いつか、あとで死ぬ呪い深夜。ミスタがシェアハウスへと帰った時。
ルカはすでに泣いていた。
「!?は、ちょ、何があったんだよ」
足を踏み入れた先のリビングの床が軋む。別にミスタがファットボーイだって訳じゃない。鬼と異世界から来た文豪の怒りで空気が重くなっているのだ。比喩ではなく、本気で。ソファに座りオロオロとするスミレの目は可哀そうなほど赤くなっていて、乱暴に擦ったのか所々が痛々しく腫れていた。
「お、おれは大丈夫だから!ちょっとびっくりして泣いちゃったけど、」
「いや泣いてる時点でだいじょばないでしょ」
「ミスタ!おかえり、じゃなくて二人の事煽んないで!」
こちらに気づいた顔が一瞬安堵し、それからむうっと怒り出す。その元気を見る限り本当にもう大丈夫ではあるのだろうが、何やらヴォックスとアイクにとっちゃまだまだ大丈夫じゃないことが起きたらしい。しかも二人の大事な大事なルカの身に。
ミスタからしたって大事な同期はそんじょそこらの事で泣く男ではない。いや、割かし泣きそうな顔にはなるけれど、日本で言うならばぴえん止まりなのだ。今のように、泣くのを我慢したけれど怖くて堪らなくて泣いてしまった、とでも言うような顔をすることは今日の今日まで一度もなかった。
今のルカは唇に嚙み締めた跡を作り、涙の筋を頬にいくつもつけている。ミスタはそわそわするマフィアに探偵の目をして近づいて、それらに気づいちまった後に一つ大きな溜息をついた。ぎゅうと血管が締まった頭にボヤキが浮かぶ。
(これは、何が理由でもブチ切れるわ)
だってミスタだってキレそうだもの。いつも太陽みたいに笑う男の泣き顔はそんくらいに心の中を掻き混ぜた。おそらく泣いている真っ最中に遭遇し、涙の理由も聞いちまった二人がキレない筈がない。
探偵はソファの後ろでひそひそと何か話し込んでいる異世界人とアクマに十字を切って、しゅんとしょげてるレトリバーの隣に座った。
別にルカをこんなにした奴に復讐したくない訳じゃない。ただ、ここで自分まで二人に加わればルカがまたもや泣いちまう。
「ま、元気出せって」
「もう元気だよ!なのに二人がずっっと怒ってて、空気びりびりさせて」
ミスタはポケットに手を突っ込みんで、チャップスを二本取り出した。もう!とセリフを顔につけたルカがイチゴ味を選んでとっていく。ミスタは暫く――包装紙の剝がされたそれが赤い舌先につくまで暫くルカをじぃっと見つめた。
「……? あ、イチゴのがよかった?」
こてんと金糸の束が傾く。ミスタはカラりと笑って金色の頭をくしゃくしゃ撫ぜた。
「!? わ、ちょ、なに!?」
(空元気って訳でもなさそーだな)
声色やら仕草やらから推理してみても、この底抜けに明るい男は確かに気を取り直しているらしい。ぽんぽん叩いてから手を離した髪の下でスミレ色がむくれている。なんとなしに張っていた心がふっと緩み、軽く出した声には緩やかさが乗った。
「ふは、や、だってさ、泣くほどだったんじゃねぇの?」
リンゴ味が口の中で真っ二つに割れる。
ミスタは早くも自由の身になった棒を口ン中から取り出して、クルクルと指で遊ばせた。やなことを思い出したのか、ルカの眉がぎゅぅと寄る。
ようやく聞ける泣きべその原因は、さてはて一体いかがなものか。
探偵はクライエントの依頼を聞く時の如く飴玉を砕いて飲み込んだ。欠片がカラカラと口を舞う。
「そりゃ、いきなりオジサンの裸見せられたらさぁ」
そんで最後に欠片は喉を突き刺してった。
「は、ハァ!?っが、ケホッ、おぇっ」
デカめの破片が気道に入って思わずえづく。
