snowy slowly 本日の授業終了の鐘が鳴り響く。談笑する生徒たちの間を縫って、一足先に外へ出た。
空を見上げれば、一日中ぐずった子どものように駄々をこねていた雲からとうとう雪が降りだしていて、ラギーは頭上をちらつき始めた白い結晶に向かってはぁと曇らせた息を吐き出した。
「……さむ…」
そう呟くや否や、首をすぼめてふるりと全身を尻尾の先まで震わせる。せっかく部活で体を動かして暖まれると思ったのに、今朝方「今日は休みだ」と怠惰な部長から告げられてしまった。先日試合があったばかりだから休息にはいいタイミングだが、おそらくあの部長は自分が動きたくないだけだろう。
ちらりとスマホに目を落とす。降ってわいた暇をつぶそうと方々に手伝いはないかと持ち掛けてみたものの、結果は芳しくなかった。こうも寒いと経済活動も動きが鈍るらしい。
はぁともう一度ため息をついてスマホをしまい、雪の中へと一歩踏み出す。校舎前の道を下り、図書館の角を曲がった、その時だった。
「………あれ?」
前方に人影が見えた。黒い塊がまとわりついた小柄な生徒が、まだ人がまばらなメインストリートの真ん中をふらふらと左右に揺れながら歩いている。その姿が陽炎のようにぼやけているように見えて思わず目を凝らす。よくよく見れば、その人物は透明な傘をさしているらしかった。
それと同時に、人並外れた獣人属の聴覚が、傘の向こうから聞き覚えのある声を拾った。
「ちょっ…もう、重いってばグリム!」
「う~寒いんだぞ! オレ様の肉球が凍っちまう!」
「だからってしがみつかれても…! あっこら! 傘危ないって!」
「子分の片手じゃオレ様を持ち上げられないじゃねーか! さっさとその邪魔な傘を閉じるんだゾ!」
耳にしたとんでもなく理不尽な要求に失笑がこぼれた。ラギーは歩幅を広げて弾むように傘に近づき、ひょいと横から中を覗き込んだ。
「こんにちは、監督生くん」
「あ、ラギー先輩。こんにちは」
ビニールでできた傘がぱっと傾き、下から監督生が顔を覗かせた。首に巻き付いたグリムをよろよろと片手で抱き留めている。
監督生の首に短い両手を回したグリムもラギーに気付いて顔を向けてきた。
「ん? ラギーじゃねえか。どうしたんだ?」
「通りがかったら道のど真ん中でふらふらしてるのが見えたもんで。…で、監督生くん、何で傘なんかさしてんの?」
「え?」
キョトンと、監督生は目を丸くして首を傾げた。その腕に支えられたグリムが、監督生の制服に爪を立てながら牙が見えるほど大きく口を開けて吠えた。
「そうだゾ! ラギー、もっと言ってやれ!」
「え…だって、雪降ってるじゃないですか。濡れちゃいます」
「え、濡れる? 雪で?」
「わたしのいた世界では雪の時も傘はさすんですよ。……そういえば、こっちだと雨の日も傘をさしてる人はあんまりいないですね」
「そりゃ荷物になるし。傘さすなら走るかレインコート使うッスね。晴れたら乾くし、あれなら風魔法使ったらいいッスよ」
「……なるほど。いいなぁ魔法」
監督生が嘆息する。俯いた拍子に傘で顔が隠れてしまった。眼下を遮る透明なビニールと隠れてしまった監督生にむっと口の先を尖らせ、ラギーはずいっと傘の下に頭を潜り込ませた。
「え、ちょっ、ラギー先輩!?」
「オレもこれ、閉じてほしいッスね。アンタの顔見れなくなるし」
「っ!!?」
するりと傘を握り締める手を撫でると、監督生がびょんと後ろに飛び退った。朱に染まった顔が再び傘の向こうに隠れる。その下から「子分、苦しいんだゾ!」という魔獣の抗議する声が聞こえた。
