替え、クラトスを見上げて遠慮なく笑いかけると、彼は一度瞬きをしてから、ああ、と答えてうなずいた。
「あの人には悪いけど、よく考えたら俺たちにはこれは必要ないかもな? ……持って行っても邪魔になっちまうかな」
「……おまえの好きにするといい」
◇
影の中にぽつぽつと浮かび始めた小さな明かりの中に紛れて、やっと大通りを少し外れた。
結局ロイドの手の中には借りたランタンがある。確かに自分たちにとって夜道を歩くのに必要かどうかで言えば必要ではないが、
『無くてもいいけど、あってもいいよな』
ロイドが用意した屁理屈に、クラトスは穏やかに笑ってうなずいたのだった。
すれ違う人々の様子もさまざまだった。そんな中に紛れて時折クラトスと一言二言交わしながら歩いていると、今だけはただの旅人でいられる気がする。もちろん、これまでの道のりのことを忘れたわけではないが。
ひっそりと街の片隅を歩くだけだった頃とは違い、たまの羽休めを堂々とする気になったのは……普段よりもほんの少しだけ歩調を緩めている、隣のひとの存在のおかげに他ならなかった。
正直な話、昼間から何度も同じ単語を耳にしていても、ロイドは星に願掛けしたいと思うようなことを思いつくことができていない。──だって、ずっと昔から願っていたことは、ようやく叶ったばかりだから。
理由なんてなくとも同じものを見て、言葉を交わして──なんて、そんな贅沢に思える望みがうまれたのは、クラトスがここにいることを選んでくれたからに違いない。だが、それは天に祈るべきことではない。
周囲を眺めていると人の波は大まかに街の北側へ向かうほうが多く、恐らくはみな物見台を目指しているのだろう。この街の地図を見た際にそんなことが書いてあった。売りにしているだけのことはあって、きっと空がよく見えることだろう。
だがロイドたちが歩いている方向はほとんど逆と言っていい。流れに逆らうようにして、街の外れのほうへと向かっていた。
「どこか当てがあるのか?」
「昼間に地図見た時に気になったんだ。まあ、百点の眺めじゃなくても落ち着いて見られるほうが良いなと思ってさ」
「……抜け目ないな」
途中クラトスに行き先を尋ねられたが、ロイドとて明確な目的地があるわけではない。確証もない。だがロイドは自分の勘に一定の信頼を置いているし、それはクラトスも同じらしいことをつい最近知った。
おまえの勘は侮れない、私には無い感覚を持っているときがある──と面と向かって言われ、かなり驚かされたのは記憶に新しい。
彼はどちらかといえば理屈と経験で動くひとであり、それらは勘という言葉の真逆にある気がする。言葉を交わせば交わすだけ、知らないことが現れる。
あまり目立たぬよう人の間をすり抜けて、細い路地に入った。先を行くロイドのすぐ後をクラトスが着いてきている。暗い石畳の上に、ランタンの橙色の光が後ろに薄く影を浮かび上がらせていた。
案外入り組んでいるのか、極力まっすぐ突っ切るように路地を抜けようとしても、大の男二人の足でもそれなりの時間を要した。むしろもっと小さな子供の方がこういった狭い地形は得意かもしれない。
影の中から少し明るいところへようやく足を踏み出す頃には、もうすっかり辺りは夜闇の中だった。
軽く周囲を見渡すと、街の端まで来ているのか、まず頑丈そうな柵が目に入り、その向こうには遠くに山々が見えるだけだ。どうやら崖に面している場所らしく、周りも民家の背ばかりで人の気配はほとんどない。
ついでに、なんとなくもう少し首を捻って後ろを振り返ってみる。そこにいた長身の男は、同じように辺りを見ていたようだが、ロイドと違うのはわずかに溜息をつきながら肩を払っていたことだった。
どうやら自分以上にこの男には少々窮屈な道のりだったらしい。ロイドの視線に気がついたクラトスが訝しげな表情をするのがどこかおかしくて、ロイドは思わず吹き出してしまった。