ミスタはせりあがった飴をテーブルにあったミルクで飲み込んだ。甘ったるい冷めた温度が違和感と共に喉を伝う。まるで間違えて温めた冷麺を食べた時みたいな、世にも奇妙な味だ。
「だ、大丈夫……?」
「なわけなくない!?オマエなにされたか分かってんの!?」
けれど今のミスタにゃンなこたぁどうでも良い。
探偵は隣に座る痴漢被害者の肩を掴み振り回した。本来なら現在ルカの隣に座るべきはポリスメンであって、それもカウンセリングなんかに長けた女性警官であって探偵ではない。
だがしかし生憎実際に隣に居んのはミスタである。なーんのケアも知らぬ探偵である。だからミスタはバクバクとなる心臓とおんなじペースでルカの体を揺さぶった。まるで、正気に戻れ!とでも言うように。
「レイプされてたかもなの分かってる!?なぁ分かってる!?」
「ちょ、もう!ほんとに大したことじゃないんだって!」
ルカの口が忙しく動く。
ミスタは背もたれの後ろから聞こえてくるアクマ達の痴漢暗殺計画にサッサと加わっちまいたかったが、探偵として被害者の話に耳を傾ける癖は体に染みついている。耳は勝手にあっちこっちに話がそれる被害者の言葉を拾い上げた。
曰く、アイスが食べたくなって数時間前に外に出た。
曰く、いつもなら夜はスマホとライトを持っていくけれど、近かったし面倒くさくって置いてった。
曰く、そしたら帰り道にコートの男が立ち塞がって――
「る、ルカくん、ハァッ、お、おじさんと仲良ししよぉおぉおぉおぉお!!!!!!!!!!!!って、コート脱いだかと思ったら裸で」
「や、やばいじゃん!?大したことあるじゃんっ!?!?!?」
「最後まで話聞いてってばぁ!」
曰く、びっくりして動けなくなって、勝手に涙が出てきて、
「でも、シュウが来て、助けてくれて」
「へ?」
思わぬ展開にミスタの、実はルカに一等好かれているらしい目が瞬く。ようやっと動きを止めた腕にルカは得意げな顔をした。
「うん!も、す~~~っっごかった!なんか術?とか使ってさ、POG!」
曰く、シュウによってオジサンは撃退された。
曰く、でも安心したのと怖かったのとで涙が止まらなくって、その場で腰が抜けてしまった。
曰く、それをシュウが抱き上げて呪術で家の玄関まで一瞬で連れ帰ってくれたけれど、丁度ルカを探しに行こうとしていたパパ(ヴォックス)とママ(アイク)に鉢合わせてしまい、泣いてるのを見られてあびきょうかん?になった。
途中動揺しきったミスタにぐわんぐわんと頭を揺さぶられながらルカが話したことには、どうやらこういうことらしい。いやどういうことだよ、と言いたいのを飲み込んでミスタは口ン中に溜まったツバを飲み込んだ。今言えることはただ一つ。
「シュウかっけぇ~~……」
「!ほんとに、ほんとにカッコよかった!泣いてるおれのこと笑わせてくれて、それで」
「あーハイハイなるほど、それが効いてあんま引きずってないってワケか」
納得したように膝を叩き、ミスタはブラザーに心の中で拍手喝采した。
なんて素晴らしき男だろうか。
シュウのことは元来好きであったが、今回の事も加わっちまえば更なりである。我らが末っ子を救うことにかけてシュウの右に出る者は居ない。このシェアハウスに住む者は皆ルカの事が好き――恋愛的なものかは兎も角――だけれど、面倒見という点で一等秀でているのはやはりシュウだった。
ミスタはルカといたずらなんかをするには一番だがうまく励ましの言葉をくれてやる事は出来ないし、ヴォックスは面倒見というよりは甘やかしだ。加えてあのアクマはアクマであるから思考が少しずれている。きっと此度の痴漢に遭遇したのが彼ならば、鬼は泣くルカの前でヒトを喰らってしまったことだろう。アイクも同様だ。異世界から来た男は一夫多妻だの一妻多夫だの、とかく常識が斜め上にある。痴漢がどうなるか、ミスタにはとんと想像がつかない。分かるのは酔ったアイクが語った異世界の拷問はこちらより恐ろしいということだけだ。それが本当に異世界流なのか、彼特有のものなのかは置いといて。
