0.
テレビのなかで、おはながさいている。
さくら、というなまえの花らしい。
大きなさくらの木のおくにアパートがあった。なぜか角のへやにブルーシートがはられていた。
きれいだねぇとナイに言うと、そうだなとクールに言われた。そして、はやくあさごはんをたべろとも。はやくたべないとさめてしまう。
きょうはだいすきなベーコンエッグだ。
テレビを見ながらたべすすめる。テレビから男の人の声がきこえる。
『続いてのニュースです。』
はんじゅくたまごがおいしい。ナイのおさらのうえはベーコンとたまごがわけられていた。一しょにたべたらおいしいのに、と思う。
テレビの人がむずかしいことをはなしている。おかあさんは、テレビを見てかなしそうなかおをした。
どうしてだろうとテレビの人のはなし声をもう一回、きいてみる。
『…容疑者は息子のニコラスくん5歳をベランダに10時間以上放置した疑いが持たれています。……』
「にこ、らす。」
テレビの中の、かん字の多いもじを見つめる。そのなかでカタカナを見つけた。カタカナは、もうよめる。
ニコラス・D・ウルフウッド。ちゃんとよめた。だけど、なんだかむねがいたい。
Dってなんだっけ、そうだ。えいごだ。なんでよめたんだろう。
おかあさんの本でみたんだっけ?ナイがおしえてくれたんだっけ?
いやちがう、おかしい。違う。なにか、忘れている。だいじなこと。
そうだ。ニコラス。
ニコラス・D・ウルフウッド。
知っている、忘れちゃいけない、大事な名前。そうだ、彼は。
『…遺体からニコラスくんは外傷が多く、虐待を受けていたとして、警察は傷害致死の疑いとして調査を進めています……』
遺体。
「うるふ、ウルフウッド。」
ニコラス・D・ウルフウッド。
彼は、あの砂の惑星で愛した男。
やっと思い出した、君もこの平和な惑星に生まれていた。
それなのに、
「あぁ、ああ、ぁあああ。」
滲む視界で兄が声をかけてくれているのが見えた。『久しぶりに』感じた兄の体温だけが、唯一の救いだった。
1.
生まれてから18回目の春が来た。
桜はまだ咲いていない。
「別に1人でも良かったのに。」
「お前が適当に決めようとするからだろ。」
隣に座る兄のナイブスが呆れたように言う。『前』では絶対に考えられない穏やかな今を未だに不思議に感じてしまう。何世紀にもわたり決別していたのだから当たり前ではあるかもしれない。
13年前。5歳の頃、とあるニュースを見て『前世』を思い出した。しかし、5歳児の小さな脳に約150年間の記憶が詰め込まれた負荷で、その後3日間高熱にうなされた。
その3日間、隣で手を握ってくれた兄は10歳の時に記憶を取り戻した。『前』では人間を忌み嫌っていた兄は、思い出した当初、荒れに荒れた。
しかし、兄がいつ思い出してもいいように気をつけていたおかげと、兄がただの人間の、10歳の子どもだったため、暴れたところで大した被害はでなかった。
その後5年は自分が人間であることを受け入れがたくいたが、人間が森林伐採や大気汚染など地球を食い潰していることへの怒りへと感情が向いたため、高校生になる頃には落ち着くようになった。
急にポイ捨てをする輩を締め上げ、ゴミの分別から清掃活動にまで力を入れ始めたために、頭でも打ったのではないかと大きな病院に連れていかれそうになったのは今思い出しても笑ってしまう。
そんなことがありながらも『前』とは考えられないくらい穏やかに、兄弟として生きている。18歳まで付かず離れず、共にいられなかった年月を埋めるように一緒にいた。
しかし、それももう終わる。
高校生活はあと2ヶ月ほどで終わり、卒業後は別々の大学へ進学する。兄は環境保全を目指すべく理系の大学へ、自分は地球の歴史を学ぶために文系の大学へ行く。
生まれ育った故郷は片田舎で大学なんてものもなく、行きたい大学は遠方であったため親元を離れ一人暮らしだ。
そして、華々しい大学生活を迎えるために、今日は下宿先を探しに来ているのだ。
