「水くらい取りに行ったぞ」
「気持ちよさそうに寝てたくせに」
「甲斐性なしだと思われちゃ構わねぇ」
「そんなことで愛想つかしたりしないって」
ハスクはお腹を天井に向けて顔だけエンジェルの方に向けていた。エンジェルはモコモコのバスローブを羽織っていた。時刻は午前4時、ハスクはエンジェルが持ってきてくれた冷たい水を飲んでぱた、ぱた、と羽根を動かす。変な体勢で寝ていたからか、妙なところに痕が付いていた。
「ねぇ首のとこ、どんだけ強く噛んだの?めっちゃ痛いんだけど」
「噛めっつたのオマエだろ」
「え嘘、そうだっけ」
「嘘だよ」
「ねぇ!……いいけどさ」
「仕事は?」
「休みもぎとって来た」
「キンタマごと?」
「そうだったらどれだけよかったか!」
「ハハ、元気だこと」
ボフ…とエンジェルはベッドに倒れ込んでハスクのお腹に顔を乗せた。ゴワゴワした肌触りの中にほんのり石鹸の香りがした。エンジェルはしばらくそのゴワゴワのお腹を触ったり弄ったり、犬猫がぬいぐるみにじゃれつくようにハスクを触っていた。ハスクはレントゲンを撮られる猫のように大人しかった。黙ってエンジェルの頭の後ろを見ていた。
「ハスクって乳首あんの?」
「知らん。探せば8個はあるんじゃないか」
「乳首当てゲームしてもい?俺乳首責め上手いよ?」
「やめ、やーめ」
細長い4本の指が縦横無尽にハスクのゴワゴワのお腹を這いずる。エンジェルは割と真剣に毛の海を探してみたけれど、結局はどこまでもゴワゴワとフワフワが続いているだけだった。
エンジェルはハスクのモコモコを愛おしそうに撫でた。赤ちゃんほっぺたを撫でるおばあちゃんと同じ手つきだった。ハスクはゴロゴロと喉を鳴らしてへち…と体中の力を抜く。いい気持ちだった。
「……もしかして喜んでる?」
エンジェルが恐る恐る尋ねる。
「恋人と一緒にいれて嬉しくないやつがいるか?」
「……いるかもしれない」
「俺は違う。嬉しいよ」
「……」
エンジェルが黙ってしまったので、ハスクは仕方なくピンクの明かりに照らされたダークノスタルジックな部屋を見渡した。通販番組を見る感覚と同じだった。
椅子、カーテン、カーペット……ありとあらゆるものが多種多様なピンク色の部屋である。お姫様に憧れる年齢の女の子が見たら顔を真っ赤にして喜ぶだろう。しかし所々にある歪さ……例えば欠けたコーラルピンクの灰皿とか、伏せられたサロメピンクの写真立てとか、ドレッサーに散らばるローズピンクの錠剤とか。それがどこまでも不穏で不安定で、この部屋は女の子が見る(悪)夢そのもののように思える。
ハスクは眠そうな、優しい目をしてお腹のゴワゴワに顔を埋めて動かないエンジェルの頭を、爪を仕舞った手でフワフワ撫でた。そして20デシベルの声で「悲しい顔するな」と囁いた。
「顔見えてないだろ」
「見えるさ。腹に目がついてるんでね」
「……」
ハスクの声は極めて優しく、眠気を誘うような声だった。
「……ごめん、こういうとき何を話したらいいか分からなくて」
エンジェルは顔を上げずに言う。
「仕事はさ、終わったらさっさと帰るし、……ヴァレンティノとの後はすぐに記憶から消すように脳みそアップデートしてるから」
「器用だな」
「うん。いつの間にか器用になっちゃった」
「……そうか」
