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    kanipan55035874

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    kanipan55035874

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    「いざ終末が来たら、終末論者だって泣くだろ。あれだけ望んだ終末が来たのに泣く。人間とは概してそう言ういきものだ。九九パーセントの確率で引き起こるけどまだ一パーセントある。それに絶大な信頼を寄せているし、縋っている。つまりだ、僕が言いたいのは余白のことなんだよ。「一」と言う漢字を文字として認識できるのは何故だ?それは線じゃなくて周りの余白……文字だから空白と言った方がいいかな。一平方センチメートルの紙に十号の筆で一と書いてみろ。紙は黒く濡れて終わりだ。例え達筆に書いたとしても誰もそれを「一」とは認識しない。僕たち人間は線や色で物事を理解するんじゃない。それを構成する空白によって初めて窺い知る。物事の本質というのは空白と余白に宿るものなんだよ」
     晋作は脚立に座って、見上げるような大きいカンバスにペタペタ油絵具を塗っている。大きな面に赤ちゃん筆で緑だの黄色だのをちまちま重ねて立体感を出しているのだ。ひっつめにした長い髪の毛先が白く束になって固まっていた。
     納得できるようなできないような、滝のように流れる美の口述を、森くんは「ほぉ…」と聞いていた。少し眠かった。晋作はその「ほぉ…」を理解できていない「ほぉ…」だと思ったのだろう。
    「蓮コラってあるだろ。あれだってただ蓮の実がなっているから不快になるんじゃない。実と実の間の細い余白があるから気持ちが悪いんだ」
    「いい、いい。分かってら。余白は書道の基本でもある。その点においてお前の考えには概ね賛同する」
    「うん。君は頭が柔らかくっていいね」
    「その小さい秋みてーな筆も余白のためか?」
    「そうだとも」
    「完成する前に星が終わるぞ」
    「2日で終わる」
    「寝ろバカ」
     森くんは晋作の両脇に手を入れて、長い猫を持ち上げるみたいに脚立からおろした。適当な床に下ろしてパレットと筆を取り上げてラップをかけてやる。ウダウダとぶーたれる晋作をソファに放り投げてへたった毛布をかけてやった。
    「僕は眠らないぞ、アイデアを忘れてしまう」
    「お前そう言って忘れたことないだろ」
    「そうだった。僕は天才だった」
     そうして寝た。気絶だろう。
     隈は酷いし顔色はほぼ死人。晋作は令和のお化けギャルソンみたいだった。
     森くんは晋作の絵の具で荒れた手にアロエのスキンクリームを塗ってやった。晋作は肌に塗るもの全般が嫌いで、一度塗ると服を着させられた犬みたいに固まって動かなくなるから。



     美術大学。芸術の魔境。校舎の窓は汗と涙と努力でできているし、柱は嫉妬と焦りでできている。彼らはガソリンではなく絵の具で走るのだ。
    「うん。草書はいいね。筆の弾力が充分生きてる。……ただ篆書はダメ。良い悪いじゃなくて文字じゃないよこれ。記号として見てるんだよ。とにかくインプットして。もっと字をよく見て目を肥やすんだ。書くのはそれから。スタートラインにすら立ててないよ」
     部屋に入る時は手ぶらだったのに、出た時は抱えた山のような資料で両手が塞がっている。
     教員から評価をもらうときは、1.自尊心を捨てる 2.聞くに徹する 3.泣かない 以上3点を徹底しないといけない。じゃないと心がポックリ折れるから。
     芸術は己との戦いである。周りの芝生は全部青いし自分の芝生は全部枯れている……ように思えてしまう。毎日誰かが「全員自分より上手い」と叫んで廊下を走り去っていくし、食堂で虚な顔をしてスケッチブックを抱えている人がちらほら、必ずいる。
     森くんは書道専攻である。日がな一日墨を磨り、書いて書いて書く。彼は秀才であった。努力で登ってきた。賞に応募して、入選することもあったし音沙汰ないこともあった。だって秀才だから。
     今回の篆書の課題の評価は散々だったが……どこ吹く風である。もうズタボロにされるのは慣れた。慣れないとやっていけない。
    「怒られたんだろ」
     ぬ、と真横から声をかけられる。面白がっているような無神経な声色だった。
     右隣にぽちんと晋作が立っている。手をぶらぶらさせて片眉をク、とあげた。
    「怒られてねえよ。評価が低かっただけだ」
    「ふーん。教授の部屋から出てくる奴ってみんなしょぼくれた顔してるから怒られてるんだと思ってた」
    「課題の評価もらいに行ってないのかよ」
    「来なくていいって言われてる」
     高杉晋作。彼は長い髪の毛先をチマチマいじって、つまらなそうな顔をした。いつも同じ顔をしている。
     晋作は天才であった。描けば当たる。やれば当たる。油画を専攻にはしているけど、何でもできる。彫刻でも何でも。時代が時代なら千年語り継がれているほどに。
     彼の絵は衝撃的で、でも当たり障りなくて、真新しくもあるしクラシックでもある。彼の芸術を表す言葉がまだ出現していないのだ。
     とにかくみんなの憧れで、腫れ物。鑑賞する分にはいいけど、隣に並びたくない。
    「ラーメン食べて帰ろう」
    「お前全部食べきれないだろ」
    「お子様用ミニラーメンにする」
    「今日は真っ直ぐ帰んぞ。荷物が多い」
    「森くんっていつも大荷物だよな。他のやつもそうだけど」
    「あんまりそれ人に言うなよ」
     晋作は基本手ぶらである。タブレットとか、財布とかそう言う最低限を詰めた薄いトートを肩に引っ掛けてるだけ。課題が終わらなくて大荷物にすることがまずない。その日に描いて終わる。参考資料は全部頭の中。一度見たものは絶対忘れない。彼は何かの間違いで生まれてしまった芸術ロボットだった。
     秀才と天才。蛙と蛇。森くんと晋作。一歩間違えれば良からぬことが起きそうな関係であるが、存外二人は仲良しで……と言うか晋作に生活力が無さすぎて……絵のこと以外壊滅的で……放っておくと床のシミになってしまうので……なんだかんだで世話焼きの森くんが介護しているのだ。
     二人の出会いにドラマ性はない。入学式の受付で一緒になって、薄っぺらい会話からちょっとずつ仲良くなっていっただけ。元来美大生はお金がない生き物なので何かのタイミングで一緒に住み始めた。本当にそれだけ。
     とは言っても秀才と天才。森くんが晋作の才能に焼かれる……こともなく。晋作は書道に一切の興味を示さなかった。文字にも興味がなかった。そもそも字を書くことが好きではなかった。
     二人は水と油、水墨と油彩で決して交わることなく、だからこそ安定しているのだ。
     そんな話。
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