「どんな部屋がいいんだ?」
「えー隙間風が入らなければいいな〜」
「…もう少し具体的なものを聞いているんだが。」
「あ、コンロは二口ほしいかも。自炊したいし。」
そんなことを言いながら電車を降りる。地元では電車なんて1時間に2本走ればいい方だったのに、降り立った駅には次から次へと電車が流れていく。
前を歩く兄の後を歩きながら、キョロキョロと周りを見渡す。
溢れんばかりの人と、見慣れない店とビル群。入試を受けに来た時にも使った駅だけれど、少し緊張していたせいかちゃんと見ていなかったことを思い出す。
もう数ヶ月したら、ここが通りなれた道になるのだろうか。想像がつかなくて不思議な気分になってしまう。
「ホームシックか?」
あまりにも周りを見て回っているからか、兄が揶揄うように聞いてきた。
「んーそうかも?」
「別にやめてもいいんだぞ」
「そこまでじゃないから!」
そんなことを話しながら歩いていくと、予約しておいた不動産屋に到着した。
よくある系列店の一つであるが、平素立ち入るような店ではないため少し緊張してしまう。
「……今日の13時に予約してた者なんですけど…」なんて言いながら入ると、中にいた店員が全員立ち上がって挨拶の言葉を述べる。圧がすごい。
すぐに手前にいた社員に、席へ通されて書類の記入を促される。
「物件のご希望はありますか?」
「二口コンロで、隙間風の入らないような部屋ですかね〜」
「それと2階以上、鉄筋で駅から10分圏内。」
「ちょっと!そんなに良いとこじゃなくていいって!」
最低限の条件を伝えると、隣の兄が口を挟んできた。それなりに鍛えている男を襲う輩はいないし、兄も自分の実力を知っているはずだが、過保護の前には関係ないらしい。
「えーっと…ご希望のお家賃はこのままで…?」
兄弟の言い合いを聞き、遠慮しながら、担当社員が今しがた自分が記入した書類を指差す。
その指差した希望家賃の欄を見て、兄がギョッと目を丸くした。
「お、まえ…家賃3万って、馬鹿なのか?」
「だって、家賃は父さんが払ってくれるって言ってくれたけど、学費もあるんだ。安いに越したことないだろ?」
「だからってあの片田舎の相場とは違うんだぞ!?」
「まあまあ。とりあえず家賃3万くらいの物件で出してもらってもいいですか?」
「はい、わかりました。」
少し、いや大分困惑したような顔をして社員がパソコンを操作し始め、次々にプリンターから物件が印刷された紙を机に広げ始める。
それを一枚一枚見ていく。
駅から遠いくらいだったらまだマシで、家賃3万は流石に無理があったと今更ながらに感じてしまう。
だが、双子を育て、あまつさえ大学進学と一人暮らしを後押ししてくれた優しい両親に負担をかけたくはない。
理想と現実の間で考え込みながら、内見にいく物件を選んでいると、一枚のコピー用紙が目に入った。
家賃3万、駅から徒歩15分。リフォーム済みの3階角部屋。二口コンロ付き。
「こ、ここ!!ここは!!?」
「ん…駅からは少し遠いが…。逆に、条件が良すぎないか?」
「ここ良いよ!内見行っても大丈夫ですか?」
「え、えぇ…大家さんに確認とってみますね。」
物件の大家宛に電話をかけるのを黙って待つ。兄は一文字も逃さないような勢いで物件資料を見つめていた。
「ありがとうございます、では今から向かわせて頂きますね。はい、失礼します。………内見大丈夫でした。他の内見希望の物件も確認取ってみますね。」
「はい、お願いします。…どう?ナイ。」
物件の粗を探していた兄に話しかける。その眉間には深いシワが寄っていた。
「これといっておかしなところがない、のが逆におかしい。大方、…」
「内見、大丈夫でした!店の前にお車寄せていますので行きましょうか。」
電話を終えた女性社員が、荷物を持ち立ち上がる。
兄が言いかけた言葉はまた後で聞こうと、自分も荷物を持ち車へ向かった。
2.
