私の心のお兄さん 大学三年生になって、そろそろ就活を始めないと、そう思ってインターンに応募した。インターン先で、まさか、あの人と再会するなんて。
インターン初日。説明を受けた後、指導してくれる先輩方に挨拶をしに、他のインターン生たちとぞろぞろと移動した。部屋に入ってすぐに目に留まった。赤茶にところどころ緑が混じっている髪の毛をした頭。嘘でしょ、と思わず「えっ」と声を出してしまった。その声に気付いた彼はこちらを見て、彼も目を見開いて驚いて椅子から立ち上がった。
「き、君は……」
「観音坂さん、ですか?」
もはやここで会ったのは運命なのだと、そう思いたくなるほどに、この観音坂独歩という人物は、私にとって、いや、私の人生にとってとても大きな存在の一人だった。
***
5年前。16歳だった私は、両親が離婚することになって精神が荒れていた。私の両親は昔からとても仲が良くて、喧嘩なんてしたことがないほど娘の私から見てもラブラブな夫婦だった。憧れの夫婦だった。それなのに離婚することになって、裏切られた気分になった私は家を飛び出した。大人が信じられなくなった。
夜のシンジュクの街を歩いてみた。ギラギラとしたネオンが嫌なことを忘れさせてくれそうな気がしたから。もうこのままどうなったっていいやと、ふと目に入ったクラブに勢いで入った。未成年お断りなんて貼り紙は無視して。男女いろんな人が、自由に踊ったり食べたり飲んだりしているのが新鮮で、子どもの私には刺激的だった。
その非現実的な空間を楽しんだのもつかの間、チャラチャラとした風貌の男の二人組に声を掛けられ、私の心は一気に恐怖で支配された。
「キミ一人?あっちで一緒に飲まない?」
「えっ、いや、大丈夫です」
「ちょっちょっ、大丈夫って何!面白いね〜、気に入った。飲もうよ、いいモノあげるし」
小さなジップロックに入った錠剤のようなものをチラつかされ、私は瞬時にそれがイケナイものだと分かった。怖くなって逃げようとしたとき、グイっと腕を掴まれて、私は身動きが取れなくなってしまった。叫ぼうかと思ったけど、未成年だってバレて通報されたらどうしようと焦って、必死に抵抗し続けた。
「や、やめてください!」
「なに、もしかして未成年?だったら尚更、バレたくなければ一緒に来てよ」
「い、いや!」
もう無理かも、と諦めかけたとき。一人の男性が私の目の前に壁のようにして立った。
「おっ、おい!お、俺の彼女に触らないでくれ……ますか!?」
「アァ?誰だよオメー」
「ひっひぃっ!……ほ、ほら!どこ行ってたんだよ、行くぞ!すいません、ほんと、通してください……」
スーツ姿の、いかにもサラリーマンって感じの若いお兄さんが、頼りない言い方だったけれども私のことを“彼女”だという体にして、男たちを追っ払ってくれた。
***
私とお兄さんは二人組から逃げるようにしてクラブの目立たない隅の方の席へと移動した。
「あ、危ないところでしたね……」
「…………ありがとうございます。あと、敬語じゃなくていいです。私、歳下だと思うんで」
「あっ、そ、そう?わかった……。あの、さ。一人で来たの?」
「そうですけど。……お兄さんもナンパ目的ですか?」
このお兄さんも、助けたふりして本当は女の子を引っ掛けたいだけだったんじゃ、と軽蔑のまなざしで睨むと、お兄さんは椅子から立ち上がって、焦ったようにぶんぶんと手を大きく横に振った。
「ち、違う違う!俺はやけ酒でここに来てただけで……たまたま君が捕まってたから!お、女の子……女性一人で来るのは危ないんじゃないか?」
お兄さんの青白くなった顔を見て、嘘を付いてるんじゃないと分かって安心した。なんだかこの人は安全そうだ。
「やけ酒って……なんでですか」
「え?えーと……最近転勤したばかりなんだけど、どうやらブラック企業ってやつだったみたいで、ほぼ毎日残業残業で……ハハ、ちょっと疲れて……」
「へえ……せっかく転勤したのに、運悪いですね。お兄さん、クマすごいですよ」
お兄さんの前髪をひらりと上げて、目元をじっ、と見た。地味な人だと思ってたけれど、こうやってじっくり見ると意外と端正な顔立ちをしていて、少しドキッとしてしまった。
「クマ、すごいか……ハァ、寝たいんだけどね……。それで、君は?どうしてここに?」
