2023.11.27 正直なところ赤井は降谷零が嫌いだった。FBIと日本警察が正式に手を組むことになろうとも、それから数年が経過した現在も。
ああいった神経質で潔癖なタイプは好きではない。その上降谷は能力値も高いから面倒だ。こちらの都合で捻じ伏せられない。頭の切れる人間とのディスカッションは楽しいが、降谷との場合は苛立ちと不快さが先立つ。あのプライドの高さが鼻につく。
単純に人間性として苦手だった。個人的な交流など以ての外だ。
人間性として合わないのだろう。
合わない人間とわざわざ交流する意味などない。
だから、FBIと日本警察が正式に手を組むことになった際、降谷に謝罪と礼を言われても赤井は特に何も感じなかった。これで面倒事が減った、とそれだけを思った。
降谷は馬鹿ではない。赤井が明確に引いた線を正しく理解し、それから降谷が赤井に近付くことはなかった。
「おつかれさまです」
顔を出した降谷零の姿に赤井は己の目を疑った。
スーツの上着を脱ぎ、タイを外したシャツは釦を二つ三つ開けている。前髪を留めているのはヘアピンだろうか。いつも隠れている額が露わになり、そこには冷却シートが貼られていた。足元は革靴ではなくサンダル。腰のベルトはない。
「赤井?」
声を掛けられはっとした。
赤井はつい降谷零を上から下までジロジロと見ていたようだ。
「すみません。資料持ってきてくれたんでしょう」
「あ、ああ」
「本来ならこちらから出向くべきなんですけど」
「いや」
「持ってきていただいて助かりました」
「……ああ」
本来の役割を思い出した赤井は、手に持っていた資料の束を降谷に手渡した。FBIが間借りしている警視庁内のフロアの上が公安部となっていて、そこに降谷も身を置いている。降谷は警察庁の所属だが組織の件が完全に終わるまでは警視庁の所属となっていた。
チラリと部屋の中を見る。
見知った警視庁公安部の面々がパソコンに向かっていた。誰も彼も多忙極まれり、の形相だ。現在彼らは多忙を極めている。だから必要なFBIの書類を、赤井が渡すために出向いた訳だ。
「すぐ確認するんで待ってもらってもいいですか」
「は」
「すみません。すぐ済みますから」
降谷に言われ、赤井は曖昧に頷いた。
別に待たされることが不服だったのではない。ただ、降谷が申し訳なさそうなのが意外だった。
赤井は部屋の片隅にあるソファに腰を下ろす。向かい側には降谷が座り、すごい勢いで資料を捲っては手元のタブレットを操作した。この資料はコピー不可、ファイル化も貸し出しも許されていない。だからこそFBI捜査官の目の前で責任者の降谷が作業する必要がある。
「コピー不可の意味が分からん」
赤井は思ったことを口に出した。実際、意味はないだろう。体面的な役所ならではというだけだ。
「ですよね」
降谷から同意が返るとは思っていなかった赤井は瞬いた。こういったことを不満なく厳守する優等生タイプだと思っていたので。
降谷は顔を上げない。すごい勢いで資料を捲ってはタブレットを連打する。
「降谷さーん!」
誰かが叫んだ。恐らく降谷の部下だろうが降谷は返事をしない。え、無視?
