海の幽霊(SSL):
「海の怪物ゥ?」
ブラックコーヒーを啜りながら、ベレッタは怪訝な声で言う。自分をベレッタと覚えている人のうちの一人、凸波支部のやたら足の早いエージェントが、すがるような声を出した。
「ベレッタさん海とか生き物とか得意でしょ? 頼みますよぉ~」
「ここの支部長の支部員やっててよく俺に海得意って言うじゃん……唯一の弱点にも近いですけど……てかそれこそビスさんに言えばいいじゃん?」
カップを置けばチチチとエージェントが指を振る。動作がでかいなこいつ。
「こ、れ、を、わざわざイリーガルのベレッタさんに最初に言いに来たのも理由があるんですよ」
「最初なんだ……」
げんなりした感じのベレッタを意に介さず、エージェントは手中のタブレットを操作すると、開いた画面をベレッタに見せた。やる気の無さに目を細めていたベレッタだが、そこに映ったものに目を丸くする。
「ベレッタさん、詳しいでしょ? 変な展開になるより先に伝えた方がいいかと思って」
映し出されているのは、ベレッタにとって日本の故郷と呼んでも差し支えない――そして覚醒以来足の遠のいている、あの灯台だった。
***
――取り壊しが決まってたんですよ。知ってたかもしれませんけど。
――最初に被害にあったのはあのへんの土地の権利を主張する団体です。まぁ他所でデモとかいろいろやってて悪目立ちしてた人たちなんですが……。
――次が工事業者ですね。下見にきたところ、突然高波が押し寄せたとか。偶然全員砂浜に打ち上げられたそうですが、もちろん下見どころじゃなくなりました。
――そこでUGNに通報がありまして、先遣隊がレネゲイドの残留を確認してます。ただ彼らにはとくに被害はありませんでした。灯台そのものに手を出さなかったからでしょうか?
足の早いエージェントの報告を反芻しながら、一人海に向かう。高台の白い灯台は、未だにくすみすら感じさせず凛と立っていた。
「怪物ねぇ」
肩のバッグを掛け直し、とぼとぼ歩く。いつもより心なしかブーツが重い。
灯台に続く高台を途中まで登ると、一度周囲を見回した。都市並みを背中側にすれば、視界一面には青い海が広がる。
――見事なものだろう。穏やかな海も悪くない。
そう語った男の言葉が勝手に反復される。
ゆるく首を振ると、金髪が揺れた。この身体の不思議なところは、歳はとらないのに髪だけ伸びていくところだ。
どれだけ待っても帰ってこない男がいる。
***
「ねえ~ないよ変なとこ」
五分散策したベレッタはすぐさま愚痴を吐いた。
通話相手のエージェントがこちらも草臥れたような声を出す。
『出ていったのつい二時間前じゃないですか。実質一時間くらいしか調べてないでしょう? もうちょっと粘ってくださいよ』
「途中で自販機寄った」
『ジュース飲んでんじゃねーよハゲ!!』
空間と重力をちょろまかし、外から展望台に降り立つ。高いところは無条件に気分がいい。まぁこの状況はまったく改善されないのだが。
「だって流れとしてはさぁ、灯台に手ェ出そうとしたらコラッてしにくる感じでしょ? 俺やだよここに手ェ出すの。祟りとか嫌だもん」
『その発想が祟られろ。本物の事故物件になって、いよいよお上が乗り出してきたらどうするんですか!』
「でも俺日本人じゃないし~……」
などとぼんやり手すりに肘をつき、スマホで会話する。そんな風に何気なく白昼の海を見下ろしたとき、白いものを見た。
「――……」
『とにかく! 一旦ワーディングでも何でもしてみてください。報告書書ける程度には……』
「ごめん後でね」
『かけてきたのそっちだが!?』
最後に吠えた一声だけ聞き、手早くスマホを仕舞う。そのまま手すりを掴むと、勢いよく飛び越えた。
もちろん灯台の高さだ、十数メートル以上の高低が存在する。武器を使うときと同じ要領で能力を起こすと、次の瞬間には地面に降り立っていた。他人が居ればベレッタが瞬間移動したように見えただろう。空間を歪曲させるとはこういうことだ。
雑草の蔓延る地面を踏み、そのまま海辺のほうへ走る。高台の切れ端は崖になっていて、そこから落ちるギリギリのところで留まり、海を覗き込んだ。
海の浅いところに、分厚い白の尾びれが踊っていた。ゆったりとした動きは、それがあまりにも大きいからだ。間違いなく横幅二メートルはある。
波を割いて尾びれが空中に躍り出る。飛沫を上げた尾は海面を叩き、波が立つ。それは崖の高さすら超えて、ベレッタにも白い泡を届かせるほどだった。
そう簡単にあんなデカブツが現れるような環境ではない。……あいつから怪物を見たなんて話も聞いたことがない。
ベレッタは海面を見極めると、ほんの少しだけ波間に突き出している岩を見つけ、迷いなくそこに飛び降りた。また空間と重力を調整し、十メートル以上の高さを、机から飛び降りるような衝撃だけでこなす。見る人がいればもはや海の上に立っているのかと誤解するだろう。そんな小さな岩に乗れば、もちろん足が、胴が、全身が飛沫を浴びる。
ああ帰ったら絶対シャワー借りよう――そう決心しながら、間近でその白い生き物を見た。
「くじら」
つい呟く。
きれいな鯨が泳いでいた。
(でっけー)
呆然と眺める。あいつに付き合って海の生き物を構ったことはあるが、このサイズは見たことがない。哺乳類最大は伊達ではない。
鯨の方も、突然波の上に立つみたいにして現れたベレッタに驚いたようだった。しばらく海中からぐるぐると様子を伺っていたが、やがて小山のような背中が海面に出る。派手に吹いた潮に、ベレッタはとっさに顔を腕でかばった。まあ全身ここまで濡れていればほぼ意味はなかったが。
(歌ってる)
水というのは本当に音を振動させるらしい。ベレッタの素養は音や振動のそれではないが、海中で響く腹の底を震わせるような音階は届いていた。
鯨は低く、長く、陸に向かって歌っている。まるで誰かに声をかけるように。
まるで誰かを呼ぶように。
ベレッタは眉間に皺を寄せた。なんだか突然とてもやるせなくなって、言葉が通じるとかは考えもせず、白い生き物に向かって声をあげた。
「――いねぇよ!」
また波が立つ。膝下は海に浸かっている。
「あいつ今――留守なの!」
叫ぶことは自分のためのようでもあった。
ぐっと眉根を寄せながら、その言葉を噛みしめる。
今いないんだよ。
今この灯台には誰もいない。
「――るす?」
だから、返事が返ってきてたまげた。
元軍人の反射力でそちらを見れば、いつの間にか白い鯨は姿を消していた。
代わりに海中からこちらを見る白い人がいる。ベレッタは息を呑む。
「御崎――」
髪は白いけれど、その顔立ちも、目付きも、声色も、ベレッタのよく知るものだった。
だからつい呼んで、次の瞬間そうではないと理解する。
何が明確に違ったのかは分からない。あえていうなら、何か、『色』みたいなものが。ベレッタの知る黒髪で声のでかい彼とは確実に違っていた。
波に飲まれるでもなく波間に佇む人は、子供のような目でベレッタを見ている。
「みさきをしっているのか」
ああやっぱり。お前じゃなかった。
別に幽霊でもよかったのに、と、一瞬思ったことは、一生誰にも言わないつもりだ。死ぬ予定もないけど、今のところ、一生。
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このあととりあえず鞄に入れてたえびせんをあげた。