件の物件に着いたのは、店を出て2時間ほど経った後だった。一つ一つの物件が遠くに位置していたのと、兄が一件ずつ隅々まで確認したのが原因である。
その物件は、見た目は少し古さを感じるアパートだった。外壁の塗装は塗り直されたようだ。
すぐ近くには公園があるが、今は誰もいなかった。無人の公園に何か、違和感を覚える。
「ここの3階、301号室になります。エレベーターはありませんので、階段で3階まで上がることになりますが…。」
「大丈夫!鍛えてるんで!」
そんなことを話しながら幅が狭い階段を上っていく。1階や2階は満室ではないのか、あまり人が住んでいるような印象を感じなかった。
3階に到着し、廊下の奥へ進んだところにある一室が開けられた。
リフォームしたからか、新築のような香りがした。玄関は少し狭く、すぐ真隣に洗濯機置き場がある。だが、リビングはとても良い。キッチンも。
それまでの物件が酷かった分、余計に良いと感じてしまった。
「とっても良い!」
「あれだけ酷い物件ばかり見ていたから良く見えるだけだろう。」
「1年前にリフォームしたばかりで、まだ誰も住まれていないんですよ〜。お隣も今は空室になっていますので、騒音問題は大丈夫かと。」
にこりと笑って物件を紹介しているが、その笑みは少しだけ引き攣っていた。伊達に150年以上、人を見ていないのでそれくらいはわかる。
それは兄も同じだった。
「で、ここがこんなに安い理由は?」
そう聞くと、上がっていた口角がヒクリ、と動いた。そして言いにくそうに目を泳がせつつも、口を開けた。
「…事故物件、なんですよね…。」
「やっぱりか。ヴァッシュ、どうだ。人が死んだ部屋だ、気になるか?」
「え、あ、うーん…。」
この条件の良さに似合わない安値に、そうであることを考えなかったわけではない。物件を見て考えてみようというある種の楽観視をしていたからだ。
人が命を失った部屋。
人の死は、苦手だ。それは『前』から変わらない。殺し、殺されることはもちろん、自死も。病死だって少ない方がいい。
『前』と違い、自分は殺人を犯していないし犯すつもりもない。しかし、人の命は尊いものでフィクションでも殺人などはできるだけ見たくない。
そんな自分が、人の命が亡くなった場所で生活をする。
「その方は、自殺、とか病死とかですか?」
「…いえ、他殺です。」
その言葉を聞き、無意識に息を吐く。
すると、担当社員が慌てたように言葉を紡ぐ。
「で、ですがご希望通りの物件ですし、事件も10年以上前で、もうリフォームもされてますし…。」
他に条件に該当するような物件がないためか、大家に売ってくれと詰められたからか、売り文句を連ねていく。
だが、段々とヴァッシュの心は離れていっており、言葉を聞かずに両親に家賃の値上げについて謝ることを考え始めていた。
「あ、あとここのベランダからの見晴らしが良くて…花火大会が見れたりとか、もうすぐ下の公園の桜も見られますよ!ほら!」
「はぁ…。」
ここで拒否をするのも悪いと思い、担当社員に続いてベランダに出る。
幅は狭く、洗濯物を溜め込んだら干せないだろう。
指された方を見ると、確かに先ほど通った、いまだ無人の公園の入り口に大きな木がある。今はまだ枝だけだが、きっと綺麗な花を咲かすことだろう。
しかし、ヴァッシュにはこの部屋に住むことは最早、不可能であった。
どうしても、ここで生活をする中で名前も知らない殺された人のことを考えないでいられる自信がない。
そして、亡くなった人のことを抱えて生きていくことの辛さは散々味わっている。自分が関与した生死でさえ辛いのだ。そうでないものまで抱えられる自信がない。
もういいですと、言おうと振り返る。
幅の狭いベランダには室外機が置いてあるのに気づいた。そういえばエアコンが設置されていたのを思い出す。そしてその室外機の奥に何か物陰が見える。
なんだろうと、少し身を寄せた。
目を凝らしてまず最初に見えたのは枝、のような細く小さな脚だった。
「え」
視線を奥へと移していく。
脚があれば胴がある。胴があって、頭がついていた。この国に多い黒い髪が生えていた。
その顔は頬が痩けて、薄汚れていた。
小さい、男の子が四肢を投げ出し倒れていた。
心臓がバクバクと音を立てて危険を知らせている。だが、目を逸らすことはできなかった。
その小さな男の子を、ヴァッシュは知っていた。会ったことはなかったが、本能的にそれが誰であるか分かってしまった。
「うるふうっど、」
どうして気づかなかったのだろう。アパートを見て覚えた違和感。
それは無人の公園に関した疑問などではない。あの日、『前世』を思い出したあの日に見たニュースの場所と同じだったのだ。
あの日テレビで見た、大きな桜の木、ブルーシートが張られていたアパートと外観が同じだったのに。
名前を呼ばれた彼が、光を持たない瞳をギョロリと動かしてこちらを見やる。
その体は少し透けていた。
「ここに、きめます。」
何かに操られるようにして口が動いた。
歪んだ兄の顔を見て、説得するには骨が折れそうだなあと他人事のように思った。
3.
