Sweet Strategy 深夜の食堂に一人のサーヴァントの姿があった。バレンタインも前日だというのに奇跡的に他に人の姿はなく、最低限の明かりの中、台の上へと並べられた材料に一つずつ目線を動かしている。
ジェームズ・モリアーティ。犯罪界のナポレオンとして確立した彼ではなく、まだ悪のカリスマとして道を突き進んでいる最中の若き皇帝。ただ、いつもの仰々しいマントも、装飾が多く施された服も今は身に纏っていない。それらの代わりとしてラフなTシャツ、エプロン姿とキッチンに立つにふさわしい装いへと変えられていた。
ペラリ。モリアーティは材料の傍らに置いていた本をめくり目的のページを開く。無断でキッチンを利用しているので見つかればお小言は免れないが、そんなことなど気にする素振りもなくじっくりと頭に叩き込むようにして隅から隅まで目を通す。
茶色くまあるいシンプルな形の上に金箔が飾られたチョコレートケーキの王様、ザッハトルテ。彼が今から作ろうとしているお菓子だった。
「ふむ。中々に骨の折れそうな工程だが、まぁ問題はないだろう」
一通りレシピに目を通した後、ぼそりとこぼれた独り言。モリアーティにとってはこれが初めてのお菓子作りであるため、まったく不安がないと言えば噓になる。だが、やると決めたからには完成させてみせる、そう決めていた。
『え、バレンタインなのに何もしないの?マジで?』
『ふん、悪いが私はそんな浮ついたものに興味はないのでネ』
『そっかそっか~。確かに受け取ってもらえなかったら寂しいもんネ。うんうん、分かるヨ~』
『…………』
『ま、好きにしたらいいんじゃない?私はどうしよっかナ~!』
数日前に交わされたもう一人の自分との会話。それがふと脳裏をよぎりボウルとヘラを握る手に力がこもる。決して挑発に乗せられたわけではない。ホームズに自分の実力を示すため。ただそれだけ。
余計なことは考えまいとかぶりを振り、それからは無心で黙々とお菓子作りの作業に没頭するモリアーティだった。
そしてバレンタイン当日。
前日まででも既にお祭り騒ぎのような雰囲気だったのに、当日の盛り上がりはそれまでの比ではなく、うっかりその気がなくとも雰囲気に呑み込まれそうになってしまう。ひとまず熱が収まった頃合いを見計らいモリアーティはホームズの部屋を訪れることにした。シンプルながらも丁寧にラッピングされた箱を手に持って。
「ホームズ、ちょっといいかネ」
ノックとともに声をかければ中から「どうぞ」と声が返ってきたのでそのまま部屋の中へと足を踏み入れると、なにやら実験の最中だったらしい。机の上にはビーカーやフラスコなどが無造作に並んでおり、一部はカタカタと音を立てている。モリアーティがそれらを眺めているとホームズは手を止め、肘掛け椅子の方へ腰かけるとモリアーティにも座るよう身振りを示した。
「さて、私になんの用かな?」
分かりきっているのに敢えて聞いてくる男にモリアーティは腰を下ろしながら少しだけ顔を顰めた。
今日という日と、手に持っているモノと。探偵でなくったって導き出せる答え。
だが、そこには目をつぶりゴホン、と咳ばらいを一つしてモリアーティはザッハトルテの入った箱をホームズへ差し出した。
「私からのバレンタインだヨ。ありがたく受け取りたまえ!」
「ほぉ。……開けても?」
「もちろん」
ホームズがゆっくりとラッピングを解いていく。カサカサと紙が擦れる音だけが響いているからか、いつもより大きく聞こえる気がする自分の心臓音。中身を見たホームズが顔を上げた。どこか意外そうな、それでいてうっすら警戒心すら見えるようなそんな表情をしている。
「これはキミが?」
「あぁ、そうだが?」
しばらく無言で中身を見つめていたホームズだったが、食べやすいよう八等分に切り分けられた塊を一つ手に取ると口へと運ぶ。
早まる鼓動。普段であれば問題なく抑えることの出来るそれが今のモリアーティにとっては簡単な数式を解くことよりも難しく感じてしまう。望んだ解答が返ってくるのか、と。
「普通のチョコレートケーキなんだね」
「は?」
しかし、想像していた言葉とは全く別方向の言葉にモリアーティの頭は理解が追いつかず、自分でも驚くほどのあっけにとられた声を出していた。
普通?普通ってどういうことだ?疑問符がグルグル頭の中をかけ巡る。
「いや、いつも教授が私に渡してくるチョコには色々と仕込まれてるからてっきりキミも何か仕込んでいるのかと思っていたのだが」
いやいやいや、ちょっと待て。
ここにきて一杯食わされたことに気付きもう一人の自分への怒りがモリアーティの中でふつふつと沸きあがってくるがもう遅い。拳をきつく握りしめ苛立ちを見せるモリアーティに対しホームズは不思議そうな顔で小首を傾げている。老齢の自分とのやり取りを知らないのだから当然と言えば当然なのだが。
そうだ、今はあいつのことよりも――そう思って怒りを鎮めようとした直後、
「うん、しかし悪くない甘さだ。嫌いじゃないよ」
ふわりと微笑んだホームズに今度こそモリアーティの心臓がドキンと跳ねた。滅多にみせることのないホームズのその顔にパニックカットはもちろん貫通し、気付けば老齢の自分に対する怒りもキレイに消えている。
せっかくのバレンタイン。であればその熱に当てられてしまっても仕方がないというもの。
「……良ければこのケーキに合いそうなワインがあるのだが、いかがかナ?」
「これはまた随分と熱烈なお誘いだね?」
「けれど断る理由などないだろう?」
立ち上がって一歩、二歩。ホームズの手を取り、軽く口づけを落とす。嫌がる素振りを見せないところをみるとどうやら返事は〝イエス〟らしい。そのまま流れで顔を近付け互いの唇と唇が重なるあとわずか数センチ。ぴたり、とホームズの人差し指が待ったをかけるようにモリアーティの唇へと触れる。
「んっ」
「こっちはワインの後までおあずけだよ」
「……ワガママな人だ」
「ははっ。あくまで私はキミの提案に乗っただけさ」
甘い誘惑と駆け引き。お好きな方を召し上がれ――?