「……どうした?」
「いや、なんでも……。それより、この辺だった気がするんだよな」
首を傾げているクラトスをよそに、少し開けたところでもっとよく周囲を見てみる。上を見上げてみると、少し背の高い建物に阻まれ全天とはいかないが星の散らばる空が見えた。深い森の中で木々の隙間から見上げるような箱庭の空と比べれば上等だが、まだ物足りなさもある。
こつ、と足音を立ててクラトスが歩み寄ってきた気配がした。
あれだけの人がいたのに路地を隔てただけで喧騒は遠くなり、明かりもほとんどないせいか、街全体が少し早い眠りについているように錯覚すらする。これならばロイドの勘はおおむね当たっていたと言っていいだろう。
「ほんとに誰もいないな」
「我々が余程の物好きということになるのだろうな」
「いいんだよ。こっちの方が俺たちらしいだろ、多分」
軽口を叩きつつ、開けた崖側ではなく建物の並ぶ側のその向こうに目を凝らす。ロイドの記憶が正しければ、この辺りだったはずだ。昔よりは方向感覚が身についたと自負している。
少しして、緩やかな勾配の上、北側の家の向こうに少しだけ背の高いシルエットを見つけた。
「あ、あれだ。あの上とかどうだ?」
指を差して示すとクラトスが素直にその方向を見やる。すっと目を細めてから数秒ののち、
「あれは…………給水塔、か?」
見事にその正体を言い当てた。まだ少し距離があるうえに影になっており普通なら判別は難しいはずだが、そんなことはクラトスにとっては障害にならないし、ロイドとて同じことだった。
「そ。どうせなら高いとこのほうが見やすいだろ? 人んちの屋根に勝手に登るのはまずいけど、あれならちょっとぐらい怒られないだろ」
星を見るなら高い場所か寒い場所が良い──と、昔クラトスが言っていた。ロイドは彼が教えてくれたことはすべて覚えている……つもりだ。
もしも長い空白の時間のあいだに記憶から溢れてしまったものがあったとしたら、それは────とても寂しいことだ。
ちらりとクラトスを見上げると、彼はもうこちらを向いて待っていた。
クラトスが案外気乗りした様子でいてくれるものだから、誘った側としても気分が良い。年甲斐もなく浮き足立っている自覚はある。
それでも良い。見栄などいらない。何も後悔しないために、このひとにはできるだけ素直でいると決めたのだ。
「あそこから行けそうだな。行こう」
目的の方角にはまた建物の隙間の暗がりがある。だがもう少しだけ辛抱すれば、よく晴れた夜空にもっと近づくことができる。特別な日にするなら、妥協してしまうのは惜しい。
一歩二歩と歩き出すと、遅れて後ろに足音が続いた。
「……今度はすぐ抜けられれば良いが」
手元の明かりが頼りなくなるような影の中に足を踏み入れようとした時、背後から嘆息する声が聞こえて、ロイドは口元がゆるむのを自覚しながら言葉を返した。
「こういう時に飛べたらすぐなのにな」
「それは……こんな街中で、ましてや空を見上げている者が多いようでは難しいな」
「冗談だって」
対するクラトスの返答はどこまでも真面目なように思えたが、その声色は決して硬いものではなかった。
◇
幸いにも、今度の路地を抜けるのはすぐだった。
年季の入った石造りの給水塔は、近くで見ると最初の印象よりも小さく見える。それでも周りの民家よりは背が高いが、街の端にひっそりと佇む様子はどこか時の流れを感じさせた。
ところどころが錆びた梯子に軽く触れてみると、今すぐ崩れてしまいそうなほどではなかった。これなら問題なく登れるだろう。
片手が塞がっているままでは登りづらいため、ランタンの火を消してしまい適当に腰のベルトに括り付けていると、梯子の脇に子供の落書きを見つけて、無意識に目で追っていた。
