「お邪魔しま〜す……」
自分だけがやっと聞こえるくらいの蚊の鳴くような声。ガチャリ、とノブを回し恐る恐る扉を開いた。別にきちんと合鍵も預かり、合法的手段でこの家を訪れているのだから堂々と入ればいいのだろうが、なぜかここへ足を踏み入れるたび、いつも妙な緊張感が背筋を走る。これは何度訪れても拭うことは出来なかった。
主からの返事はないままに家の中へと足を踏み入れる。しん、と静まり返った薄暗い室内。しかし、そんな中でも分かる小高い丘のようなベッド上のシルエット。
ため息交じりに右手の腕時計に目をやった。
現在、時刻は午前十時四十分。大抵の人間であればすでに活動している時間である。
そう、大抵の人間は。だが、この部屋の主にはそんな理屈、通用しない。今もベッドですぅすぅ、と静かに寝息を立てている。
このまま眠り姫が自然と起きてきてくれるのを待つべきだろうか。しばし思案する。
いや、この感じだと放っておいたら確実に夕方までは目を覚まさないだろう。よって却下。
「まずは……」
ほとんど足の踏み場がないといっても過言ではない床の上を慎重に渡り歩き、窓辺へと近づく。
シャッとカーテンを一気に開けば眩いほどの光が差し込み薄暗かった部屋はあっという間に夜から昼へと様変わりを遂げた。空気の入れ替えも兼ねて窓を開ければ、吹き抜けていくのは夏を少しばかり残した爽やかな風。
後ろからぅっ、とくぐもった声が聞こえふり返るが、光から逃れるようにただ寝返りをうっただけのようであった。もちろん、これで起きてくれるなどと期待はしていない。
「さて……」
来たときと同じように床の上の障害物を避けながら眠り姫が待つベッドへと戻る。どうやら寝返り程度ではこの部屋の明るさにはかなわないようで小さく身じろぎ、垂れ下がった前髪の隙間からのぞく眉間にはうっすら皺が寄っている。普段なかなか見ることの出来ない顔なだけに写真に残しておこうかとも考えるがバレた時が怖い。好奇心と自制心。ゆらり、ゆらり、天秤は揺れる。結局、傾いたのは後者の方だった。
ギシリ。ため息一つ吐き出してベッドの縁へ腰かける。
「おい、ホームズ。今何時だと思ってるんだ?」
こちらの呼びかけに瞼が一瞬ピクッと反応を見せたものの起きる気配はない。聞こえてくるのは相も変わらず規則正しい寝息だけ。
そう言えば眠り姫はキスによって目を覚ますのだったか。ふと思い出したのはそんなおとぎ話。
ほんのり桜色を帯びた薄い唇に自然と目がいき、吸い寄せられるかように顔を近づける。互いの唇が触れ合うまであと数センチ……
「寝込みを襲うケダモノになるには少々時間が早すぎるんじゃないか?」
「なっ……」
唇が重なるより先にぶつかったのは微睡みを残したペリドットの宝石二つ。予想だにしていなかった展開。口を開くより早かったのは身体の反応だった。咄嗟に飛び退いてしまい見事にベッドから転がり落ちる。
「…っ、てて……」
「大丈夫かい?ははは、朝からずいぶんと賑やかなことだ。私としてはもう少し静かにしてもらえるとありがたいのだがね」
眠りから目覚めた男はベッドの上からくすくすと笑いをこぼし、三日月に描いた瞳を細めこちらを見下ろしていた。さながら飼い主をからかって愉しむ気紛れな猫のように。もし、彼に尻尾がついていたならご機嫌にゆらゆらと揺れていることだろう。
「……一応聞きたいんだが、いつから起きていたんだ?」
あくまで冷静に。引きつってはいるがなんとか笑みを取り繕う。ペースを乱せばこちらの負けは確実なのだから。
「いつからと言われれば、うん。キミがこの部屋に来た時からかな?」
「だったらその時点で起きてもらいたかったんだが」
前言撤回。冷静さを保とうとした自分など一瞬で吹き飛んだ。悪びれた様子もないホームズを軽く睨みつけるも、逆にけだるげな欠伸で返される。目と頭は起きていてもどうやら身体は起こす気がないらしい。そのまま二度目の睡眠を決め込もうとするホームズからシーツを取り上げれば不満げな瞳がジロリと圧をかけてくる。
「返してくれ」
「ダメだ。普通の人間ならとっくに起きて活動してる」
「私を普通の人間だと思っているのなら心外だよ、モリアーティ?」
「あなたを普通だと思ったことは一度もない。それにもう一週間も外に出てないだろう」
「それは光栄だ。別に出る必要がなかったから出ていないだけさ」
「理由になってないぞ、それ」
互いに一歩も譲らぬ攻防戦。言い換えれば不毛な争いともいえる。徐々に痛くなってくる頭。しかし一方のホームズはどこ吹く風。
「とにかく、だ!これ以上の二度寝は許さないからな!」
少しキツめの口調で言ったからか、やれやれといった感じに右手を上げ、振り払う仕草を見せたあと、ようやく起き上がってきた。同時に恨めし気な視線を投げかけられた気がしたが、それは無視してコーヒーを淹れる。
身支度を終えたらしいホームズは椅子に腰かけると手持ち無沙汰にスマホを触っていた。無表情だった顔は段々と表情をつくり始める。何が楽しいのか口元にはうっすら笑みを浮かべて。
「嬉しそうな顔をしているが、事件の依頼でも来てたのかい?」
自分と、ホームズと。二人のカップから漂うコーヒーの香ばしい香りが部屋を包み込んでいく。ホームズもその香りにつられたのだろう。いや、と短い返事のあと深く息を吸いこみ顔を上げた。
「どこかの誰かさんからのメッセージがずいぶんと多いものだと思ってね」
「!そ、それは……」
彼のいう『どこかの誰か』が自分であることなど言うまでもない。きらりと光った瞳が口ごもるこちらの反応を楽しんでいた。
「いくらメッセージを送っても全然返事がないからだろう!電話にも出ないし……心配するこっちの身にもなってくれ」
「あぁ、じゃあ今度からは気をつけるとしよう」
「……前にも同じようなやり取りをした記憶があるんだが、僕の思い違いか……?」
「ははは!気のせいということにしてくれるとありがたい!」
「おい、ホームズ――」
ぴたり。細くしなやかな人差し指が伸びてきたかと思うと唇に押し当てられた。強制的に終了させられた会話に異を唱えようにもお許しは出そうにない。仕方なく肩をすくめればイタズラっぽく小首を傾げたホームズがくすくす笑う。
「そう言えば今夜はヴァイオリンの演奏会があるんだったな。うん、久しぶりに外に出るとしよう。良かったらキミも一緒にどうだい、モリアーティ?」
「……仰せのままに。Your majesty?」