今日はこの秋一番の冷え込みらしい。真冬並みの寒さになるからコートを忘れずにと、ラジオの天気予報がしきりに繰り返していた。先週防寒着を洗濯しておいてよかったと胸を撫で下ろしながら、ユウは火にかけたポトフをゆっくりとかきまぜる。
野菜をつつきながら時計に目をやる。もうすぐラギーの帰ってくる時間だ。あとは帰ってくるまで煮込んでいればいい塩梅になるだろう。時間配分が上手くいったことに心の中でガッツポーズを決めた瞬間、タイミングよくがちゃりと玄関扉の開く音がした。
「う~~さみぃっ! ユウくんただいまッス~」
「おかえりなさい、ラギーさん」
火を止めて蓋をしてから玄関に走る。転がるように飛び込んできたラギーが勢いよく扉を閉めて、カチコチに強張らせた身体をぶるりと震わせた。指先どころかぴんと立ち上がった耳の先まで凍りそうだ。真冬はもっと寒いはずだが、ついこの間まで爽やかな秋晴れが続いていたから温度差で余計に寒く感じてしまう。ずび、と音を立てて鼻を啜ると、ユウが伸ばしてきた手が冷えた頬に触れた。
「わ、冷たい! 外、結構寒かったんですね」
「そーそー。夜練がしんどいのなんのって…いくら身体動かしてもこう風が冷たいとさァ」
「風邪引いちゃいますね。先にお風呂にします? お湯溜めますね。ご飯はまた温めたらいいので」
「うん。お願い」
ぱたぱたとユウが浴室まで駆けていくのを横目に、ラギーはコートのボタンをひとつひとつ外していく。首元に乱雑に巻いたマフラーもとって、まとめてコート掛けに引っかけた。マフラーは今朝ユウが綺麗に巻いてくれたのだが自分ではどうにもうまくいかなかった。後でやり方を聞こうと思いつつ、ユウの後に続いて浴室へと向かった。
「寒…やっぱ暖房入れてない廊下とかは寒いッスね」
「お湯が溜まったらマシになると思いますけどそこばっかりは…。……私もすぐに入らないとお湯冷めちゃうかな…でもそうしたらご飯が…」
あっという間に湯船を満たしていくお湯を眺めながらユウはうーんと唸る。追い炊きなんて贅沢な機能はついていないから、湯が冷めてしまったら入れなおすことになる。そんな無駄遣いはしたくない。でも、ユウがあがるまでお腹を空かせたラギーを待たせてしまうのも申し訳ない。
ぶつぶつとぼやきながら今日はシャワーで済ませようかと考え始めたユウの後ろから、ラギーがひょっこり顔を覗かせて何の気なしに言い放った。
「じゃあ、一緒に入る?」
「え」
動揺のまま勢いよく振り仰いだユウの前で、ラギーは何の問題が?とでも言いたげな顔で小首を傾げた。
* * *
一人になった脱衣所で、ユウは持ち込んだ自分の着替えを手持ち無沙汰に何度も畳みなおしながら、鏡の中の強張った自分の顔をぼんやりと見つめていた。
(……勢いでうんって言っちゃった、けど……)
浴室のすりガラスを通り抜け、上機嫌な鼻歌とお湯をかける音が響く。思わず中にいるラギーの姿を想像してしまい、まだ湯気にも触れていないのに熱の集まりだした頬をぴしゃりと叩いた。
ラギーとユウは確かに夫婦だ。けれど、お互いへの気持ちを自覚したのも確かめ合ったのもつい最近のことで、夜を共にしたのもまだ数えるほど。明るいところで肌を見せたこともないし、ましてや入浴なんて初めてのことだった。
(…………見ないから大丈夫、って、言ってくれたけど)
それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
ラギーに下心はなく、純粋に節約のためから出た発言だというのが余計に心臓を刺した。こんなに緊張しているのが自分だけなのが、さらに肌を火照らせていく。気にしないようにしようとすればするほど、足元からちりちりと焼かれているような心地は増していく。
「……う、や、やっぱり…」
「ユウくん、いいッスよー」
「ひゃいっ!?」
あまりの居心地の悪さに諦めがよぎった瞬間、すりガラスの向こうからラギーの声がした。ざばりとお湯の波立つ音が聞こえて「あ~いいお湯ッス~」と溶ける声が続く。それっきり静かになった浴室を振り返り、ユウはごくりと唾を飲み込んで、自身の肌着に手をかけた。
(――ええい、ままよ!)