「降谷さーん!」
誰かが叫んだ。
「後にしろー!」
降谷が叫んだ。ぎょっとした。こんなぞんざいなことをするとは思わなかった。
「あーい」
誰かが答えた。
「すみません」
降谷が言う。え、これ赤井に言ってるのか。
「いや」
「今忙しくて」
「だろうな」
「すぐ終わります」
「いや……」
赤井は少し思案した。
降谷は赤井が引いた線を正しく理解し、赤井に近付くことはなかった。時は過ぎ、降谷との接触はほぼ皆無。こうして顔を合わせて言葉を交わしたのは実に三年振りのことだった。この三年の間、同じ建物に居て同じ任務に当たっていたにもかかわらずだ。
間違いなく降谷が気を回していたのだろう。そうでなければ公安部の責任者である降谷の姿すら滅多に目にしないなど有り得ない。
ところが今、実に三年振りに接触してしまった。赤井が雑用の使いに出されたことも降谷には想定外だったのかもしれない。
降谷の気遣いに赤井は特に思うところはなかった。
けれど、少し、興味が湧いた。
「降谷くん」
「はい」
「急がなくていい」
「え」
ぴたりと降谷の動きが止まる。降谷が顔を上げた。冷却シートが額からずるりと落ちた。
目の下には隈。薄っすらと髭の跡。童顔気味な面手は疲労が見え隠れしていた。薄色の髪は見るからにパサついている。
降谷は間抜けな顔をしていた。
こんな顔だったろうか、彼は。
「ゆっくり作業してくれ」
「……、ここ禁煙ですけど」
「構わん。禁煙してる」
「え。赤井が?」
「ああ」
「嘘だろ」
「喫煙所を探す労力よりマシだ」
「それは……ご愁傷様です」
合衆国も日本も、今や喫煙者に厳しい環境と成り果ててしまった。とにかく喫煙所が少ない。短い休憩時間が喫煙所探しで潰れてしまう。気軽に外出も出来やしない。これならいっそのこと禁煙したほうがマシだった。
冷却シートを剥がしながら降谷は首を傾ける。
「珈琲と紅茶どちらにしますか」
「なら紅茶を貰おう」
「フレーバーとストレート」
「フレーバーもあるのか」
「あれ。FBIにはない?」
「ないな」
「ちょっと待っててください」
降谷が席を立ち、すぐ横にあるマシンの前に立った。FBIのフロアにもあるカプセル式のコーヒーメーカーだ。
「マスカットとさくらんぼです。お好きなほうどうぞ」
フルーティな甘い香りが漂うカップを差し出され、赤井は薄い色を選んだ。口をつけるとマスカットの芳醇な香りが口内に広がり、赤井は目を細めた。
「意外と美味いな」
「甘いの美味しいですよね。脳みそに染みる」
「寝てないのか」
「僕ですか?」
「ああ」
「まだ三日目です」
「……」
徹夜三日目という意味だろうか。ということは三日は家に帰ってないのか。大丈夫なのかそれは。
「FBIにも入れるようにしますね」
「え」
「フレーバーティー」
「……そうか」
頷いた赤井は、謝意を口にすべきだったかと思ったが、降谷は既に作業を再開してしまった。
「いつから禁煙したんですか?」
降谷が問う。降谷の手は先程よりゆっくりだ。
「二年は経つな」
「そんなに」
「案外すぐやめられるものだ」
「病院は?」
「自己治癒だ」
「すごいですね」
空気が揺れる。降谷が笑ったのだろう、俯いていて顔は見えないけれど。
赤井は降谷を眺めた。
こんな風に降谷と雑談をしたのは初めてだった。降谷の会話は案外フランクだ。目の下には隈。薄っすら髭の跡。見るからに徹夜続きの草臥れた姿を人目に晒すことができる男だったのかと、赤井は意外に思った。
(いや、違う)
降谷零の何を知っているというのだろう。
神経質で潔癖、プライドが高く隙を見せない優等生。赤井が認識していた降谷零は目の前の男とは重ならなかった。この三年の間で降谷は変わったのだろうか。それともこれが本来の降谷なのだろうか。それを測る材料を赤井は持たない。
赤井は降谷零のことなど何も知らなかっただけだ。
赤井が線を引いた「降谷零」とは一体誰だったのだろう。
作業を終えた降谷は赤井に「助かりました」と微笑んだ。草臥れた笑みだった。
一ヶ月経っても二ヶ月経っても、次に赤井と降谷が顔を合わせることはなかった。当然だ。降谷はこの三年間赤井の前に姿を見せないようにしていたのだから、余程赤井からアクションを起こさなければ偶然など発生しない。
赤井は降谷零には興味はなかったが、あそこまで予想外だとどうにも座りが悪い。もう一度会話くらいはしてみたいと思うようになったものの、降谷は徹底して赤井の前にだけ姿を見せない。
余計に気になる悪循環だ。
どうも赤井は、降谷零に好奇心を抱いてしまった。
そんなある日だった。
赤井は突発的な本国とのやり取りのため、一人夜遅くまで残って作業をしていた。赤井が警視庁を出た時間は夜の九時を過ぎた頃。さてどうするか食事をして帰るかそれとも、と思案していた赤井はふと気配に気付く。
咄嗟に身を隠した赤井の目前に現れたのは降谷零だった。
暗くてよく見えないが降谷は何故か私服だった。いつぞやの安室透よりも地味というか、何とも無難な出で立ちだ。無難なパーカーにボトムス、なのに足元は何故か質の良さそうな革靴。何故。
赤井が抱いたのは違和感だった。
降谷は特に辺りを警戒するでもなく歩き出す。頭で考えるより先に赤井は降谷を尾行し始めた。
行き先は街だろう。だんだんと賑やかな方向へ向かう。降谷の手荷物は革製の鞄と紙袋が一つ。車やタクシーを使わないことに意味はあるのだろうか。こちらもプロだがあちらもプロ。慎重に追跡するも降谷に警戒は見えない。
延々と数十分も歩き、完全に繁華街に出た。降谷の足取りに迷いはない。やっと降谷の足が止まったのは、とあるネットカフェの前だった。
(聞き込みか……?)
