Disinfect「あげはさん……! あげはさん、……もう、こんなところで寝ないでください」
耳慣れた声が夢とうつつの境を超え、空気を揺らした。
ぼやけた視界の先で、オレンジ色の影に紛れ眉をひそめながら髪を揺らす、綺麗な面差し。茜色の瞳。
私はなんだかほっとして、いつもの調子でにゃははと頬を緩めて笑った。
「あれぇ、少年じゃん。どうしたの」
「なんで玄関で寝てるんですか」
「……ん?」
首を傾げ、オレンジ色の光の中へ目を凝らす。
夜の闇に潜んでほんのりと色味を落としたステンドグラス。見慣れた天井と、鉢植えの緑の裏葉。
虚空を彷徨っていた座標がぴたりと合う感覚。虹ヶ丘邸の玄関だ。
「あ。ほんとだ」
ぽつりと呟くと、ツバサくんは「飲みすぎですよ」と言いながら大袈裟にため息をついた。
「なんかね、もうカオスで……」
苦笑いしながら泥のように重い身体を持ち上げる。アルコールにさらわれていた記憶が少しずつ舞い戻る。
「カオス?」
「一緒に飲んだ同期の子の中に、酔っ払うとキス魔になる子がいてさぁ。誰彼構わずキスしはじめちゃって。もう大変」
「……は?」
私の背中に添えられた彼の手がぴくりと跳ねた。
「されたんですか?」
「……ん?」
「その、……き、キス」
「……ん? うん、まあ」
「まあ……!?」
「別に減るもんじゃないし」
「そうですけど!!」
少し癖のある琥珀色の髪が大きく跳ねた。驚いて目を見開いた私から顔を逸らし、ツバサくんはじっと一点を見つめたまま言葉を繋ぐ。
「……そうじゃないですよ。……キスは」
吐き捨てるようにそう言うと、きゅっと唇の端を結んで口を噤んだ。
彼の端正な目元が歪な色を放つ。ゆらゆらと意識を漂わせていた波が緩やかに凪いでいく。
「キスしたことあるの」
「……ないですけど」
「へえ」
訝しむような目つきでこちらに視線戻した彼の頬に、私はおもむろに手を伸ばす。
「してみる?」
首を傾げながらそう言うと彼の冷たい頬に手のひらを当て、薄い唇に親指を押し当てる。
「キス」
「しませんよ」
ツバサくんは引き剥がすように私の手首を掴み、声を落とした。
「そう?」
にやりと笑ってそう言うと、彼はむっと顔をしかめ「どこにされたんです?」と語尾を上げた。
「キス?」
「……キス」
真夜中の玄関ホールにじとっと湿ったような沈黙が落ちる。彼の透き通るほどに綺麗な瞳に見つめられ、私は僅かに目を細めてから口を開いた。
「ほっぺと」
「ほっぺと?」
「くち」
「くち……」
手首を掴む彼の手のひらに力がこもる。
「どっちですか」
「なにが」
「キスされた方のほっぺ」
温度をなくした声がしんと静まり返った室内に無機質に響く。私は彼に掴まれたままの右手から人差し指を伸ばし、右側の頬を指さす。
「こっち」
答えるや否や、今しがた親指で覚えたばかりの感触と同じ何かが、頬に触れた。
何が起こったのか理解する前にちゅっと音を立てて唇が離れ、思わず振り返った私の唇に彼の唇が重なる。
呼吸を止めた内側で心臓が大きな音を鳴らす。彼の乾いた唇から僅かに漏れる吐息に、蕩けそうに甘いその香りに、アルコールに侵された頭がくらりと揺らぐ。
「……しないんじゃなかったの」
ゆっくりと離れていく彼の目を見つめたまま、私は微かな声で呟いた。
「キス」
茜色の瞳が淡く光を弾く。オレンジ色の灯りの下でほんのりと染まった頬を手の甲で隠しながら、ツバサくんは「キスじゃないです」と囁くような声で答える。
上目遣いに送られる、視線。手首の拘束を解いた指先がそのまま私の長い髪に触れた。
「キスじゃないです。……消毒です」
(おわり)