勢いをつけてひと息に服を脱ぎ捨て、洗濯かごに放り込む。
ささやかな抵抗としてスポーツタオルを一枚手に取り、ユウは意を決して浴室の中へと飛び込んでいった。
* * *
これでもかと言うほど泡立てたスポンジを肌の上に滑らせる。柔らかい感触と石鹸の匂いに集中している間だけ、波打っていた心が少しだけ凪いだ気がした。
手早く泡を流し、最後にトリートメントを施している間にちらりと湯船の方を窺う。正確には、湯船の中で心地よさそうに体を伸ばしているラギーの――その両目を覆うように巻かれた、薄地のタオルを。
ユウが浴室に入った時、既にラギーは湯船に浸かり、タオルで目隠しをした状態だった。なるほど、これならば確かにうっかり見られてしまう心配もない。ご丁寧に自身も腰にしっかりとタオルを巻いて「名案でしょ」と口角を上げるラギーに曖昧な返事をかえし、ユウはなるべく音を立てないようにと慎重にシャワーとスポンジを手に取ったのだった。
トリートメントも流し終わり、髪の滴を絞りながらユウはもう一度ラギーの方を振り返った。最初はぽつりぽつりと言葉を交わしていたのだが、存外に疲れていたのか、今は浴槽の縁に頭を預け口を噤んだまま静かに身を沈めている。喉や胸が微かに動いているのが見て取れなければ、彫刻と言われても納得してしまいそうだった。
「……あの、ラギーさん」
「………ん、なに?」
ユウの呼び声に、ラギーの唇が緩慢に動く。少しだけとろんとした声音。やはり眠いのだろう。ユウは努めて声を潜め、それでいてはっきりと聞こえるようにとゆっくり声を発した。
「あの、私、もう洗い終わったので、先に上がりますね。ラギーさんはまだ…」
「え、何で?」
ユウの言葉を遮り、ラギーが素っ頓狂な声を上げた。ガバリと身を起こした拍子に目元を覆うタオルがずれそうになってぎょっとユウは身構える。ラギーも慌てた様子で目元に手をやり、すんでのところで押さえたタオルをつけなおしながら口を開いた。
「何で一緒に入ったかわかってんの? お湯張りなおすのがもったいないってユウくんシャワーで済ませようと思ってたでしょ」
「え、や、それはそう、ですけど」
「今日は寒いからお湯張るって言ったのユウくんでしょうが。ほら、ちゃーんと肩まで浸かんないと」
言いながら、ラギーが伸ばしていた足を畳む。半分あけてもらった空間を見つめ、ユウはぐっと息を詰まらせた。
確かにこの湯船は広い。と言っても、この世界のお風呂はナイトレブンカレッジの寮にあった大浴場かシャワー室しか知らないユウからすると比較のしようもないが、さまざまな種族が住まうお国柄と、さらには仮にも新婚向けと銘打ってあっただけあって、二人で浸かっても十分な広さがあった。
しかし、それだけだ。一緒に入れば否が応でも身体のどこかが触れ合ってしまう。お互いにタオル一枚しかまとっていない格好で同じ湯船に入るには、まだ少し羞恥心が勝る。
(……でも)
ちらりと、ラギーの顔を窺う。
タオルを乗せられて目元は見えない。けれど、湯気で濡れた口元は、どことなく緊張しているようにも見えた。
ユウとラギーは、まだ夫婦としては半人前だ。こんなところでつまづいていたら、縮まる距離も縮まらない。ラギーが受け入れようとしてくれているのに、些細な羞恥心ごときで拒んでどうするのだ。
小さく息を吸い込む。つい数分前、浴室に踏み込んだ時よりも大きな覚悟を決めて、ユウはおっかなびっくり湯船の中へつま先を差し入れた。
「し、失礼します……」
ちゃぷんと、お湯の表面が揺れた。
耳に痛い沈黙に苛まれながら、ラギーに背を向ける形でお湯に身体を沈めていく。じんわりと、足先から下半身、腰からお腹、胸から首元へと、凍り付いた身体を芯から解かすぬくもりがつま先から頭のてっぺんまでもを包み込んでいく。思わずはぁ、と吐息が漏れて、背後のラギーが噴き出した。
「ほらね、気持ちいいでしょ? 意地なんて張るもんじゃないッスよ」
