プロローグ
今でも目の奥に焼き付いて離れない、あの日の記憶。
驚いたように目を見開き、咄嗟にこちらへと伸びてくる白い手と、ゆっくりと地へ沈んでいく細い影。手は届かない。声を出すこともできない。ゆっくりと沈んでいくその、成人男性にしては小柄な身体は、取り返しのつかないところまで行ってしまう。
深く、紅く、落ちていく。皮肉なほどにさわやかな風と町を颯爽と照らす太陽だけが「彼」を取り残して時の中を泳いでいた。
1話
セミの声に顔をしかめながら、使い古されたドアノブに手をかけると、ギィギィという耳障りな音とともにひんやりとした空気がシャチの体を包み込んだ。いつもと何ら変わらない職場の風景。今日でお別れをする、大好きな人との思い出がたくさん詰まった場所。そんな日常の一コマ。ただ一つ異彩を放つのは、花瓶。
入口から二番目、いつも「彼」が座っていた、整理整頓された机。その上にある一本の白い花。人差し指でそっと花弁を撫でると、まるですりよってくるかのように小さくゆれた。
好きで好きでたまらなかった、あの人の花だ。
シャチはそっと花から手を離し、自分の席についてぼんやりと天井を見上げた。今日が終わるころには全て終わっているのだから、仕事をする必要などどこにもなかった。
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「待ってください、」
深く考えずに声が出たその瞬間、激しく後悔した。「彼」は振り返る。不思議そうに首をかしげるその顔の奥には、ほんの少し期待が隠れているような気がした。シャチはごくりと生唾を飲む。どうしようどうしよう、言ってしまっていいんだろうか。心なしか、自分の顔が熱い気がする。
シャチは自身の手をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに「彼」を見た。
「 」
シャチよりも小柄な「彼」は、ふにゃりと笑ったかと思うと、次の瞬間には顔を真っ赤にして大粒の涙を流し始めた。マフラーの隙間から零れた白い息は、空高く上って溶けていった。サラサラの黒髪を揺らしながら、小さく何かを呟いた「彼」を、シャチは抱きしめた。
「よかった、同じだったんだな……」
自分の腕の中で、泣きながらそんな言葉を漏らす「彼」がたまらなく愛しくて、幸せで、シャチは鼻をすすった。
それが、はじまりだった。何物にも代えがたい、幸福な日々の。
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「あれ、シャチ君なにしてるの?」
うっすらとした視界の中に一人、男がこちらをのぞき込んでいる。——どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしい。時計の針は十二時を指していた。
「……パンダさん、今日も遅刻ですか?ただでさえ働かないんですからせめて出社くらいちゃんとできないんですか?」
「うるさいなぁ、どうせサボるんだから出社時間が遅れたって変わらないでしょ。」
パンダはべっと舌をだして、鞄を雑に机に放り投げる。その視線が一瞬、花瓶に注がれたのをシャチは見逃さなかった。
「……」
パンダもシャチも何も言わなかった。言う必要がなかった。言ったところで何も変わらない。それは「彼」が死んでからの間に、痛いほど思い知らされていた。
「ねえ」
パンダが口を開いたのは、それから数分ほど時が経った頃だった。
「……なんですか」
「君、ここ辞めるってマジ?」
シャチはゆっくりと目線をパンダのほうへ向けた。パンダはいつものようにスマホの画面を叩いている。その表情が、今は少し、影の入ったものに見えた。
「……本当ですよ。ここに来るのも今日が最後です。」
「そっか。寂しくなるなぁ」
「絶対思ってませんよね、それ」
二人は目を合わせ、可笑しそうに笑った。そういえばこんな風に笑ったのはいつぶりだろうかとシャチはふと思う。そもそも、パンダとまともな会話をしたこと自体久しぶりだった。
「元気でね」
「パンダさんこそ、薬とかやらないでくださいね?」
「やだなあ、やるわけ……ちょっと心配になってきた」
結局、その日は二人とも働かずにずっと言葉を交わし続けた。なんてことのない会話が、何故だか悲しかった。
夕方になるとシャチは荷物をまとめ、某企画を後にした。名残惜しさと、これから自分がすることへの覚悟が混ざり合い、何とも不思議な感覚だった。
それでも、自分が選んだ未来を変えるつもりはなかった。「彼」がいなくなってしまった時点で、すでに生きる意味などないのだから。
シャチはいつもそうしていたように、電車に乗った。人は少なく広々としていて、エアコンの効いた、ひんやりとした空気が心地よかった。窓の外から入る光があたたかく、ただただ眩しかった。
最寄駅についても、シャチは電車を降りなかった。どこか知らない場所へ行きたかった。そこから四つほど先の駅で、ようやくホームへ降りた。
知らない景色が、そこにはあった。
全く知らない街を歩く。それなりに建物が多くて、それなりに人がいて、茜色に沈んでいくような、都会町。
高ければどこでもよかった。少し歩いたところにビルを見つけ、シャチは鉄製の階段を
のぼっていった。ギシギシときしむその音は某企画のあのドアノブを思い出させた。
風を感じて、顔を上げる。屋上だ。
真っ白な布に、水を多く含んだ絵の具を垂らしたような空があった。町は橙色に染まり、風がシャチの頬を優しく撫でた。かつて、「彼」がそうしてくれたように。
目の奥がつんと熱くなった。懐かしいぬくもりは、あたたかかった。
「……ごめんなさい」
ぽつり、とこぼれた声は風に流れて溶けていく。シャチは手の甲で涙を乱暴に拭うと、ペンキの禿げた手すりに触れた。酸化したざらざらとした感触。
「……ごめんなさい、もう、しんどいです」
ごめんなさい、とシャチは繰り返しつぶやいた。「彼」がそこにいる気がした。ざわざわとした感情そのものに襲われているようだった。
「本当は」
シャチは手すりを握りしめたままその場にしゃがみこんだ。ぽたぽたと零れ落ちるそれはズボンにシミをつくった。そう、本当は。
「もう少しだけ、生きたかったです……」
けど、それ以上に会いたい。もう二度と「彼」に会えないこの世界で生きるなんて、耐えられそうになかった。
「会いたいです……ほんの一瞬でもいいから」
シャチは顔を涙でぐちゃぐちゃにしたまま、立ち上がって宙に手を伸ばす。
「最後に、一度だけっ……」
ぐらり、と体が大きく傾く。小さな悲鳴は風にかき消され、視界いっぱいに紫色の空が広がる。落ちる、と思った次の瞬間、腕が引っ張られる感覚とともにシャチの背中は地面にたたきつけられた。
「痛っ……」
「おい、何してるんだっ!!」
「……え……?」
シャチは目を開いた。先程と変わらず、空は近い。落ちる感覚もない。どうやら屋上に戻ってしまったようだ。
しかし、シャチはそんなことどうでもよかった。その視線は、ある一転に釘付けになっていた。ずっと追い続けてきた、「彼」——。
「ペン……パイ……?」
青紫色の空を背にこちらをのぞき込んでいるのは、あの頃から何一つ変わっていない、大好きな先輩だった。