沙代とゲタ吉が水木を取り合う3Pの導入 聞き慣れたシャンソンがラジオから途切れ途切れに響いている。最近はどこに居てもシャンソンばかり耳にする。人々はこのお綺麗に並んだ歌詞の向こうに人生を見るのだそうだ。足元に堆く積まれた日本人の、日本兵の死体から、目を逸らすように。
自分は未だそんな器用な真似は出来そうになかった。ニューブリテン島の岬で弔われた、あるいは弔われる事無く川の底に沈み、海に散り、木陰で朽ち、塹壕に転がる戦友が――ふとした瞬間に、水木を戦地へと呼び戻すのだ。
「クリームソーダって色んな味があるのですね!」
呼び掛けられた凛とした声に、ぼんやりとしていた意識ふっと戻される。目の前に座る少女が、給仕から受け取ったメニューを熱心に眺めていた。水仕事とは無縁だとばかりに傷一つない指先が、文字を追うように紙の上を滑っていく。
白魚のような指、とでも言うのだろうか。柔く脆いその手に込められた力を、怨嗟を、嘆きを思い出して、水木は無意識に自分の喉仏に触れていた。誤魔化すようにネクタイを直す。
「水木様は何になさいますか?」
「そうですね――沙代さんは」
「私はこのオレンジに」
おいしそうですねと相槌を打ちながら視線を上げれば、呼び掛けるより先に給仕が静かに近付く。水木はクリームソーダのオレンジとコーヒーを注文した。
「甘味は苦手でしたか?」
「いえ、そういうわけでは」
――食事を楽しむ、ということが、分からないだけで。
少女の問いに応えないまま水木は曖昧に微笑む。云ったところでどうにかなるものでもない。会話におけるアドバンテージは常に沈黙が握るものだ。明かされない情報にこそ価値がある、あるいはそう思わせる。狸の前で使う手法を無意識に執っていた。彼女にはそうさせるだけの背景がある。
腹の膨れない物を食って愉しむという娯楽は、戦場で削ぎ落されてしまった。飯は食べるものではなく、かき込むもので。十年経った今もそれは戻る気配はない。味わうという行為は水木にとっては接待で見せる技の一つに過ぎない。唯一楽しめるのは、酒くらいだろうか。
「私の我儘に付き合わせてしまって」
「いえ、とんでもない。煙草にはこっちのが合うんですよ」
そう言って灰皿の縁を叩く。
「そうなんですか、私知らなくて」
彼女の視線が置かれた煙草に向けられた。
「喫まれますか?」
「いいのですか!」
目を輝かせながら身を乗り出す彼女に苦笑しながら、煙草を一本取り出した。良くは無いだろうが、好きにしたらいいと思う。もう彼女を縛るものは無いのだから。
机の上で軽く詰めて彼女に差し出した。
「軽く咥えて。口に葉が落ちないように、少し下を向けた方がいいでしょう」
淡く色付いた唇がぎこちなく煙草を咥える。震えるその先端に、燐寸を擦って火を近付けた。
「軽く吹かして――ああ。ええと、少し強めに、短く息を吸って。火が点くまで、何回か」
少女が煙草を吹かすというのは場合によっては扇情的なのだろうが、ふうふうと必死に息を吸う様子はどうにも危なっかしい。
巻紙を燃やしながら葉に火が点る。これではあまり美味くないだろう。まあ煙草の味など最初は気にしないかと思い直し、手慰みに燐寸を指で弾いて火を消した。そのまま手を離せば、燃え滓が煙の軌道を残しながらカランと音を立てて灰皿へと落ちていった。
「勢いよく吸うと噎せますから、気を付けて」
そう注意はしたものの、案の定というべきか。少女は煙を吐きながら小さく噎せる。どう気をつければいいのか、具体的に説明していないのだから当然と言えば当然だが。
けほけほと咳込む少女の指先から煙草を奪い取り灰皿へと移動させた。
「難しいものですね」
「こういうのは慣れですから」
誰だって最初はそんなもんです。そう言って灰皿を手前に引き寄せると、給仕がクリームソーダとコーヒーを運んできた。
鮮やかな橙色のジュースの上にアイスクリームが乗せられたそれに少女が顔を綻ばせる。持ち上がった銀色のスプーンが、ランプの灯りを反射させながらアイスクリームとさくらんぼの上をうろうろと行き来する。どうやって食べようかと悩んでいるのだろう、微笑ましい光景を眺めながらコーヒーが注がれたカップを手に取ろうとして――。