殆ど飽和状態になったとはいえ一応現在も組織関連の職務は続いている。狙撃手である赤井はともかく責任者である降谷はまだ多忙な筈だ。降谷が別件の任務に就いた話は聞いていないが、ステイツには内密の事件だろうか。
降谷は革鞄から財布を取り出した。何か悩んでいる風だ。ネットカフェの料金プランを睨んで動かない。
(……金が足りないのだろうか)
どうも仕種がソレだ。
赤井は迷い、足を踏み出した。
どうも、何だか、赤井が予想しているのとは違う気がする。
何なんだ一体降谷零は。予想外ばかりじゃないか。
「降谷くん」
「赤井?」
降谷は驚いたように目を開き、赤井は眉を顰めた。繁華街の明るいライトに照らされて対面した降谷は相変わらず草臥れていたからだ。
「……」
「お疲れ様です。これから食事ですか」
「君は」
「僕? あー、野暮用です」
「このネットカフェに用があるのか」
「うーん、迷ってたところです」
ぐう。きゅるる。繁華街の騒音にも負けない音が赤井の耳に入る。
あ。降谷が財布を持っていた手で己の腹を抑えた。降谷の腹の音なのか今の。
「これから食事か」
「ええまあ」
「俺もこれからだ」
「そうなんですか」
「一緒にどうだ」
「え、僕とですか?」
降谷は首を傾けた。それから申し訳なさそうに苦く笑う。
「あー、残念ながら僕、手持ちがなくて」
「……」
「すみません」
「降谷くん」
「はい」
「話があるんだが少しいいか」
「はあ。今ですか?」
「今だ」
「はあ。赤井が僕に?」
「そうだ」
こういう言い方ならば降谷は断らない。降谷は、強引な赤井の物言いに異議を唱えることもなく、やっぱり不思議そうに頷いた。
すぐそばにあった個室のある居酒屋に入る。
店内の照明下でも、どう見ても降谷は草臥れた様子であった。無精髭こそないものの目の下の隈はくっきりはっきり濃くなっている。髪は艶がなく光を反射しない。肌も少々荒れているようだ。
どうなってるんだ公安部。どんな労働環境なんだ。
赤井は勝手に注文を選んだ。このような状態の降谷にアルコールを飲ませる気はない。烏龍茶を二つと食べやすそうなメニューをタブレットに入力する。
烏龍茶とお通しがサーブされると降谷は息をついた。
「もしかしてですけど」
「ああ」
「赤井、今僕に興味持ってます?」
「君には違和感しかない」
「僕の話したほうがいいですか?」
「是非聞かせて貰いたいね」
「まあ、別に隠してないんで赤井が聞きたいなら話しますけど」
降谷は「いただきます」と手を合わせるとお通しをパクパクと口に入れた。咀嚼し飲み込む。おいしい。呟いた降谷は嬉しそうだった。
「僕、家がないんです」
降谷の説明は簡潔だった。
「家がないだと?」
「お金もない」
「どうして」
「うち、火事になっちゃって」
「は」
「全部燃えちゃって家もお金もないんです」
「いつ」
「三ヶ月前です」
「俺が君のところに資料を持って行った頃か」
「あれ火事の次の日です」
「次の日……君、休まなかったのか」
「修羅場でしたしね。あの時はお見苦しいところをお見せしました」
赤井は額を抑えた。
どうなってるんだ公安部。
「……どうして今も家がないんだ。保険とか手当てとか、何かあるだろう」
「あー」
降谷は眉に皺を寄せた。
「僕、今の一件が終わるまでは一般的な保険とか手当てが難しいんですよね」
潜入捜査官だったのだから事情は普通ではない。降谷零は安室透として生きていた。その辺りが絡んでどうしようもないと言いたいのだろう。恐らくはその辺の引き継ぎが遅れている。後回しにされている。
どうなってるんだ公安部。
「君の上司や部下は知らないのか」
「勿論知ってますよ。当初は色んな奴のところで順番に世話になってました」
「今は」
「馬に蹴られたくない」
「は?」
「僕が世話になるとこ次々と結婚が決まったり同棲が決まるんです。出て行った奥方が戻って来た奴もいたな。僕も背に腹は代えられないんで一泊二泊くらいはさせて貰うんですけど、流石に何泊も出来ませんよ。僕が居た堪れない」
「……」
「お陰で僕、縁結びの神って呼ばれてます」
「……」
「そんな訳で行くとこなくなっちゃって、二ヶ月くらい前からはネカフェで寝泊まりしてます。たまに仮眠室使ってるけど、あんまり使い過ぎたら皆僕に気遣うから」
「…………」
庁内には仮眠室があり、特に降谷が率いる公安部はそこの常連だ。そこを使えば金はかからないというのに部下共に気を遣って遠慮しているのか。
縁結びの神?
