未完成のトライフルカチッ、と時計の針が動く音にようやく青年は手元の本から顔を上げた。読書に夢中ですっかり時間を忘れていたが、気付けばもうすぐ六時を回ろうとしている。
「嘘だろいつの間に」
誰かに対してというわけではなくむしろ自分自身に対しての独り言。信じられないとでも言いたげに青年は時計を二度見するが、何度見たところで時計の針の位置は変わらない。
優雅な読書タイムもどうやらここで一旦終了のようだ。パタンと読みかけの本を閉じると青年は慌てて部屋を飛び出し、急ぎ早で廊下を駆けて行った。
「残念、一分の遅刻だヨ」
息を切らし勢いよく店の扉を開けた青年をニヤニヤと出迎えた男が一人。三十年後のもう一人の自分でありそしてこのBarの店主。まるでこうなることが分かっていたかのように動じずグラスを磨いている。
「はぁっ…すまない……あなたから借りた本を読み耽っていたらこんな時間になっていて……」
「面白いだろう?」
「あぁ、とっても……って本の話をするより先に着替えないとな」
シュッと落ち着く間もなく青年は学生服の姿から店主と同じバーテンダーの姿へと早変わりを遂げる。青年のそれは店主とは違い霊衣ではないものの、すぐに切替が可能なよう少しばかり改良が加えられていた。
青年がこの店でアルバイトとして働くようになって早二日。覚えが早く要領が良いのは流石というべきか。まだ二日しか経っていないのに青年はある程度のことは一人でもこなせるようになっていた。しかし“一人前”と呼ぶにはまだ早い。なのでこうして開店前に研修をしているのだが。
カラン――
そこへまだ鳴るはずではない扉の鐘が来客を告げる。
店主と青年、二人がそちらへ視線を向けるとよく見知った黒いコートを纏った男が立っていた。いつも涼しげにしている顔には疲れの色を滲ませて。
「お客様〜?まだ開店前なんですが?」
「あぁ、分かってる」
「だったら入ってくんなヨ!」
店主の厳しいツッコミに対して気にするでもなく男はツカツカと遠慮なくカウンター席まで足を進めるとドサリと腰を下ろす。長い脚を組み、パイプを咥えると深いため息と共に紫煙を吐き出した。
「なんでもいい。何か軽くもらえるかな?」
「出てけ。食堂にでも行ってこい」
「さすがにサーヴァントといえど五徹は厳しいものがある」
「話聞いてる?聞いてないネ?」
男との噛み合わない会話に苛立ちを隠せない店主。店主の殺気ももろともせず、逆に急かすような視線を向ける男。場の空気は最悪だった。
「あの、さ……」
その空気を分かった上で青年は敢えて自ら口を開く。
「良かったら僕に作らせてもらえないかい?」
青年の発言に一人は驚いた表情を。もう一人は興味深げな表情を見せた。
店内を流れた一瞬の沈黙。
けれど、そんな二人の表情を前にしてもどこか自信に満ちた青年の表情だけは崩れていない。そんな彼に男はふっ、と軽く笑みをこぼした。
「では、お願い出来るかな?」
「あぁ!」
「って、おい!」
慌てて店主が止めに入るが時すでに遅し。やる気で目を輝かせた青年に店主の声は少しばかり遠いようだ。にっこりと勝ち誇った笑みの男に先手を取られた悔しさからか店主は男を軽く睨み、大きな呆れと諦めを含んだため息をつく。
「はぁ……勝手に話進めちゃって……」
「あなたも、ここに座って待っててくれ」
「え、なんで?」
「いいから!」
自分と一緒にカウンターの内側にいた店主を外側へと連れ出し男の横へと座らせる。先程まで険悪だった空気はどこへやら。横に並んだ店主と男は互いにキョトンとして顔を見合わせ、一人、青年だけが満足そうな表情を浮かべていた。
「お待たせしました。大人のためのベリートライフルです」
コトっと二人の前に青年はグラスを置いた。
「ふむ……」
「へぇ〜」
男と店主、それぞれの口からは感心したような声が漏れる。
小ぶりな白ワイングラスの中をまるで宝石箱のように変えるサイコロ状のスポンジケーキ、純白の生クリーム、そして色鮮やかなイチゴやラズベリー、ブルーベリーたち。材料は簡単なものばかりだが、幾何学的かつ、美しく魅せるための工夫が小さなグラスの中に散りばめられていた。緻密に計算された一つ一つの配置は数学を愛する青年だからこそ出来るもの。
「トライフル、か」
「悪くないチョイスだろ?」
「あぁ、そうだね。でもなぜこれを?」
「それは……」
どこか遠慮がちに青年はチラッと店主を見やる。だが、当の本人はまったく心当たりなどないのだろう。「私?」と首を傾げ青年の先の言葉を待つ。
「以前、あなたに作ってもらったパフェがあまりに美しかったから……少しでもそれに追いつきたくてまずはこれを、と思ったんだ。つまらないものでも美しく。中々いいアイディアだと思ったんだが?」
その言葉が意外だったのか、店主は一瞬目を見開いたものの、何も言わず小さく笑みをこぼしただけだった。それでも青年には十分だったらしい。
「さ、せっかくだから見た目だけでなく味も楽しんでくれたまえ!疲れたときには甘いもの、だろ?」
「なるほど。ではお言葉に甘えて」
「いっただきま〜す」
それぞれスプーンを手に取り、トライフルを口へと運ぶ。
優しい甘みの生クリームと個性豊かな酸味と食感を楽しめる数種類のベリー。それからリキュールに漬けた一口サイズのスポンジケーキはスパイスの効いた大人の隠し味。
バラバラだった素材は口の中でゆっくり溶け合い互いを引き立てていく。しばらくは二人のスプーンがグラスに触れる音だけが静かに店内に響いていた。
「どう、かな……?」
さっきまであんなに自信たっぷりだった青年の声は明らかに不安の色へと変わっている。青年がいくら観察しても読み取れない二人の顔色が原因だろう。
美味しいはず。でも――
「やはり疲れた頭には糖分が必要だということを再認識させられたね。キミにお願いして正解だったようだ」
「!ホームズ……!」
「私としては及第点だが……さて、オーナーの評価はいかがかな?」
男のイタズラめいた視線を受けた店主は手を止め、嫌味で返すようにため息を吐いた。ゆるりとアイスブルーはグラスから青年へ。
ゴクリ。青年の喉が上下する。
「……見た目は悪くない。味は…そうだネ。もうひと工夫欲しいところではあるが――」
「…………」
「…ま、でも裏メニューとして出してみるのはアリかもネ〜!」
「ほ、本当かい…」
緊張は解け、青年の顔が一気に華やかなものへと変わる。そんな彼の表情を見て男と店主の頬が少しだけ緩んだのを彼は気付いただろうか。いや、きっと気付いてはいないだろう。けれど青年の自信に満ちた顔はそれがほんの些細なことだと証明していた。
本日、Barの開店まであと一時間――