抱きしめて「食満先輩、無理をしてませんか」
そんな中、中庭で用具の修補の仕事を行なっている留三郎を見かけて、母屋の廊下で思わず立ち止まっていた俺に声をかけたのは、鉢屋三郎だった。
「わかるのか、鉢屋」
「いやー、伊作先輩が帰ってきてないことを知った上で複合的に見ると、少しぎこちなく見える、程度としか。俺は変装するために人の動きとか癖だとかをよく見てるから気がつくだけで、他の五年は全く分かっていないでしょうよ」
あの人、こんなに嘘つきだったんですね。と鉢屋は言って、俺と揃って留三郎に視線を向ける。
「……ねぇ、気が付いていますか。潮江先輩」
「何がだ」
「いやねえ、食満先輩の話題を振ったら気がつくんじゃないかとそう思って話しかけたんですけど」
「だから、何が」
鉢屋は少しの間迷うように口を閉じていた。そして、立花先輩がいらっしゃらないから俺が言わなければならないよなぁ、と呟いた後重たげに口を開いた。
「潮江先輩、いつもよりクマが濃いですよ。食満先輩の不調には下級生は誰も気が付いていないでしょうが、貴方が体調を崩していることは誰の目にも明らかだ」
下級生たちは、体調不良の貴方を気遣って、食満先輩が勝負を挑むのを止めている、と思っているんじゃないでしょうか。実際はそんな理由ではないでしょうけど、と三郎は続けた。俺は目を見開いて、鉢屋の方を見る。指摘されて初めてその自覚をした。俺のクマはそんなにも酷くなっていただろうか。そうして、鉢屋も俺の目を見た。
「潮江先輩、食満先輩よりも貴方の方こそ酷い顔をしていらっしゃる」
反論しようと俺が口を開こうとしたその時、
「食満先輩!!!!」
作兵衛の悲鳴のような声が聞こえてきて、俺と鉢屋はバッと先ほどまで留三郎がいた方へと視線を向ける。目に飛び込んだ景色に、驚いて走り出して、そして叫んだ。
「留!」
そこには、倒れた留三郎と、それを泣きそうな顔で囲む用具委員たちの姿がある。急いで駆け寄ると、倒れた留三郎は驚くほど顔が白く、唇は紫で血色が悪い。
「作兵衛!保健室に連絡をして状況を知らせろ!鉢屋!留を運ぶのを手伝え!」
「「はい!」」
作兵衛は急いで駆け出した。留三郎の足を持つ鉢屋と力を合わせて、できるだけ頭を揺らさないようにしながら、保健室へと留三郎を運ぶ。覗き込んだ留三郎の顔色は悪く、いつからこんなになっていたのかとそう考えずにはいられなかった。
「過労と、栄養不足ですね。きちんと休んで滋養のある食事を摂れば、問題ないと思いますよ」
ホッと胸を撫で下ろす用具委員の生徒たちは、それでも心配そうに眠り続ける留三郎を覗き込んでいた。どうにも目を離しがたくて、俺も壁に寄りかかりそれを見つめている。
疲れ、とは肉体的にか精神的にか。おそらく後者の方だろう。伊作はまだ戻っていない。
あまりにも痛々しい。考えにふけていると、ふと、空気が揺らいだ気配がしたので、俺は腰を上げた。
「お前たち、そろそろ夕餉の時間だろう。留三郎のことは俺が見ておくから、食事を摂りに行ってこい」
「え、潮江先輩はどうするおつもりなんですか?ご飯抜くんですか?スリルゥー」
「俺は兵糧丸があるからいい」
「ダメです!!!!立花先輩に怒られますよ!隠そうとしても、私が伝えますからね!」
「…じゃあ、食堂のおばちゃんに握り飯を頼んでくれるか」
「分かりました!おかずいっぱい入れてくれるように頼んでおきますね!へへ!」
「しんべヱ、よだれをふけ。痕跡を残すことをするんじゃない」
保健委員の子達も、留三郎が倒れたとあって、今日が当番でない生徒も全員応援に駆けつけたのだろう。みんな揃っていた。加えて用具委員も勢揃いとあって、てんやわんやと大騒ぎしているのを、どうにか宥めて送り出す。
ピシャン、とドアを閉めて、振り向いた。
「留三郎、行ったぞ」
俺が声をかけると、留三郎の瞳がスッと開く。
「ありがとな、文次」
「後輩たちの前では、言えないことなんだろう」
「まあ、そうだな」
留三郎は、それきり黙って天井を睨んでいた。俺も黙って言葉を待つ。留三郎は天井を見上げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「…いつもは、学園長先生の思いつきの行事の準備だとか、なんかの実習で塀が大きく破損した時とか、そんな理由で無理をすると怒った伊作が俺を無理やり保健室へ連れていくんだ」
「そうか」
留三郎は泣きそうな顔をして、声を震わせた。伊作は、周りの学生をよく見ている奴だったが、とりわけ留三郎のことを気にかけていた。きっと俺の知らない場所で、俺の知らない顔をして、この二人は愛を確かめ合っていたのだろう。
留三郎は、はっと息を溢した。その目には涙が浮かんでいる。
「馬鹿なことをした」
留三郎は、キツく眉を寄せると唇を噛み締め、腕で目元を覆った。痛々しく丸められた体が、留三郎の痛みを如実に示していた。
「なぜなんだ。なんでこんなことをしたのか、自分でも分からない。伊作はいない。そう、そんなこと頭で分かっているのに、いつもみたいに連れ戻して欲しくって、何をしてるんだ留三郎って、そう、そう言って欲しくって。無理をしていることも、体調が悪くなり続けていることも全部、ぜんぶわかっていたのに、俺は無理をし続けた。」
布団の中から、嗚咽が漏れる。俺はそっと留三郎の背中をゆっくりとさすってやった。それしかできないことが歯痒かった。
「伊作がいないから、伊作が俺のためにしてくれていたことを、自分でしなくっちゃいけないなんて、考えたくなかった。自分で自分の無茶をわかって、自分で無理をするのをやめて、一人で部屋で大人しく寝るなんて、そんな。そんな」
こいつは、1人きりの部屋に帰るたびに、何を思っていたのだろうか。
「いやだ、いやだ。いさく。いさくっっっ!!!!」
渾身の叫びのような留三郎の慟哭の間、俺は留三郎の背を撫で続けていた。
伊作が、留三郎を抱きしめてやりたいと言っていたことを思い出す。きっと、今のように留三郎が傷ついている時に、あいつは抱きしめてやっていたのだ。背を撫でて、抱きしめて、楽観的で前向きで優しいあいつは、留三郎に心の底から大丈夫だよと笑ってやれるのだ。
ああ、どうして今留三郎の隣に伊作はいてくれないのだろうか。抱きしめてやるのは伊作でなければならないのに。