朝食後の紅茶を口にし、食堂でゆったりとくつろいでいた時だった。ふと、とらわれた奇妙な感覚。それは第六感とも虫の知らせとも言える類のもの。早くこの場から立ち去った方が良い。そう警鐘が告げたまさにその瞬間。
「モリアーティ。ちょっといい?」
背後からかけられた声に嫌な予感を抱きつつも「なんだい、マイガール」と精一杯の笑顔で振り返ったことをモリアーティは後悔することになる。
「……と、いうわけで……」
マスターの横に並んで立っているのはモリアーティもよく知る人物。いや、むしろ知りすぎているといっても過言ではないくらい。だが、いつもとは明らかに違う点が一つだけあった。見慣れた長身痩躯の身体がナーサリーやジャックたち子供サーヴァントと変わらない小さな身体になっていた。いわゆる幼児化というやつ。いつもは後ろに撫でつけられた前髪もおろされているため、見た目よりももう少しだけ幼く見える。マスター曰く、どうやら昨日の戦闘で受けたデバフが影響しているらしい。しかも厄介なことに記憶がないようでいつ戻るのかは現在解析中だが、放っておいても数時間もすれば元に戻るだろうとのこと。
「しばらくの間ホームズの面倒をお願いしますっ!」
「なんで私っ」
「だってホームズの面倒見れるのなんてダディくらいしかいないじゃん……」
罰が悪そうにマスターの少女は目を逸らす。
「それに、私はこれから周回に行かなきゃいけないから面倒みてあげられないんだ。さすがにこの身体のホームズを連れていくわけにもいかないし……私が周回から戻るまででいいから!ねっ!お願い!」
「マイガールにそこまで言われちゃうとナ~……」
パンッと両手を合わせ頭を下げる少女を前にモリアーティは困惑した表情で苦笑いをこぼす。可愛いマスターにここまで頼まれたのでは断ることはもはや不可能に近い。仕方ない、とため息を少しだけこぼし、モリアーティは肩をすくめた。
「ごめんね?すぐ戻るようにはするから」
「いやいや、構わないサ」
二人の会話に興味がないのか辺りをキョロキョロと見回しているホームズをチラッと見やればその視線に気づいたのだろう。グリーンの瞳がじっとモリアーティを見つめ返していた。記憶はないらしいので無意識なのだろうが、それが余計に居心地の悪さを感じさせた。
「じゃあ私はそろそろ行くね!あとよろしく!」
パタパタと急ぎ足で少女は食堂を後にする。残されたのは悪の老紳士と小さな名探偵。
さて、これからどうしたものかと思案しかけたモリアーティだったが、その思考は一瞬で中断された。僅かな隙を狙ってホームズが食堂の出口へと駆けだしていっている。
「あっ!おいっ……!ホームズ!お前、ちょっと待てっ……!」
モリアーティが慌てて後を追うが、障害物の多い食堂では子供であるホームズに利が効くようでサーヴァントや椅子の隙間を縫うように走り去っていきあっという間に姿が見えなくなっていた。
「っ……あの、クソガキ……!」
ホームズの後を追うように食堂を出ていったモリアーティを見た大半のサーヴァントたちは皆、やれやれと首を振れど、同情するものは誰一人としていなかった。
その後、カルデア内を走り回ること約一時間弱。ホームズとモリアーティの鬼ごっこにようやく終わりが訪れようとしていた。
「はな、せ……!」
首根っこを掴まれ暴れるホームズをモリアーティは無言のままドサリ、と自室のベッドの上へと落とした。そのまま逃げられないよう素早く片手でホームズの両手首を押さえつけて見下ろせば、その瞳がわずかに恐怖の色で揺らぐ。
「さて、お仕置きタイムの前に言い訳を聞こうじゃないか、シャーロック?」
「っ、……」
「その可愛らしい口は飾りじゃないだろう?」
モリアーティの口調はあくまで優しく、そして幼子を諭すように。しかし、ニヤリと嗤う口元から見える鋭い毒牙は今にもホームズの喉元へと噛みつかんばかりに。
じわり、じわり。モリアーティは搦めとった獲物の反応を極上のワインを味わうかのように楽しんでいた。ホームズが意を決したように口を開く。
「……あなたを、」
囁くようなか細い声ではあったが、凛とした強さも秘めた瞳をホームズはモリアーティへと向けた。
「危険な人だと判断したからだ」
そこにもう怯えの色はない。すべての犯罪を暴く明かすものとしての刃。忌々しくも美しいそれにモリアーティは目を細める。例えどんな姿になろうとこの男の本質は変わらないのだ、と。
ため息をつき、押さえつけていたホームズの両手を解放すれば意外そうなきょとんとした表情がモリアーティを見上げていた。
「はぁ~……やっぱりお前の面倒なんて引き受けるんじゃなかった」
「だったら断れば良かったじゃないか」
「うるせぇ!誰のおかげであんなに走り回る羽目になったと思ってんだヨ!」
「いたっ!」
お仕置き、と称したデコピンを食らわされたホームズは額を押さえ恨めし気にモリアーティを睨みつける。あのホームズがしかめっ面で頬を膨らませる姿など普段でも、そしてこれからも決して見ることなど出来ないだろう。弱みのネタに写真の一つでも残しておけば良かったと考えるモリアーティの思考を邪魔するかのように耳を掠めるそれまで大人しかった少年のクスクスと笑う声。
「ねぇ。まだマスターが戻ってくるまで時間があるんだろう?僕はまだ“遊び足りない”。次は何して遊んでくれるんだい?モリアーティ?」
小首を傾げ、微笑む姿は可愛らしい天使――などではなく、さながら反撃の狼煙をあげた小悪魔のごとくモリアーティの目に映ったのだった。