神が一番の貧乏くじじゃないのか?
「……馬鹿じゃないのか君」
赤井は言った。
事実だ。馬鹿だろ。
「部下に気遣ってる場合か。上司は」
「僕の上司、あっちだからちょっと、まあ、面倒なんです」
あっち。警視庁ではなく警察庁。こちらもまた面倒なアレコレが絡んでいるようだ。めんどくせえな日本警察なにやってんだ。
降谷は肩を竦めた。
「多分あと一ヶ月くらいで何とかなるんで、それまでの辛抱です」
「金もないのか」
「財布に入れてた分だけで何とか」
「キャッシュカードやクレジットカードは」
「ないです。切り替えの都合で」
安室透と降谷零の切り替え、ということか。仕事しろ日本警察。捜査官の健康で文化的な最低限度の生活を何だと思ってるんだ。
「さっきネカフェに入るのを躊躇ってただろう」
「あそこ値上げしちゃってて。カレー食べ放題付いてて寝心地も割と良かったんだけどな」
「金もないんだな」
「もうちょっとの辛抱ですしね」
「車は」
「ああ。クラッシュしたでしょ。そのままです」
組織との最後の大きな戦い時に降谷の車は大破した。車があればかなり状況は変わっていただろうに全く不運だ。
「他にあてはないのか」
赤井の問いに降谷は肩を竦める。
そこで料理が配膳され、赤井は皿を降谷のほうに押し付けた。
「赤井は食べないんですか」
「君が食べろ」
「割り勘なのに」
「馬鹿じゃないのか君」
この期に及んで割り勘すると思ってるんだろうか。容赦も愛想もない流石の赤井だって、こんな話を聞いた後で降谷に財布を出させる気にはならない。
それでも降谷は赤井の分まで取り皿に盛るから、赤井も箸を取った。
「奢る」
「いやいいですよ」
「異論を認めると思ってるのか」
「赤井に奢ってもらう理由がない」
「俺が君に話があると誘った」
「でも」
「馬鹿か君は」
「えええ……馬鹿ってさっきから」
「馬鹿だろ。いいから食べろ、明日も早いのだろう」
赤井は言った。黙って支払いを済ませてしまうことも出来るが、降谷には率直に告げたほうが良いだろう。その上で降谷に頷かせなければ後々面倒になりそうだ。
困ったような顔で降谷は黙り、やがて行儀良く頭を下げる。
三年前のあの日、赤井へと頭を下げた降谷の姿を思い出して少し胸がざわついた。
「すみません。頂きます」
「大袈裟だ」
「後で必ず返します」
「ああ」
本当は不要だと言いたかったが降谷は引かないだろうから。
赤井はサーモンの握り寿司を口に運ぶ。うん美味い。降谷を見遣ると、とてもとても嬉しそうにマグロの握り寿司を頬張っていた。
「ううう……久々のお寿司……!」
降谷は満面の笑みだ。降谷の満面の笑みなんて初めて見た。こんな顔で笑うのだと、何とも妙な気持ちになる。躊躇いなくこんな顔を人目に晒せる男だったのかと思うのだ。
所作も美しい降谷がぱくぱくと食べる様は見ていて気持ちが良い。
「君、好き嫌いは」
「何でも食べます」
「アレルギーは」
「ありません」
ふむ。ますます気持ちの良い食べっぷりだ。おまけに降谷は赤井よりずっと健啖家で面白い程良く食べる。つい赤井は追加で色々頼んでしまった。
合間合間には何でもない雑談。赤井の禁煙の話に、無駄な書類仕事の是非。やはり降谷はフランクな会話をする男だった。有り体に言うと話しやすく心地良かった。アルコールのない席であったが、赤井もゆったりと食事を摂ることができた。
神経質で潔癖、プライドが高く隙を見せない優等生。澄ました顔で己の弱味など悟らせない。それが赤井の思い描いていた「降谷零」だった。
そんな男は、やはり何処にも居なかった。
食事を終え店を出る。
支払いを済ませた赤井に、降谷は律儀に頭を下げた。
「ご馳走様でした」
「だから君は大袈裟だ」
「必ず返します」
「ああ」
「まさか赤井と食事を共にできると思いませんでした」