「はい…。…ふあ……びりびりするぅ…」
洗っている間に浴びたお湯でも十分温まったと思っていたが、やはり湯船は格別だ。広がった血管で感電したように痺れる指先を開いたり閉じたりしながら、ユウはラギーの足に触れないよう、身体を縮こめて空いているスペースへ身を寄せた。
「やー、このゼータクは冬にしか味わえないッスよね~………よ、っと」
「わっ」
唐突にラギーが畳んだ膝が、ユウの脇を小突いた。よろけたはずみで反対側の膝にも触れてしまい、慌てて体勢を立て直す。真ん中に石のようにうずくまったユウと同じく、ラギーもびくりと身体を硬直させた。
「…えっ、ちょっと待って、ユウくんどこに座ってんの?」
「え? ええっと…ラギーさんの足の間に、背中向けて座ってます」
「え、反対側にいるんじゃないんスか?」
「え、そんな座り方したら、その……見えちゃうじゃないですか」
「いやだからオレは目隠ししてるから見え………待って、オレが見えてんの!?」
ざばりと、背後のラギーが身を起こした。水面が激しく波打って、ユウは慌てて叫ぶように言った。
「いっいや見えてません! 見てませんけど、多分見えてません大丈夫です!!」
「ホントに? …いや、別に見られて困るもんじゃないけどさぁ…」
ラギーがまた腰を落ち着けて、波紋が徐々に収まっていく。水音が静まっていくと同時に沈黙が押し寄せて、何とか会話を繋ごうと話題を探すユウの背中に、唐突に声がかかった。
「…ユウくーん」
「はい?」
「肩、触ってもいい?」
突然の申し出。いったい何事かとユウが言葉を失うと同時、ラギーが慌てて取り繕うように二の句を継いだ。
「肩だけ、肩だけッス! 何もしないから!」
「いや、別に何かされるとか思ってないですよ……ど、どうぞ」
気持ち背筋を伸ばし、ユウは承諾の返事を口にする。一拍の間をおいて、後ろから伸びてきたラギーの右手が視界に映った。
ラギーがくぼませた手のひらを仰向けにしてお湯を掬い、そっとユウの肩に掛けた。二、三度かけたあたりで、今度は左側も同じようにお湯をかけてくれる。不意につい、と指先が触れて、指の背が首のラインを辿った。
「あーあ、こんなに冷えちまって。このまんまじゃ肩から風邪引くッスよ」
「ふふ。なんですか、それ」
「噓じゃねーって。肩まで浸かるのはジョーシキでしょ」
ラギーの手がユウの肩を覆う。本当にそれ以上は触れようとせず、お湯よりもずっと温度の高い手のひらが、その熱だけでゆっくりとユウを解かしていく。そのぬくもりがもっと欲しくなって、ユウは肩口を覆う濡れた指先にそっと頬をすり寄せた。
「……ラギーさんの手、あったかいですね」
「…ん、そう?」
「はい。おひさまみたいです」
「おひさまねぇ。スラムに住んでた頃は、おひさまよりも雨の方がありがたかったけど」
「雨?」
「そうそう。こんな風にお湯を貯めるどころか、風呂がある家の方が珍しくってさぁ。少ない水分け合って水浴びしたり、雨降った日はそれで身体洗ったりしたもんッスよ」
「……そう、だったんですか」
「シシッ。そんなだったから、ナイトレブンカレッジでお湯が使い放題だったのはびっくりしたッスね。ただでさえ夕焼けの草原は水が少ない国だったし」
思い出を撫でるような口ぶりでラギーは語る。実際、彼にとってスラムの暮らしはもう過去のものになりつつあった。夕焼けの草原も発展し、苦しい暮らしを強いられていた民もかなり少なくなっている。ラギー自身も努力の末に、こうして屋根のある家で温かいお風呂と食事にありつける身分になった。
湯船いっぱいに溜めた幸せに身を委ね、かつて何も持たないやせっぽちの少年だった彼は笑った。
「いやぁホント、ゼータクしすぎてバチが当たりそうッスね!」
「……全然、贅沢なんかじゃないです」
ぎゅうっと、ラギーの指先が握られた。
頬を膨らませたユウが、苛立ちをぶつけるようにそれぞれの手でラギーの指を握りしめて、尖らせた唇をさらにつんと上向けた。