「……私は、」
不思議だった。私はお兄さんにすらすらと、全て話してしまったのだ。親の離婚の件、それで何もかも嫌になって家出してきたって。お兄さんは真剣な顔をして静かに、ウンウンと頷いて聞いてくれた。
「そうか……それは大変だったね」
お兄さんは寂しげな目をして私のほうを見つめた。励まそうと何か考えてくれているような、そんな表情をしていた。申し訳なくなって、私はお兄さんが持っていたお酒を奪って、グイッと飲み干した。初めてのお酒。それも多分、強そうな。鼻の奥に味わったことのないツーンとした感覚がした。
「あっ、」
「辛気臭いのは終わり!せっかくクラブに来たんだから、お兄さん、楽しも!!」
「えっ、えぇ!?」
こうなったらヤケだ、と思って私はお兄さんの手を引いて皆が踊っているフロアの中に入った。ズンズンと大音量の音楽が鳴り響く。お酒が入って酔いが回ったのか、私は開放的な気分になって、リズムに合わせて体を動かした。
お兄さんは初めはオロオロしてたものの、いつの間にか吹っ切れてはしゃいでるかのように踊ってた。向かい合ってお互いの顔を見る。お兄さんがニコっと微笑むと、私の心臓が強く鳴った。
周りで踊っている人たちは、カップルなのか、出会ったばかりの男女なのか分からないけど、体を密着し合ってイチャついている。人が多いせいで、私とお兄さんも密着せざるを得なかった。
さっきのお酒が強く効き始めたのか、そういえば朝ごはんを食べたきり何も食べていなかったせいか、眼の前がぼんやりとし始めたとき、お兄さんの恥ずかしそうな顔がなんだかもどかしくて、首に腕を回してキスをしてしまった。キスなんて、したことがなかったのに。お兄さんの驚いた顔が真っ赤になっているのを見たあと、遂に私の目の前が真っ暗になった。
本当にどうかしてる。
***
気が付くと、知らない天井があり、見渡すと私は大きめのベッドに横になっていた。少し遠くのソファにお兄さんが腰掛けていて、私に気付いて駆け寄ってきた。
「き、君!大丈夫!?何ともない!?」
「お兄さん。大丈夫だよ。……私、どうしたんだっけ」
「覚えていないのか……。君、あの後倒れて意識がなかったんだよ。救急車を呼ぼうかとも思ったんだけど、ほら、家出してきたって言ってたから不味いかなと思ってとりあえず、俺が介抱したんだ。とにかく、無事で何よりだ」
お兄さんは私の近くのベッドの角に腰掛けて、ほっとしたように息を漏らした。出会ったばかりの私なんかに配慮して救急車を呼ばなかったなんて、この人は本当に気遣いができるみたいだ。
「ここ、どこ?なんか派手な部屋だね。お兄さんの部屋ではなさそうだし……もしかしてラブホ?」
「うっ……!ご、ゴメン……。近くのビジネスホテルも回ったんだけど空いてなくて、仕方なくここに……。で、でも本当にそういう気はないんだ!君が目覚めたら帰る予定だったし、あの、怖がらせてしまったらゴメンなさい……」
お兄さんは小さくなるように肩を狭めて、何度も何度も頭を下げた。助けてくれたのに謝るのって変だな、と思って私は少し笑った。
「お兄さんは本当にその気ないんだ?」
「ないよ。……あるわけないだろ。君、本当は未成年なんだろ?親御さん、心配してるよ」
「……心配してるわけないよ」
「何言ってるんだ、君の携帯にたくさん電話が来てたぞ。きっと親御さんだと思うよ。な、だから」
「う、うるさいうるさい!何も知らないくせに!」
お兄さんまで私を否定するんだ。勝手にそう思い込んで、涙が込み上げてきた。そんな私を見てお兄さんは勢いで立ち上がった私を座らせて、涙を指で拭ってくれた。
「そう、だよな。君の言う通り、俺は何も知らない。説教みたいになこと言って、ごめん」
「……いいよ」
「でも、俺が言うのもなんだけど、変な男に引っかかってたら今頃大変なことになってたよ。だから、もうこんなことはダメだ」
「お兄さん……」
「家出するならするで、もっといい方法を……って、家出にいい方法も何もないか。うーん……」
お兄さんは真剣なカオをして、自分のことのようになにか最善策がないか考えてくれた。あれやこれやを二人で話し合って、結局私は朝になったらもう一度家に帰って親と話し合いしてみる、ということに落ち着いた。
「……よし、それじゃ、俺はもう帰るよ。宿代は払ってあるから安心して」