「、 」
降谷は小さく笑った。赤井はどきりとした。
まるで、三年前のあの日みたいな顔で降谷は笑った。何かを昇華させたような。あの日赤井は降谷のその顔が気に食わなくて気のない返答しかしなかった。元から嫌っていた降谷零との間に線を引き明確に拒絶した。
「ありがとうございました。後日改めて訪ねます」
再び頭を下げ、降谷は踵を返そうとする。
いや。いやいや待て。
「降谷くん」
「? はい」
「君、何処に行く気だ」
「戻って仮眠室に泊まります」
「まさか歩いて戻る気か」
何十分歩いたと思ってるんだ。しかし降谷は当然のように頷く。
「明日も仕事だろう」
「慣れてます。そんなに時間かかりませんよ」
「革靴だろう」
「赤井こそ。靴擦れしませんでした?」
「……気付いていたのか」
「まさか赤井だとは思わなかったですけどね」
赤井の尾行に気付いていた降谷にやたらと赤井の胸が弾む。
降谷が首を傾けた。安室透もバーボンも、棘のある言葉に混じって素直な仕種を見せるものだから、計算されたあざとさが赤井は嫌いだった。
しかし。今こうして「降谷零」の仕種として見ると少なくとも計算には見えない。
果たして赤井が嫌っていたのは「誰」だったのだろう。
「赤井?」
「……俺も戻る」
降谷はぎょっとした。
「なんで」
「車を置いてきた」
「だからって歩くんですか」
「君も歩くんだろう」
「そうだけど」
「一時間はかからんだろう」
時計は午後十一時を回ったところだ。日付が変わる前には辿り着く。
歩き出した赤井に合わせて降谷も並んだ。街はまだまだこれから騒がしくなる。喧騒の中なのに降谷が笑ったのはすぐに察した。
「まさか赤井と並んで歩くとは思わなかった」
おかしそうに降谷は言った。
歩幅や速度を合わせたつもりはないが、綺麗に並ぶのは降谷が赤井に合わせているのだろうか。それとも元から似た歩幅と速度なのだろうか。
「……降谷くんの紙袋」
「これ?」
「何が入っているんだ」
「タオルとか洗面道具とかです」
「何故スーツではないんだ」
「ネカフェに泊まるのにスーツだと具合が良くないんです。個室が空いてないと狭い椅子で寝ることになるから皺になっちゃう」
「それは君の私服か」
「私服は全部燃えました。これは古着屋で安く買ったやつ」
「全部燃えたのか」
「スーツは何着かロッカーに入れてたんで無事でした。あと革靴がもう一足。スニーカーもロッカーに入れておくんだったなあ」
「サンダルを履いていただろう」
「そうだった。修羅場用に置いてある健康サンダル。ラクなんですよ」
来た時とは逆だ。だんだんと店や人はまばらになり、静かな通りを並んで往く。
「安室がいつ消えても問題ないよう整理してる最中だったんで、ダメージは意外と少なかったのが不幸中の幸いでした」
「安室透から降谷零に移行する整理か」
「本来ならさっさと降谷に戻れる予定だったんですけどね。そういうの時間かかるんですよねえ、この国」
降谷の愛国心は盲目なだけではないらしい。ささやかな愚痴に赤井は口角を上げた。
他愛のない雑談をぽつぽつと交わし、警視庁へと逆戻りする。その間、不快感や気まずさを感じることはなかった。食事時のようにゆったりとした時間は心地良いとさえ感じた。
やっと到着すると赤井は事務仕事続きで身体が鈍ってることを実感した。足が痛い。
「では、ありがとうございました」
降谷が言う。赤井がこのまま駐車場へ向かうと思ったのだろう。
「俺も行く」
赤井は告げた。
降谷は、ぎょっとしたように開いた口を一度閉じ、開いて二度閉じる。何とも言えない顔をした。
まあそうだろうな。赤井自身も意味が分からず勝手赴くまま口にしている。
「……えーと。なんで?」
「疲れた」
「帰宅して休んだほうがいいのでは?」
「面倒だ」