クラトスもロイドの視線の先に気がついたのか、隣から石の壁を眺めていた。
「えーと……名前? ありきたりだな……」
「子供のすることなどそんなものだ」
暗い中で解読した文字列は、何の変哲もない人名だった。別に何か重大な秘密を期待していたわけでもないが。
ロイドが苦笑する隣で、クラトスは想像の範疇だったというようにロイドを短く嗜めた。その内容にはどこか含みがあるような気がしなくもなかったが、あえて追求はしないでおくことにした。
おそらく、自分が覚えていない頃の話が飛び出してきて恥ずかしい思いをすることになるだけなので。
宿を出てからはもうそれなりの時間が経ってしまっている気がする。石の塔の上からの眺めはほとんどが夜の色に包まれていて、遠くにぽつぽつと橙色の明かりが見える。それは自分たち以外にも人がいる証でもある。
静かに腰を下ろしてようやく一息をつくと、もうひとりの同行者も倣うように座り込んだ。
「ここからならよく見えそうだ。まあ、やってることはいつもとそんなに変わらないんだけど」
ぐっと上を向くと、白い砂がまばらに散りばめられたような紺青の空が広がっている。
今まで何度、何日、何年の間同じことをしてきただろう。旅路がひとりと一匹ではなくふたりと一匹になってからだって何度も同じ景色を眺めて夜を明かしてきた。同じものを見ているはずなのに、同じ思いを抱くときもあれば全く違う思いを抱くときもあって、不思議と飽きることはなかった。
隣の男は、そうだな、と相槌をうってからは沈黙を纏っていた。きっと彼も空を見上げているのだろう。そんな静かな姿を何度も目にしたことがある。
ぼんやりと青白い河を眺めていても探し物はなかなか現れそうになく、会話が途切れているのをいいことに、こっそりと視線を戻してクラトスの横顔を盗み見る。
ロイドは彼が本当に乗り気なのかそうではないのかいまいちよく分かっていなかったのだが、気がつけば想像していたよりも真剣な表情から目が離せなくなっていた。
鼻筋のうえ、睫毛のかかった瞳に、ちか、と星の光が反射したように見えた。
本当に昔から変わっていないひとだ。昔からずっと──立ちふるまいも含めて、街で知らない女の人の目を引くのも、わかる……と思う。
似ている、とロイドが、あるいはクラトスが言われたこともあるが、正直自分では鏡を見たところでよくわからない。
別人にしか思えないと言うと少し語弊があるが、自分ではそんな感想になってしまうのは、彼がどんな表情をして、どんな声をしているのかを知っているからなのだろうか。
それとも近くで触れてみて、重なった手の大きさも感触も全然違うことを知っているからだろうか。
ロイドも例外ではなくたびたび目を引かれてしまうのは、もうあきらめている。
唯一違うのは、見知らぬ相手の興味本位の視線をものともしない彼は、ロイドがあまりまじまじと眺めているといつも途中でロイドのほうへ振り向いて、少しばかり困ったような顔をするくらいだ。
今日も、例外ではなくなった。
「…………星を見に来たのではなかったのか?」
呆れた声色をしたクラトスが横目でこちらを窺っている。こうやって、ロイドの視線が彼に見つからなかったためしはない。
「父さんも何か願ったりするのかなって」
それに対して、毎回半分本当で半分嘘の言い訳をするのが常だった。ただ見惚れていたのだと言ったら彼はなんと言うだろうか。いつも見ているだろう、と不思議な顔をするのだろうか。
「おまえはしているのか」
「し、してたら悪いのかよ。質問に質問で返すなよ」
頭上の夜空なんて差し置いて顔を合わせているような者たちなど、今この時にはそうそう居ないに違いない。例えば恋人たちだったりしたらそんなこともなくはないのかもしれないが、自分たちの関係は相変わらず何かに当てはめるのは難しい。