不意に近くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。
――ああ、いかなくては。
いつになく激しく泣く我が子の声にふと意識が揺らいだ。
「ああ、残念」
少女が悲し気に微笑む。
「申し訳ない」
「いいえ、構いません。だって、また会ってくださるでしょう?」
「ええ、機会があれば是非」
そう言って笑顔を貼り付ければ、目の前の彼女がぐにゃりと歪んだ。
「では、また」
耳元で少女の声が響いて、水木は目を覚ました。この時間に泣くということはおしめだろうか、と体を起こしたところではたと気付く。
部屋の中はしんと静まり返っていた。当然だ、息子はもう十六を超えているのだから。赤子の泣き声どころか寝息一つ聞こえない暗い部屋の中で、一人ぽつんと取り残されていた。
ぼんやりとしていた夢と現実の境目が段々明確になる。振り子時計の音が耳に入る頃に漸く、泣き声も少女も全て夢か、と思い当たった。息を吐いて、布団の上で胡坐をかく。完全に目が覚めたとも言い難いが、このまま寝直すのはどうにも気が向かない。枕元の灰皿を引っ掴んで勝手場へと向かった。
ここ最近になって、やたらと彼女の夢を見るようになった。此方を責めるでもなく、此方が謝るでもない。ただ穏やかに談笑するだけのそれは、決して悪夢というわけではない。ないのだが――夢を見る程に、それを自分が望んでいるという事実に罪悪感が募る。彼女を選べなかった時点で、そんな事を望む資格などあるわけがないと、分かっているはずなのに。
湯飲みに注いだ水を飲み干し、煙草に火を点けたところで勝手口の扉が静かに開いた。暗闇からぬるりと現れた息子の顔にぎょっとする。深夜に出歩くのは妖怪の性分であるらしい。心配ではあるものの、父親が傍についているから大丈夫だろうと好きにさせているのだが。
おかえりと声を掛ければ、ただいま帰りましたと素直に返される。反抗期というわけでもない。
目を凝らせば、鬼太郎の手のひらの上ですやすやと眠る目玉が一つ。お前が息子を守らないでどうするんだと呆れ半分に息を吐けば、自分よりも幾分細い指先が唇で咥えている煙草を奪っていった。
「随分と夜更かしですねェ」
「夢見が悪くてな」
「でしょうね。あの女(ヒト)、チョットしつこ過ぎますから」
「ん?」
鬼太郎が一丁前に煙草を吹かしながら灰皿を手繰り寄せる。告げられた言葉に聞き返せば、顔面にふうっと紫煙を吹きかけられた。
「夢に出てくる人物っていうのは、自分が会いたいと想っている人が出るわけじゃアないんですよ」
「そう、なのか」
「ウン――水木さんが会いたい人じゃなくて、水木さんに逢いたいと思っている人が、夢を借りて出てくるんです」
「俺に――」
「そう。だから、マア。そんなに悩まなくて大丈夫ですよ」
指先が煙草の上で跳ね、ぱらりと灰が落とされる。満足したらしく、こちらに戻された煙草は随分と短くなっていた。受け取った煙草を咥えれば、鬼太郎はおやすみなさいと云いながら、現れた時と同じようにぬるりと暗い廊下へ消えていった。
おそらくは。あの子なりに慰めてくれたのだろう。そんなにひどい顔をしていただろうか、と指先で目の下の隈のあたりを軽く揉みながら、深く煙を吸い込んだ。
***
「全く、貴方はいつもいつも私の邪魔ばかりして」
「邪魔してるのはアナタでしょうに。どうやったって水木さんがアナタに振り向くわけがないんだから、いい加減諦めたらどうです。見込みナシじゃないですか」
「それは貴方も同じでしょう」
「一緒じゃない」
「一緒です」
言い争う男女の声にぼんやりと意識が浮上する。たしか、布団に戻って寝直したはずだったが。薄く目を開くと、丸くくり貫かれたいやに高い天井が目に入った。奇抜な造りだと視線を流すと、細かく装飾が掘られた欄間の下には鮮やかな襖があり、窓にはステンドグラスがはまっている。
――女郎屋か。
「どこだ、ここ…」
見覚えのない場所に思わず声が漏れる。体を起こせば、手触りの良い掛け布団がするりと滑り落ちた。
「水木さん」
「き、たろう…」