「え?帰っちゃうの?お兄さん、終電ないでしょ?」
「あー、大丈夫大丈夫、テキトーにタクシーとかで帰るから……ちょっと痛いけどね……はは、気にしないで!」
お兄さんのやつれた笑顔が気になった。相変わらずクマもすごいし。お兄さんにはお世話になったし、何かお返しはできないものか、と考えた。
「待って」
「えっ?」
「私をお兄さんの好きにしていいから、行かないで」
意識を失う前の私も思ったけど、今日の私は本当にどうかしてる。会ったばかりの人に、お礼に体を差し出そうなんてあまりにも節度がなさすぎる。それでも私は本当に、行かないで欲しかった。そして願わくば、お兄さんの腕の中で眠りたいとすら思った。それくらい、寂しかった。
「す、好きにしていいって、な、何言ってるんだ!?」
「言葉の通りの意味だよ」
「俺はそんな気ないし、これ以上一緒にいるのは……」
“そんな気ないし” そんな当たり前の言葉にチクッと胸が痛んだ。なんだかどんどんモヤモヤしたから、ワガママを言おう。だってお兄さんなら絶対受け止めてくれる、そんな気がするから。
「じゃ、じゃあ一緒に寝るだけ!」
「えっ、ええ!?ダメだよ、それは流石に!犯罪者になっちゃうだろ!?」
「一緒に寝てくれないなら通報する!」
「なっ!?そ、それは困る!や、やめてください!ど、どうか……!」
お兄さんの弱みにつけ込んだ私は、心の中でにやりと微笑んで、土下座してなんとかこの場を凌ごうとしているお兄さんを横目に立ち上がった。
「シャワー浴びてくるから、準備してて。帰るなら通報するから!」
「えっ、ええぇぇ…………!」
***
シャワーを浴びながら考えた。私、とんでもないことを言ってしまったけど、どうなっちゃうんだろう。本当に、お兄さんにあんなことやそんなことをされてしまうのだろうか。想像して鼓動が早くなった。でも、不思議と嫌ではなかった。
「お兄さん、あがった……って」
浴室を出ると、お兄さんはすっかり寝てしまっていた。ちょうどベッドに倒れ込むような体勢になっていたので、布団をかけてあげた。お兄さんもお兄さんで、クマまでできるくらい仕事が大変なのに私のワガママに付き合わせてしまって悪かったな、と思いながら私も横になろうとすると、お兄さんは「う〜ん」と苦しそうに唸った。
「お兄さん大丈夫……あ、そっか。スーツが苦しいのかな」
スーツを着たままだったので、苦しくないようにネクタイを外してシャツも緩め、ベルトも外してあげた。そうすると、お兄さんは唸るのをやめた。眠れないと言っていたお兄さんが穏やかな表情をして眠っているので、私もなんだか嬉しくなった。
***
「ふあぁ、寝た寝た……ん、あれ……ここは……」
むくりとお兄さんが大きなあくびをして上半身を起こしたから、私も目を覚ました。眠れないで悩んでいると聞いていたから、よく眠れたようで良かった、と思った。
「おはよ、お兄さん」
「あぁ、おはよう…………って、え!?」
お兄さんは横にいる私を見て驚いたあと、バッと布団を剥がし、自分の乱れた服装を見てさらに驚愕して、サーーッと顔を青くさせた。
「な、も、もしかして……俺……!?」
「昨晩は楽しかったね、お兄さん」
「ひ、ひえええええ!!!ご、ごめん!!、本当にも、申し訳……て、え!?は、八時!?や、ヤバイ、遅刻だ!!」
お兄さんが昨日の出来事を完全に誤解して、私に土下座しようとしゃがんだ瞬間に、近くの置き時計が目に入ったのかその時間に驚いて、青くなった顔をさらに青くした。今度は立ち上がって身だしなみを整えて、ハンガーにかけていたジャケットを急いで取って羽織った。
そして私の方をちらりと見ると、気まずそうに唇をぎゅっと結んで、テーブルの上に置いてあった備え付けのメモ帳に何かなぐり書きをしたあと、それを私に手渡した。
「これ、俺の連絡先!何かあったら連絡して!今度また、ちゃんと謝罪させてくれ!」
「えっ、お兄さん、昨日は」
「責任は取るから!!」
そう言い放って、駆け足で部屋を出て行ってしまった。貰ったメモを見ると『観音坂独歩 090-xxxx...』と、名前と電話番号が書いてあった。
「観音坂……独歩さん」
これが、私と観音坂さんとの出会い。そして今、五年越しに再び出会ったのは運命だとしか思えない。