監督生は俯いたまま動かなくなってしまった。…少し揶揄いすぎたか。
ふぅと白い息を吐いて気持ちをリセットし、ラギーはにっこり笑みを浮かべて違う話を切り出した。
「グリムくん、あれならオレが抱っこしてあげようか? 今時間あるからオンボロ寮まで送ってあげるッス」
「ふな、ホントか!? …はっ! まさかオメー、そんなことでマドルをせびろうなんて魂胆じゃ…!」
「ありゃ、バレちゃった。シシシッ、何事にも対価はつきもんでしょ?」
「ふなぁーっ!!」
怒りなのかなんなのか、雄叫びを上げたグリムがぼっと勢いよく傘の下から飛び出してきた。弾丸の形のまま地面に降り立ち、耳と目尻を吊り上げてラギーを睨みつけた。
「やっぱりオメーは信用できねーんだゾっ! もういい、オレ様、エースたちのところに行ってやるんだからな!」
「あっちょっとグリム、課題は!?」
「ふーんだ、知らねーんだゾ~!」
べっと舌を出したグリムが、目にもとまらぬ速さで鏡舎へ向けて駆けて行った。
ぽつんと取り残された監督生が伸ばしかけた手を力なく落とし、深いため息をついた。
「……あーもう、行っちゃった…」
「シシッ、大変ッスねぇ。二人で一人の生徒ってのも」
「先輩が今それ言います…?」
「シシシシッ。あれだったら、課題、手伝ってあげよーか? さっきも言ったけど、今オレ時間あるんスよね。ついでにオレの課題も一緒にやらせてよ」
「……お詫び、ってわけじゃないですよね。あいにくと今手持ちが——」
「別に、アンタならお代はいらないッスよ。……これ、閉じてくれたら」
つい、と、ラギーはビニール傘の縁をつまんだ。
監督生が息を呑む気配がした。傘の下に垣間見える小さな手が、ぎゅうっと傘の柄を握り締めるのが見えた。
「………それは……」
「…嫌?」
「………………」
こくりと、傘が頷く。ほんの少しだけ透明な膜の上に散っていた雪の結晶が、その動きに合わせて滑り落ちていった。
視界を隔てるビニールを見下ろしながら、ラギーは口の端が吊り上がるのを止められなかった。透明な膜を通して見えるヒトの耳がほんのりと赤い。その隠れた顔を想像するだけで心が躍る。こんなにも簡単に意識してくれるようになるなんて、傘も悪くないかもしれない。
不意に悪戯心が湧き上がって、ラギーは再び、無遠慮に傘の下に頭を差し入れた。
「ぎゃっ!」
「じゃー監督生くんの傘に入れてよ。ほらほら、オレの耳も濡れちまうじゃないッスか~」
「え、ちょっ…! て、定員オーバーですっ!」
「んー、じゃあこうしたらいいッスか?」
「うわわっ!? ちょ、先輩!」
ラギーは唐突に腕を回し、ひょいと監督生の小柄な体を抱き上げた。ラギーがいくら痩せ型とは言え、これくらいは造作もない。突然のことに戸惑って身じろぐ監督生を肩に担ぐようにして、ラギーは軽い足取りでメインストリートの真ん中を歩き始めた。
「シシシッ。ほら監督生くん、オレが濡れないように傘真っ直ぐ持って」
「あっ危ないから下ろしてくださいよぉ!」
監督生が悲鳴を上げながらラギーの頭にしがみつく。律儀に傘を真っ直ぐ立てているのか、視界にちらつく雪が遠くなる。
腕に抱えたぬくもりを抱きしめて、ラギーは至極楽しそうに肩を揺らして笑った。
「落としたりなんかしないッスよ。……そりゃあもう、ぜーったい!」
上機嫌に喉を鳴らして、ラギーは監督生を抱えたままオンボロ寮へ続く道を登っていった。