聞き慣れた息子の声に振り向けば、椅子に腰掛けた鬼太郎と少女がじっとこちらを見ていた。温度の無いその視線にぞわりと背筋が粟立つ。見てはいけないものと目が合ってしまったかのような、そんな気配を感じて思わず視線を逸らした。吐き出された息が短く喉を鳴らす。
少女からじっとりとした視線が舐めるように注がれる。重苦しいその威圧感から、畳に視線を落としたまま動けないで居ると、何かが左肩を撫で上げた。びくりと体が跳ね上がる。勢いよく振り向けば、見慣れた栗毛色の頭がゆらりと動いた。
「御令嬢の前ですから、あまり乱れた格好はいかがなものかと」
鬼太郎が水木の浴衣の襟に手をかけていた。起き上がるのと同時にずり落ちていたらしい。肌に触れた指先の温度はいつも通り幽霊族らしく低いものだったが、慣れ親しんだ気配に少しだけ安堵する。
「あ、ああ、すまない…、ここは?」
襟元を正しながら鬼太郎の袖口を小さく引っ張りながら問いかけた。
「ここは、私の井戸の底」
答えたのは背後の少女だった。黒い髪とリボンを揺らして、梁も見えない程高い天井を見上げる。
「狂骨は井中の白骨なり――でしたか。井戸から出て、人に見つかれば、私は骨となり怨みに取り憑かれます。けれど――ここにいる裡は、私は私なのです」
「狂骨ならば退治すると脅したら、閉じ籠るかわりに、水木さんを井戸の底に引き摺り込むようになったんですよ。最近、この女(ヒト)とよく夢で会うのではないですか」
――まあ、これも所詮はただの夢です。
鬼太郎が耳元で囁く。
「本当は、先程のパーラーにしたかったのですけれど――邪魔が入ったものですから」
「何度だって邪魔してやりますよ」
「本当に嫌な人」
「そっちこそ」
子供たちがばちばちと火花を散らす。仲が良いのか悪いのか。鬼太郎が近い年頃の女の子と話しているのを見るのは珍しい。存外色気が無く、まるで子供の言い争いを見ているかのようで微笑ましかった。
「あ」
鬼太郎の声が耳元で響く。何だ、と聞くより先にぐらりと視界が揺れた。倒れそうになる体を鬼太郎が支える。
「チョット、妖気抑えて」
「あら、いけない」
つう、と鼻から水が垂れる。唇に落ちたそれは鉄臭くて、どうやら鼻血が出ているらしかった。
このままでは布団が汚れる。
ちり紙か何かないだろうかと視線を巡らせようとして、不意に影が落ちる。何だ、と見上げれば、鬼太郎の顔が間近にあって――人中をぬるりと舐められた。
「ッッ!?!?」
身体を離そうとしたが、後頭部に回された手が力強くそれを阻む。生温い舌と熱い吐息が深く肌に触れた。広げられた舌先がべろりと這っていく。鼻先をひと舐めすると、ぢゅうっと音を立てて鼻血を啜られる。濁った音が耳の奥まで響いて、その衝撃に脳汁が吸われたのではないかと錯覚した。
「、~~~ッッ!!」
詰めていた息が苦しくて。ばしばしと肩を叩けば、好き勝手に這い回っていた舌が離れていく。ハッハッと犬のように荒い呼吸を繰り返しながら目を開くと、ぼやけた視界の中で口元を血で赤く染めた息子がこちらを見つめて居た。
鼻血を舐めるな、汚いだろう。
そう云おうとして――覆い被さる唇に言葉を奪われた。
己の血が、鬼太郎の舌によって口の中に塗りたくられる。滑りを帯びながらもざらついたそれがぐるりと上顎を撫で上げて、かと思えば委縮した己の舌に擦り付けるように絡みつく。
縦横無尽に暴れながら喉奥へと押し入って来るそれは、人の舌よりも明らかに長くて。呼吸もままならず、酸素の足りてない脳がぼんやりと既視感を訴えた。
これは、かつて、どこかで。
びくびくと体を震わせていると、ずるりと舌が抜けていく。力が入らず、抱えられた腕に委ねる。ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら見上げた。滲んだ視界にあるのは、上背のある、左目を隠した、妙な髪形の男で。
先程の既視感に思い当たる。
「ゲゲ、郎…」
うっかりその名を口にした瞬間に、ぴしりと場が凍るのを感じた。
「――なるほど。どうやら本当の敵が見えていなかったようだ」
「ええ、そうですね。口付けをし始めたときは此処を壊して追い出してやろうかと思いましたけど――、一時休戦ということで」