Silly 甘いパイには酸味が強めの珈琲をSilly 甘いパイには酸味が強めの珈琲を
インドへ出発する前にと、王城と井浦は高谷と六弦が暮らす郊外のアパートを訪れていた。
日本でカバディのインドプロリーグ中継が始まるに伴って、プロモーションその他で、インド挑戦組代表格の一人である六弦には、これまで以上に負担をかけることになる。
契約上の諸々はマネージメント業務を取り仕切る外園と既に打ち合わせ済だ。井浦の会社が経営に絡んでいるネット放送局でスポーツ実況やリポーター業務、手広くメディア関連の業務を引き受けている高谷とも、今度のインド行きについて、話を詰めなければならない。ちょうどいい機会だからと、仕事半分遊び半分の様相で井浦は王城と共に彼らの部屋へやってきた。
なんでも高谷たちが暮らしている大学のキャンパスに近い郊外の町には、平日限定で季節限定のパイを出すものの、午前中で売り切れてしまうような店があるのだそうだ。新鮮な素材を活かしたパイは、その日のうちに食べるとびっくりするくらい美味なのだそうで、その話を聞いた王城が俄然やる気になった。
桜の蕾もまだ凍えて固く閉じた三月の始め、井浦と王城は郊外にある高谷たちのアパートへの訪問が実現した。
王城正人は胃腸があまり強くなく、量はほとんど食べられないものの、美味なものは大好きだ。だからこそ、料理のスキルも磨かれるというもので、期間限定の甘いパイとおかずパイに興味津々だ。
無論、年始に井浦宅で繰り広げられた六弦たちの盛大な痴話喧嘩の後については、お互いなんとなく気にはしていた。
「え、お前が淹れんの?」
「ああ」
この季節限定の、コンフィチュールと完熟苺を風味豊かなクレームダマンドと合わせた苺のパイに合わせて、六弦が珈琲を淹れると言う。てっきり珈琲の違いがわかる男、高谷が準備するのだろうと思っていた井浦の表情がわかりやすくひきつった。
「やー、なんかすごい不安なのわかるんですけど、今は大丈夫っすよ!」
「お前、まだ根に持ってるだろ?」
客である井浦と王城に三人掛けのソファを譲り、自分はビーズクッションに腰掛けている高谷があっけらかんと笑い、立ち上がった六弦は渋い顔をしてそれを見ている。
「えー、そんなことねーすよ。オレ、淹れてくれただけで嬉しかったし。口ん中がザリザリするやつ」
ハンドドリップに失敗した、珈琲の成れの果てに想像がついて、思わず絶句した。
「……六弦、細かいこと苦手だもんね」
「想像しただけでゾッとすんな……」
客人二人が顔を顰めたことを咎めるように、六弦が不満そうに唇を尖らせる。
「ぬ……」
「オレがあきらめずに頑張ったんすよ!教育のタマモノで、すげー美味しいの淹れてくれるよーになったんす」
間髪入れずに高谷が明るい声でベタ褒めするものだから、すぐに機嫌は直ったようで六弦はいそいそとキッチンへ向かっていった。
「ちょっと楽しみだな!」
「おい、あんまり期待すんなよ。相手は六弦なんだからな」
王城の言葉に意を唱えるつもりで、井浦はちょこんと隣に座る男の脇腹を肘でつつく。
「でも、六弦、高谷君のために頑張ったんだよね」
「そーなの!」
「そっかー、よかったね!」
満面の笑顔で問いかける王城に、高谷が無邪気に笑って応じた。六弦との関係に疲れて、薄笑いを浮かべて斜に構えてた時よりも、断然いい表情をしていた。
「その調子でインド行って、腹壊すなよ」
「あー、ちょっとそれは心配なんすよね。でも、そしたら六弦さんが薬買ってきてくれるって!」
ここぞとばかりに惚気る気満々の高谷に井浦も辟易だが、王城は気づいていないのか気にしていないのか、ニコニコと高谷の話を聞いてやっている。
「六弦さんちの下宿、隣の部屋空いてるらしーんで、そこ使わせてもらおーってことになったんす。下宿のおばちゃんのカレーとか、近くの草カバディ場とか、めちゃくちゃ面白いとこ一杯あるみてーなんで、インドレポートも期待しといてくださいね!もう何も心配ねーっすから」
井浦を真っ直ぐに見て言い切った高谷は、本当にもう何も心配なさそうだった。
少しして、高谷の趣味なんだろう焼き物のカップで珈琲が運ばれてきた。苺のパイに合わせて酸味のあるフレッシュで軽い味わいのものを選んだのだそうで、口に含むとパイの味を邪魔しないサラッとした香りが広がった。