「全ッ然、足りないです。明日はビーフシチューにしますからね。特売の牛肉たくさん買ってくるんで、ラギーさんにはお腹いっぱい食べてもらいますっ」
「え、何、ユウくん急にどうしたの」
「どうもしてませんっ」
ユウが叫んで、ラギーの指をぎゅうっと強く握りしめた。
ラギーはタオルの下で困惑した顔をしていたが、ふと何かを思いついた顔で、口元に薄く笑みを浮かべた。
「…じゃあさ、ゼータクついでにもうひとついいッスか?」
「何ですか? 私に出来ることなら何でもしますよ。マッサージでも夕方のお迎えでも…あ、でもご飯のリクエストは私が作れるもので――」
「いや、そういうのじゃなくって」
ラギーが僅かに身体を起こす。
冷めてきたお湯の表面が波打ち、背中の体温が近づく。
肩にあった手がするりと鎖骨の上を滑って肌を辿り――つい、と、ユウの胸元を覆うタオルを指先で摘まんだ。
「――次は、コレなしで一緒に入りたいなァ」
「っ!」
ラギーの手はすぐに後ろへと引っ込んでいった。触れるか触れないかの距離にまで近づいた背中の体温も同時に元の位置まで戻っていく。けれど、一瞬だけなぞられた痕も、囁かれた耳元も、まるで真っ赤な鉄を押し当てられたようにかっと火照って、ユウは暴れだしたい衝動を必死に堪えて俯いた。
子羊の如くぷるぷる震える背中を前に、相変わらず目隠しをしたままのラギーは小首を傾げた。
「…ダメ?」
「…………ぜ、善処、します……」
「ホント? へへ、やった」
子供のように無邪気に喜ぶラギーの声が耳朶を打つ。ねだられた内容と弾む声色がちぐはぐで、ユウもつられてぷっと噴き出した。
「あ、でも、その時はこの間ヴィル先輩にもらった入浴剤を入れてもいいですか? どうせなら一緒に楽しみたいです」
「ん、いいッスよ。……あのさ、ユウくん」
「はい?」
「オレ、待つんで。ちゃんと、ユウくんがいいって言うまで、待てるから」
骨ばった指が、ユウの濡れた髪をひと房掬う。
一緒にいた時間分長くなったそれを指先で解して、ラギーはそっと息を吐く。
「だから、約束ッスよ」
「……はい」
遊ばれた毛先が項を掠め、ユウはくすぐったに首をすくめる。
ラギーはしばらくユウの髪に指を絡め、おもむろに離した手で浴槽の縁を掴んだ。
「そんじゃあオレそろそろ上がるッス。ユウくんはちゃーんと肩まで浸かること。いい?」
「え、あ、はいっ」
背後でざばりと水柱が立ち上がり、ユウは慌てて前のめりに身体を丸めて顔を背ける。ぺたぺたとラギーが浴槽を出て歩く音がして、勢いよく開かれた扉が再びぴしゃりと閉じられた。
間を置かず、脱衣所からくぐもった鼻歌が響き始める。ようやく一人になった湯船の中で、ユウはやっと深く息を吐き、広くなった浴槽に身体を伸ばした。
「………はぁ……」
半分ほどに減ったお湯を手のひらで掬う。一人になった途端に気だるい眠気が弛緩した全身を襲ってくる。
やがて、ドライヤーの風音が唸り始めた。ラギーの鼻歌がかき消され、鼓膜をくすぐる雑音に取って代わる。先ほどのラギーと同じように浴槽の縁に頭を預けたユウはゆっくりと胸を上下させながら、ラギーが触れた自身の鎖骨を無意識になぞり、緩慢に瞼を下ろした。
冬に近づくにつれ、これからますます寒くなる。そして、明日もまた寒い一日になるのだろう。
また朝にはマフラーを巻いてやろう。それからとびっきりあったかいビーフシチューを作って、廊下も帰ってくるまでに温めて……。
指折り数え、明日からの生活のためにやることを復唱する。初めて二人で過ごす冬。忘れないよう、丁寧に心に刻みつける。
お日様には、ずっとぽかぽかでいてもらわなくてはいけないから。
(…ああ、それから)
それから、入浴剤も準備しておかないと、ね。
いつか一緒に楽しめたらとしまい込んでいた薄紫色のパッケージ。それを二人で封切る光景を思い浮かべながら、ユウはくすりと笑みをこぼした。