不意に、低い鼻歌が鼓膜を擽った。狭い倉庫の中、音の出所へ視線を向ける。数歩隣、自分と同じように片手にバインダーを抱えた同僚が、ハイエナ耳をぴるぴると揺らしながら小さなリズムを奏でていた。
「……えらく上機嫌だな、ラギー」
「ん? そう?」
ラギーはバインダーから顔も上げずに問い返す。数えた荷物の数と荷札の内容を書き付け終わってから顔を上げると、棚にもたれたスコットが片方の口の端を吊り上げながらラギーを見下ろしていた。
「……何スか、にやにやして」
「いんや。鼻歌が出るほど嬉しいことがあったんだなァ、って思ってな。なんだよ、聞かせろよ」
「別に、大したことじゃないッスよ」
「いいから。何だ? 好物でももらったのか?」
「違うけど……あー、まあ、似たようなもん……かな」
ラギーはスコットの追及をはぐらかしながら次の棚へ移る。鮮やかな色の反物に、いつぞや同級生に見せてもらった黄金色の部屋が頭をよぎった。
貿易会社の下っ端というのはなんとも地味な仕事だ。こうして受け取った荷物を数えて紙の書類に書きつけていると、自分が歯車のひとつになったという実感が体の隅々まで染み渡っていく。頭を使わない仕事の方が向いている自覚はあるが、二年目を迎えてもこれだというから先が思いやられる。マジフトの能力を買われて有名企業に滑り込めたのは御の字だったが、そうでなければもっと割りのいい仕事を探していたかもしれない。
書類をめくってさらに隣へ。スコットは後ろの棚の整理を始めていた。倉庫の中には二人だけ。荷物の擦れる微かな物音だけが高い天井に反響していた。
反物の次は工芸品だった。見事な羽細工の髪飾りがずらりと並び、色とりどりの宝石が煌びやかな輝きを放っている。その一つ一つの荷札を慎重にチェックしながら、ラギーの脳裏に今朝ユウと一緒に食べたお弁当が浮かび上がってきた。
ユウの作るお弁当も、ラギーにとっては宝石箱のようだった。栄養はもちろん、彩りまで考えられたメニューで、毎日蓋を開くのが密かに楽しみだったりする。おにぎりに顔が付いていた日には思わず写真を撮ってしまったほどだ。ラギーも料理に抵抗はないが、美味しく食べられたらいいという程度で飾ることにさしたる興味はない。だから余計に、ユウの作るお弁当には素直な賞賛を送っていた。
毎日家や服を綺麗に保ってくれるのも、朝見送って夜出迎えてくれるのも、想像以上に嬉しかった。自分がお金を出して誰かに家事を頼む日が来るとは思ってもみなかったが――これは、案外と悪くないかもしれない。
「…ギー、ラギー!」
「……えっ」
唐突に肩を叩かれて、ラギーはハッと我に返った。物思いにふけっていても仕事の手は止めていなかったらしく、いつの間にか自分が最後の書類を書きつけていたことに気づいた。
「俺の方は終わったぞ。お前ももう終わるだろ」
「そうッスね。あとこれで………ほい、終わりっと」
勢いよく書き付けたペンを右手の中でくるりと回す。しゃがんでいた身体を起こし、天井に向かって腕を伸ばした。
「うぅ~……座りっぱだと背中固まってやばいッスねぇ~。早くマジフトの練習したいッス」
「だな。…………ところで」
側の木箱にどっかりと腰を下ろしたスコットが、にやにやとしながら近くの樽を顎で示した。暗に座れと促され、ラギーは訝し気に眉を寄せた。
「何してんの? 早く戻るッスよ」
「戻ったところでまた似たような仕事が降ってくるだけだろ。まだ時間はある。…お前のでかい鼻歌と、今朝の遅刻と、んでもって珍しく弁当を忘れた理由がどうしても知りたくってなァ?」
「だぁから、どうでもいいでしょ」
「よくねェよ。お前はプライベートをこれっぽっちも匂わせねえからな。チームメイトとしては興味あるわけよ」
目を爛々と光らせたスコットが身を乗り出す。顔をしかめて踵を返したラギーの背中をむんずと掴み、目の前までずるずる引き寄せた。
「ちょっとちょっと服が伸びるでしょーが! ああもうわかった、わかったから! 弁当は届けてもらったけど腹減ってたんで朝のうちに早弁したんスよ! そんだけ!」
「はぁ? 届けてもらった? 誰に?」
「…知り合い!」
思わず飛び出しかけたユウの名前を喉の奥に押し込み、ラギーは叫ぶように告げた。
ユウのことは人事以外には伏せている。結婚のことは同僚にも誰にも告げていない。公表すれば根掘り葉掘り聞かれて面倒なのは火を見るよりも明らかであったし――何より、ユウがこの関係を解消したくなった時のための保険のつもり、だった。
自分たちは恋人同士ではない。あくまでも、利害が一致したから生活を共にしているだけ。お互いにこの生活に嫌気が差したり、あるいは誰か他に愛する人が出来れば、即座に解消する腹積もりだった。
――それにきっと、ユウも仕事ややり残したことがなければ、元の世界に帰れる方法が見つかっても未練はないだろう。そこまで見越して結んだ『契約』だった。
背後のスコットはラギーの返答を聞いて、しばらく唸った後にぱっとラギーから手を離した。つんのめったラギーはよれた服を手ではたいて直しながら怪力の同僚をじと目で睨みつけた。
「あーあ、もう、服が伸びちまったらどうしてくれんスか。………スコット?」
「……お前にそこまでさせるたぁ、いい女なんだろうな」
うんうんと一人で納得しながら、スコットは木箱から立ち上がった。唖然と立ち尽くすラギーの横を通り過ぎ、今度はスコットが上機嫌に鼻歌を奏でだす。一方的に会話を終えられ、ラギーは慌ててスコットの裾に飛びついた。
「は? え、ちょっと! オレ女なんて一言もいってないけど!? 勝手に勘違いしないでほしいッス!」
「いやいや、俺にはわかる。恋人ができりゃあ誰だって変わるよなぁ」
「話聞いて!?」
先ほどとは逆転して縋りつくラギーを腰に引きずったまま、スコットは狭苦しい倉庫を出ていった。