「車ですぐだろ」
「仮眠室のほうが近い」
「……赤井は仮眠室使ったことあります?」
「俺は初めてだな」
「あまり寛げる設備じゃないですよ」
「ほお」
「ていうかフロア的に公安とFBIの仮眠室って共同使用なんです」
「そうか」
「仮眠室使うなら僕と同室になるんですが」
「ああ」
「いいんですか?」
「問題があるのか?」
「…………赤井がいいならいいんですけど」
降谷の声は翻訳すると「意味が分からん」だ。赤井自身も意味は分からない。
当然だろう。降谷にしてみたら、己をあからさまに嫌っていた赤井から突如距離を詰められているようなものだ。降谷はこの三年間赤井の意思を尊重し続けたというのに、今更なんで? となるに決まってる。
なんでだろうな。
そんなの赤井が聞きたい。興味にしたってこれはない。
稼働しているエレベーターまでの通路はこの時間でもまだ明るかった。地下駐車場で止まっているエレベーターを一階まで呼び、乗り込む。赤井は仮眠室のあるフロアの階を押した。仮眠室があるのはFBIが使うフロアの一つ上。公安部が使っているフロアだ。
降谷の横顔は薄明りにも草臥れていた。
「まだ修羅場続行中なのか」
「ええ。まだ若干」
「随分と草臥れている」
「え、そうですか?」
「鏡を見ていないのか」
降谷は己の頬を擦って苦く笑う。
「あー、見苦しかったですか」
「そうではない」
赤井は否定を口にし、言葉に詰まった。
詰まる赤井をどう思ったのか降谷は指先で自身の前髪を摘まむ。
「毎日シャワーは浴びてるんですけど」
「不衛生さはない」
「なら良かった」
赤井がイメージしていた降谷零とは違うが、見苦しさとは無縁だった。寧ろ降谷は無精髭があろうが髪がざんばらだろうがそこら辺の男より余程清潔感があった。
エレベーターが止まり、歩き出す。
「不潔ではないがやつれている」
「そんなやつれてます?」
「普段の君と比べるとだが。流石に回復が追い着いていないのだろう」
降谷の環境を聞けば回復しないのも当然である。赤井とて過酷な任務を幾つも越えてきたが、降谷はあまりにも不運が重なっていた。あとお人好し。あと余計な気遣い。
なんでだろうな。
そんなの赤井が聞きたい。興味にしたってこれはない。
けれど仕方ないではないか。赤井は生来、一度興味を向けると自分でだって止められない。意味なんかあるものか。
「赤井」
仮眠室の前を通り過ぎた赤井に降谷が声をかけた。
振り返った赤井に、降谷は瞠目し、それから何とも言えない顔をする。降谷は運は良くないかもしれないが洞察力と勘の鋭さはとびきりだ。
「赤井」
「公安部のロッカーはこの奥だろう」
「まさかですよね?」
「君の荷物を回収する」
「……なんで?」
この場合、降谷の疑問は「降谷の荷物を取りに来た理由」ではなく「赤井が降谷の荷物を回収し降谷を自宅に連れ帰ろうとしている理由」を指していた。
頭の回転の良い人間との会話は楽しい。降谷のそれは気に障る筈だったが、赤井は酷く楽しい気分だった。
降谷は溜め息をつく。
「困ります」
「何故」
「えええ……あーじゃあ、公安とFBIの個人的交流には許可が要る」
降谷のぞんざいな言葉に赤井は思わず笑った。
そうか。意外とぞんざいなんだな、降谷零は。
「守っている奴はいないだろう」
「そうですけど」
「それに許可を出すのは君だ」
「そうですけど書類手続きが要ります」
「明日作ればいい」
「えええ……めんどくせえ」
降谷は大きな溜め息をついた。
守秘義務がある職務柄、FBIと公安の人間が交流する際には届け出が必要だ。が、飲みに行くのに一々書類を出す奴などいない。要はルールが一応あるという体面だ。許可する立場の責任者である降谷だって、誰が誰と飲みに行こうが見て見ぬ振りをしている。
型にはまった優等生ではない降谷零。