「そのようなつもりはなかったのだが……すまない」
自分についての話題を流してしまおうとするのは彼の癖らしいことを、最近ようやく理解し始めたところだ。わずかに眉尻を下げたクラトスに、それで、と続きを促すと、彼はようやく語り始める。
「願い事か…………。迷信と言ってしまうのは無粋だと理解してはいるが、己の手で為さねばならぬことを天に祈る気にはなれなくてな。ただ眺めているばかりだった」
「それは……ちょっとわかる気がする」
「だが、」
そこでふっと目を逸らして一度言葉を区切ったクラトスの語気は、静かなようでいてどこか複雑な色を纏っているように思えた。
「一度だけ…………ただの一度だけ、もしもおまえがどこかで生きていたらと、そんなことを思ってしまったことがある。虚しくなるだけで、それきり何か願うようなことを思ったことはないが」
表情の読めなくなったクラトスが語った内容は懺悔に等しかった。彼がいくつも抱えているものの中の、わずか一つにすぎないそれに、ロイドは息を呑む。
彼がそれを願ったのがいつのことか、嫌でもすぐに思い当たる。彼の願っていた自分の姿は、きっと自分が覚えていないほどにうんと小さかったに違いなかった。
「このような話しかしてやれなくてすまないが」
膝元を見つめながらクラトスが俯いたまま語るのをただ聞いていたが、付け加えるようにぼそりと謝罪のことばが呟かれて、ロイドは黙っていられなくなった。
「叶っただろ」
「……そうだな」
ぐっと身を乗り出して、クラトスの顔を覗き込むようにして顔を向ける。前髪の奥の瞼がふるえて、鳶色の瞳がもう一度こちらを向くまでは、案外すぐのことだった。──平気なわけないのに。
これ以上話を掘り下げることもない。少しだけクラトスのほうへ体をかたむけながら、こちらから話を切り出す。
「でも、いつも星見てたよな」
「願掛けがなくとも、一番心穏やかに夜を明かせる行為だった」
「だったって。……今は?」
クラトスが上向いた気配を感じて、ロイドももういちど空を見上げてみた。もしかしたらお目当てのものはいくつか見逃した後なのかもしれなかったが、それでも構わなかった。
しかし、昔も今もロイドの知る彼は野営の際には空を見上げていることがほとんどだったから、クラトスの言葉が過去形で括られたことに引っかかりを覚えて、少し深く探ってみたい気持ちになった。
穏やかな色が戻り始めた声でクラトスが答えたのは、
「今はおまえに寝かしつけられているからな……」
事ここに至って揶揄にも思えることだった。
それに対してなんと答えるべきなのか、大いに戸惑ってしまう。
間違っては、いない、のかもしれないが。言いぐさがまるで幼子のようだ。
確かに長らくまともに眠る習慣のなかったクラトスを半ば強引に横にならせているのはロイドだったが。場合によっては抱き枕になってでも捕まえている時もなくはないが……。
「…………。やっぱ寝るの好きじゃないのか?」
だんだん恐ろしくなってきて、怖いもの見たさに横目でクラトスの顔を覗くと、彼は意外でもなくうすく笑みを浮かべてごく自然体でいた。
「いいや。悪くない」
そう答えたクラトスは、どこか満足げでもあった。昔よりうんと分かりやすくなった感情は至って前向きなもので、内心で胸を撫で下ろす。
「そういうの驚くからやめろって……。いまさら嫌々寝てたとか言われたら、俺、しばらく立ち直れないかもしれないぞ」
がっくりと肩を落としたロイドの様子を見てか、
「それが嫌ならばそもそもここには居ないということだ。私の話はこのくらいでいいだろう。おまえはどうなのだ」
クラトスは苦笑しつつも彼なりの思うところを付け加えて話を締めくくった。ついでとばかりにロイドの頭の上に手を置きながら。