「だからね、おれ本当に気にしてないんだ」
にへら、と隣でルカが笑う。つられてミスタも笑った。それはそれとして痴漢は特定するけれど。出すとこ突き出してきちんと償わせるけれど。今はルカの心が変わらず健やかであった事のが大事だ。
「シュウがさ、あの男には呪いをかけたから大丈夫って言ったんだ。きっとひどい目に遭わせてやるから、って。何の呪い?って聞いたら『いつか、あとで死ぬ』呪い~って。知らない日本語だったから調べたんだけど――」
カラカラとくすくすとスミレが笑う。ミスタは楽しそうに語るルカの声にゆったりと耳を傾けた。いつの間にか、背後の男どもの声は聞こえなくなっていた。
「――ふは、なんだそれ。人間はみんないつか死ぬじゃん」
「そうだよな、ふふ、でもおかげでなんか気が抜けちゃって」
「安心できた、って感じ?」
前のめりになっていた体を背もたれに埋めて呟く。ルカ曰く、ミスタの愛するブラザーは見事な舌でルカの頭を切り返させたらしい。流石はデビュー動画でダジャレをぶちかましただけはある。心優しい呪術師の声がふっと頭によみがえる。滅多に荒げることのない、人を安らかにさせる声色。きっと今回だっていつも道理そんな声でルカを助けたのだろう。
(シュウのやつ、よく我慢できるよなァ)
もしこれが自分なら、痴漢の股間を踏み潰すくらいの事はしている。ミスタとて、ヴォックスとアイクほど残忍な復讐を考えないとはいえどルカの事は大好きなのだ。
「ほら、ダディもマミーも物騒なこと話してないで」
首をそのまま後ろ凭れさせて、ミスタはぐうと伸びをした。目を閉じたまんまぐぃーっと体をソファの背もたれに沿って延ばす。
「ん~っ、シュウを、見習いなよ、っと」
ぽきっと関節が鳴る。
はくり、と隣で息を飲んだ音が聞こえて、
ミスタはやっと目を開いた。
途端、全身の毛穴もブワリとあいた。
『いつかあとで死ぬ』呪い?
現在ミスタは上を向いている。
ソファの背もたれ首まで寄りかかっているのだから当たり前だ。けれど、ミスタの目に飛び込んできたのは天井じゃなかった。
「ふむ、ふふ、なるほどな。俺たちの出る幕はなかったか」
「ルカ!それを早く言ってくれれば、全くもう……シュウも面白いことするね」
ぞっ、とするような顔でコチラを見下ろしていた二対の金が緩やかに首をもたげて笑い出す。あまりに軽やかなそれにミスタはひゅっと息をのんだ。ルカのように意味も分からぬまま二人を怒ることが出来れば良かったのだけれど、生憎ミスタは探偵である。
目を開いたときに飛び込んできた、自分の知らぬ何かに気づいて笑う顔。
嫌な事件に遭遇した時と同じ、何かが引っ掛かったような感覚が肌を這う。のどに刺さった小骨の如く自身を煩わせるソレに、ミスタは首すら動かさないまま逆様の視界で推理した。ダブって聞こえた声が耳の底から蘇る。
いつかあとで、死ぬ呪い。
がちゃりと扉の開く音がした。
『本日未明、路上で男性の死体が発見されました。アイツに見られている、許してくれ、死にたくない、などの発言を繰り返していた、という近隣住民の証言から当初は事件性が疑われましたが、現場の防犯カメラの映像には被害者一人しか映っておらず、また自ら拳銃で頭を打ち抜いていた事から、警察は死因を自殺と断定、また被害者は発言のほかにもドラッグの服用をしているような行動が数日程続いており――』
5日後で死ぬ呪い