ああそうか。赤井は垣間見ていた筈なのに、赤井が決め付けて見ていなかっただけだ。
ちら、と降谷が腕時計を見た。
顔を上げた降谷は眉間に皺を寄せていて、けれどあの頃のような殺気はないのだからおかしかった。
「すぐ用意するんで待っててください」
降谷は足早にロッカーへと向かった。
その潔さと豪胆さに赤井はくつくつと笑いが収まらなかった。降谷は睡眠時間と押し問答を天秤にかけ、あっさり押し問答を放棄したのだ。
降谷にしてみたら、己をあからさまに嫌っていた赤井から突如距離を詰められ挙句は「うちに泊まれ」と言われたのだ。なんで? となるに決まってる。裏があると疑ったほうがいい。だが降谷は睡眠時間を取った。自分自身の睡眠、きっと赤井の睡眠も。降谷はお人好しだ。
(ああ、面倒になったのかもしれないな)
先程めんどくせえと確かに言った。降谷零は案外とぞんざいだ。
ぞんざいで豪胆、ああ、赤井は今まで一体誰を見ていたのだろう。
「お待たせしました」
戻って来た降谷の荷物は少ない。革製の鞄に紙袋、増えたのはスーツを入れているだろう衣装ケースが一つだ。あとはロッカーに入れたままにしておくつもりなのだろう。
またまた逆戻り。
止まったままのエレベーターに乗り込み、降りる。
「危害を加えるつもりはない」
取り敢えず赤井は宣言した。信用に足る言葉ではないだろうが。
「はあ……」
なんとも曖昧に降谷は返した。
「まあ、赤井がいいならいいんですけどね」
「いいのか」
「いや僕の台詞ですけどね」
「警戒心はないのか」
「そっくりそのまま返しますよ」
「ふむ」
それは考えていなかった。
腑抜けたのか平和ボケか。既に赤井は降谷を「敵」として見做していなかった。
「赤井は自分のテリトリーに異物を入れないタイプだと思ってました」
正解だ。赤井も自覚がある。
でも、と降谷は笑った。
「案外お人好しですよね」
「……俺が?」
「情に絆されるというか押しに弱いというか」
「誰の話だ」
「赤井秀一」
甚だ心外である。
一階を通り過ぎ地下駐車場へ、エレベーターを降りると赤井の車へと向かった。
「君は俺が絆されたように見えるのか」
「ていうより好奇心ですかね」
「分かってるじゃないか」
「僕の何が好奇心の対象になったのか全然分かんないけど」
「俺も分からん」
「えええ……どういうこと?」
降谷から荷物を受け取り後部へと納める。降谷はナビシートに収まり、赤井はハンドルを握った。運転席は右側だ。
「ほんとに日本車に換えたんですね」
降谷はきょろきょろと車内を見渡す。車はSUVタイプ。降谷と同じく、前のスポーツカーがクラッシュしてから換えた。
「趣味よりも実用性を取った」
「山とか行くんですか?」
「たまにな」
「車中泊できるやつ?」
降谷は後部を見た。座席はなくフラットな空間。エアーマットが敷いてある。
「寝心地良さそう」
「寝るならもっと大きな車にするべきだったよ」
「キャンプするの?」
「湯を沸かして珈琲を飲む程度だ」
「いいなあ。充実してますね」
「君は休暇を取っているのか」
「火事で焼け出される前はちゃんと休んでましたよ。今は滞在する場所に困るから休んでないけど」
「なら明日から問題なく休暇が取れるな」
「……」
横顔に降谷の視線を感じる。
「ていうか赤井って僕のこと嫌いだろ。嫌いな人間を自分のテリトリーに入れる程の好奇心って何? 物好きすぎません?」
翻訳すると「意味が分からん」だ。
ていうかさらっと「嫌われてる」と言ったな。
返す言葉に迷う赤井を降谷はどう思っているのだろう。
他に車もない夜道を走る。赤井の住み処は霞が関からやや離れており、仲間には不便そうだと言われるが赤井はドライブ気分を楽しめるため気に入っていた。
(嫌いじゃないと言えばいいのか?)