言いくるめようとしている気もしたが、心の中ではここは素直に乗せられておくべきだという結論に至って、クラトスの肩に体重をかけても彼はびくともしなかった。
そして、今度は自分の番らしかった。
「俺? ……知っての通りだよ。俺は、ずっと……。…………でももっと昔まで入れたら、まあ、本当にいろいろあったかもな」
思い返せば、自分がずっと願っていたことなど言うまでもない。──このひとと一緒に生きたい、などと。
翼があってもどこか分からないところまでは飛べない。自分の力が及ぶところなんて些細なもので、いつ星が巡るかなど、それこそ天に祈るしかなかったのだから。
気がつけば道は長く、願っている時間で言えばそれが大半になってしまった。幼い頃にはあったはずの、あれが欲しい、これがやりたい、なんて小さくて無邪気な願い事など、もうほとんど思い出せない。
これを言葉にすることが、父を責めることと同義ではないことが、彼に伝わっていればいい。そんな思いでロイドは独り言のような声量で呟いた。
「……意地の悪いことを聞いてしまったか」
「いいよ。でも、今は……あんまり思いつかないんだ」
遠くの、地に落ちた星のような橙の明かりを眺めながら言葉をこぼす。頭を預けている肩からはじんわりと体温が伝わってくるようで、夜の空気に身を晒していても寒くはない。クラトスが多少風避けになってくれている部分もある。
ひとつ願うとすれば何を願うべきなのか。やりたいこと、なってほしいこと、ぱっとひとつ思い浮かぶことがない。
自分が空っぽになってしまったとは思っていないが、大きな荷物を下ろしたばかりなのだから仕方ないと思うべきなのか、それともこれが歳を取るということなのか。後者は寂しいのであまり考えたくはない。
「無理に何かを願う必要はないだろう」
「せっかく特別な日らしいのにな」
クラトスはロイドが少しだけ立ち止まって後ろを振り返ることをいつも咎めはしない。それのどれほどありがたいことか。
──いいのかな。いいんだ。またこれから見つければ。自問自答は一瞬で、瞬きを挟んで上を見ると、細い光の筋がひとつ、ふたつと流れていった。
「お、見えた」
話し込んでいる間にも、空にある光は少しずつ形を変えている。星の位置は動くものだし、運が良ければ一秒にも満たないきらめきを見ることもできる。今日は運が良くなくても見えるから特別なのだ。
ロイドよりも先に空に視線を戻していたクラトスもきっと見ていただろう。自分たちは何度も目にしているけれど、それでも続けざまに見ることはそうそうない。
「何か願掛けがしたいのなら、次までに考えておけばいい。一生に一度の、と銘打たれているのを見たが、我らはまた天が巡れば見ることになるやもしれん」
「気が長い話だなぁ」
クラトスなりの意見はそういうことらしい。彼らしい話だ、と思ってしまう。
天使のものさしは長いにもほどがあるが、気がつけば自分だって似たような視点でものを語っているのだから手に負えない。
(……これってまた一緒に見てくれるってことでいいんだよな?)
単純に上向いてしまう心の中でひとりごちる。頭上ではまた尾を引く星が流れていったが、今思い浮かんだことは天に祈るべきことではない。きっと悩む必要もない。
──次はもっと、最初から素直に誘ってもいいらしいから。
ロイドが穏やかな表情で天を見上げるさまを、クラトスはじっと見つめていた。肩の力が抜けたようにわずかに唇がひらくのも、天上の風景を目に焼き付けるように瞼をもちあげた時に眉がすこし持ち上がるのも、その瞳の中で星の光が瞬くのも、すべて。
地上からすべての明かりが姿を消して、街がずいぶんと遅い眠りについたころ、ようやくロイドはそれに気がついて目を丸くするのだ。
「…………いつから見てたんだ?」
「おまえも随分と熱心に見ていただろう。そう変わらない」
「あれ最初からバレてたのかよ……」