あんまり切ない声で言うので、ハスクは心臓を冷たい手で鷲掴みされたような感覚に陥る。エンジェルはもしかしたら声帯にずぶ濡れで震えている子猫を飼っているんじゃないかと思ってしまうような、脳みそがキューっとなる声。ハスクはたまらなくなってガバっと起き上がるとむちゃくちゃにエンジェルのほっぺたとか頭を撫でくりまわした。未練たっぷりの元恋人が土砂降りの中で傘も差さずにシクシク泣いているのを見つけて思わず抱きしめてしまう、そんな衝動であった。
「こういうときは朝飯どうしようみたいな話をするんだよ。頭を使う会話をするとお互い段々夜のことを思い出して恥ずかしくなってくるから」
「……朝何食べる?」
「パン」
「ぱん」
「と、卵とか、水とか、」
「囚人のご飯じゃん。さてはヤるだけヤって寝るタイプだった?」
「うるせぇな。セックスよりギャンブル派なんだよ」
ハスクは何かを誤魔化すように頭をガシガシかいて、もっとむちゃくちゃにエンジェルを撫でまわした。エンジェルはハスクと違ってフワフワモコモコサラサラで優しいイチゴジャムの匂いがした。(本当はバラの香りだが、ハスクは甘い匂いは全部イチゴジャムだと思っているのでよくわかっていない)
そのままベッドに引き上げて一つの枕を二人ではんぶんこする。ハスクの尻尾はエンジェルの脇腹の腕に絡んでいた。
「ということはハスクってあんまり経験ないんだな。その割には上手だったけど」
「バカ言え、俺は器用な方だ」
「そう思っておいてあげるよ。……じゃあ男は初めて?」
「まあ」
「アナル童貞貰っちゃった」
「そりゃドーモ」
会話の内容とは裏腹に、二人が浮かべる微笑みは秘密基地で内緒話をする子供のように無邪気で、いつもの残虐性をどこかに捨ててきたように穏やかで透き通っていた。
しかし。エンジェルのほろろ…という微笑みは長く持たず、やがて瞳を伏せるとおもむろに唇を重ねた。キスをするというより唇をくっつけるという表現の方があっているような、児戯のような瞬間のうちに見る見る彼の顔が悲しく歪んでいくのが分かる。ハスクが何か二音、「オイ」とか「なあ」とか言う前に、また子犬の声が遮る。
「どれもこれも全部ハスクが初めてだったらよかったのに」
エンジェルはその長い睫毛を伏せて「あげられるものが何もなくてごめんね」と少し潤んだ声で言った。そしてハスクを胸元に抱き寄せると弱い力で抱きしめた。三角の耳元をくすんくすんと可哀想な吐息が擽り、ゴワゴワの体を抱きしめる腕は震えていた。ほろろ…と流れる涙で頭のゴワゴワが濡れて束になっていく感覚がやけに鮮明だった。
「な、泣くなよ!」
ハスクは面食らってストレートな言葉を向ける。
「悲しい」
青い声が返ってくる。
「か、かなしいのか」
「うん。震えるくらい」
イチゴジャムの匂いがした。エンジェルはハスクの頭を胸に抱え込んで「聞こえる?」と20デシベルで囁く。
「心が震えてる音」
「……」
……聞こえるのは少しだけ早鐘を打つ心音だけだった。でもハスクの耳にはちゃんと「心が震える音」が届いていて、
「……聞こえてる」
ただその音が52ヘルツなだけだった。
不甲斐ない気持ちがハスクの胸に広がる。ギャンブルの勝ち方を知っていても、負けを知っていても、自分の慰め方は知っていても、恋人の慰め方を知らないことに今気が付いてしまった。途端に自分が情けなくて不器用な男に思えて仕方なくなった。ハスクの耳は垂れた。尻尾も垂れた。
「次は、こう、お前がロクでもないことに頭を悩ませなくて済むような話題を持って来る」
「いいって。次があるだけで嬉しいよ。……でも、ありがと」
四本の指がイカ耳を撫でる。ハスクはぽろりと一粒だけ涙を零してイチゴジャムの匂いに包まれるのだった。
二人の初夜と苦くて青みのある事後はこれで終わる。