いや、確かに赤井は降谷を忌避していた。認識は変わったが覆ったとは思っていない。どういう感覚なのか未だ赤井は掴めずにいる。
(嫌いだが興味があると言えばいいのか?)
いや、それは拙い。酷すぎる。覆ってはいないが認識は変わった。嫌いだなどと告げる気はない。大体告げずとも降谷は知っていた。
(それがショックなのか、俺は、)
隠す気もなくあからさまに拒絶していた癖に、降谷が正しく理解していたことに赤井は、ダメージを受けている。随分と勝手な言い分だ。
(俺は降谷零をどうしたいんだ)
信号で停止し、赤井は黙ってしまった降谷を横目で見遣る。
「……、」
降谷は眠っていた。
うそだろ。
赤井は降谷を凝視した。身を乗り出しまじまじと見るも、それでも降谷は動かない。閉じた瞼、規則的に動く胸元。すうすうと小さな寝息がエンジン音に紛れた。
うそだろ。
たった今まで会話してたのに寝るってどういうことだ。しかもぐっすりじゃないかよく寝れるなどうなってるんだ降谷零。
「……君に警戒心はないのか」
もしくはそれ程までに疲弊していたのか。
まさか安らぎを感じた訳じゃ、ないだろうに。
「……」
深夜の住宅街は人も車も殆どない。それをいいことに青信号に変わっても、赤井はその場を動かなかった。助手席で眠る降谷を、じっと見つめた。信じられない。だって、降谷零が赤井の隣で無防備に眠っている。
実年齢よりずっと若く見える寝顔。
草臥れた面手は今、穏やかだ。
(ほんとうに、寝てる)
過去、降谷が赤井に抱いていたのは負の感情だった。降谷は負の感情を捨て赤井を追うことをやめたが、赤井にとって降谷の感情は全くどうでもいい代物でしかなかった。降谷にどんなに憎まれようが、どんなに誠心誠意謝罪されようが、赤井は特に何も感じなかった。
重要なのは赤井が降谷を嫌っていたこと。
その降谷が赤井と関わらないこと。
それが重要であり、赤井は赤井の意思を尊重する降谷の行動に満足していた。
降谷はどう思っていたのだろう。
降谷こそ興味がなかったのだろうか。
それとも割り切ったのだろうか。
少しでも惜しんだだろうか。
それとも憤慨しただろうか。
何かを、感じただろうか。
本当に今更だ。今更、赤井は降谷の感情を知りたいと思っている。
過去は戻らない。けれど今、目の前に降谷零が在る。
そうだ。今まで赤井が「降谷零」だと思っていた男は何処にも居ない。そんなもの最初から何処にも居なかった。
降谷はここに居る。降谷零は目の前に在る。
「……っ、」
赤井は、息を呑んだ。
目を開く。唇が戦慄く。
うそだろ。
心臓が大きく震えた。
耳鳴りがする。
なのに赤井の全神経は、眠る降谷に向かっていた。
ああ。
(何が好奇心だ、何が興味だ、)
息を殺してハンドルに顔を伏せる。心臓がますます煩く喚き散らす。身体が、顔が、掌が、熱くて苦しくて仕方なかった。
己のテリトリーに異物を入れることを赤井は良しとしない。簡単な話だ、赤井は降谷を異物だと思っていないし、寧ろ己のテリトリーに降谷を入れてしまったほうが赤井の都合が良かったということだ。
息を殺したまま意を決して顔を横にした。
すうすうと呑気な降谷の寝顔。
肌が荒れている。本当はもっと艶やかな頬だった筈だ。髪ももっと光を反射する美しい色だった。損なわれた降谷零の美しさを、心からの健やかさを、赤井は取り戻せたらと願っている。
できるなら手の届く距離で。
「……っ、」
ぎゅう、と心臓が爆ぜた。
鼓動が痛い。顔が熱い。指が震えている。いい歳をして何てざまだ。今の赤井はさぞみっともない有り様だろう。降谷が眠っていてよかった。
ああ。
意味などない。理由などない。
(俺は降谷くんを)
好きなのか。