「こんにちは〜お荷物お届けにきました〜」
「はーい!」
戸を開けると次々に段ボール箱が運ばれてきた。
水道やガスの開栓、家電の搬入は午前中に済んだので後は箱の中身を開けていく。
あの内見から一月が経って、ついに引っ越し当日となった。
この部屋に引越すことは兄から反対され続けたが、自分の頑固さはよく知っているからか、最後には折れてくれた。
兄も今頃は引っ越し荷物を開けている頃だろう。
ひとまず生活に必要になるものだけ開けていき、整理していく。備え付けの棚は大きいものではなかったが、ヴァッシュ自身それほど物を持つ人間ではないため事足りた。
必需品のみを開けていたつもりだったが、窓の外には夕日が見えている。
夕方でも外は明るかった。それほどまでに街灯がきちんと照っていた。生まれ育ったあの片田舎とは違う夕暮れにセンチメンタルが襲ってくる。
そんなことを考えながら、ヴァッシュはベランダから目を背けていた。
あそこには、何もなかった。
不動産屋から鍵をもらい、足早にアパートへ向かい、靴を脱ぐ時間も惜しいように部屋を駆け抜けベランダに入ったのは数時間前のことだ。
期待半分、恐怖半分でベランダを除いてみても彼はいなかった。
内見から帰って物件について調べてみた。やはり、というかこの部屋は彼が住んでいた部屋で、このベランダで亡くなっていた。
だからあの日みたあの少年は、彼のはずだった。彼の幻覚か、幽霊なのだ。
この部屋に卒業するまでの間住んでみたら、もう一度会えるだろうか。期待していた分、身体の中から気力が抜けていく気分であった。
漠然とそんなことを考えながらキッチンに向かい、鍋に水を入れた。
一日働いて空腹を訴えていたのだ。彼に会えなくたって、時間は進む。自分の生活はどんどん進んでいってしまうのだ。
ごとくに鍋を置き、ガスのつまみを押して回す。
しかし、ガスはつかない。ガスの開栓時に使えることは確認していたはずなのに。
はて、と思い開栓時に渡された業者の連絡先に電話をかけてみるも、ツー、という発信音のまま繋がることがなかった。
何かがおかしい。
初めての一人暮らしの、初めて迎える夜に起こったハプニングはヴァッシュの心を揺らすには充分すぎるものだった。
ため息をつきそうになったところで、今度はリビングの電気が消えた。ため息をつく気力さえなくなる。
「ツイてないなぁ、」
暗闇に包まれた部屋で一人座り込む。
古い家だ。リフォームしても配管か何かがおかしくなっていたのかもしれない。バイトをして金を貯めて、もう少し良いところに引っ越そう。
ここには、留まる理由なんてない。
彼はいなかった。
彼は10年も前にここで死んで、自分は会うことが叶わなかっただけだった。
そうやって、すぐに諦められたらよかった。
「君に、会いたかったよ。…ウルフウッド。」
幻覚でも幽霊でも構わなかった。
ヴァッシュはただ、ウルフウッドにもう一度会いたかった。会って話したいことがたくさんあったのだ。
「呼んだ?」
「え、?」
知らない声が聞こえた、気がした。
ヴァッシュの狼狽に呼応するように窓枠が震えた。風の音は聞こえなかったのに。
次いで、消えていたはずの電気が明滅し、組み立てたばかりの棚やベッドがガタガタと音を立てて揺れる。
揺れは感じないが、地震かと思い、携帯で調べてみようと画面を付けるも圏外の表示が現れた。
いくら何でもおかしい、何かが起こっている。先ほどの声も、この異常事態も。何もかもおかしい。
ひとまず、地震であればブレーカーがついたままでは危ないと、立ち上がったところで窓枠が立てていた音が変わる。
ガタガタと鳴っていたはずのそれは、トントンと何か叩きつけるような音がしていた。無作為に何かが当たる音ではない。リズムを刻み人為的なもののように聞こえる。
トントン
トントントン
「開けて。」
今度は聞き逃さなかった。
子どもの声。ソプラノが効いているが、男の子の声だとわかる。
窓枠の向こう、ベランダから男の子の声が聞こえるのだ。
トントントン
「開けて、ください。さむい、おなかすいた。」
ヴァッシュが金縛りにあったように動けずにいられる間も声は止まなかった。
それどころか、窓を叩く音が引っ掻くような音に変わっていった。
「おねがいします。ゆるしてください。さむい、しんじゃう。」
泣き交じりの声が鼓膜を揺らす。
警鐘を鳴らす心臓の音は聞こえないふりをした。
一歩一歩ベランダに近づく。部屋は狭いはずなのにいつまでも辿り着かないような気がする。
鍵を開け、戸に手をかけた。
「なあ、飯まだか?」
明滅を繰り返していた明かりが、パッと元の光を取り戻す。
真っ白な頭でも、その訛りが探していたものだとわかる。
振り返る。目の前にはなにもなかった。
否、目線を下すと、真っ黒の頭が見えた。髪の間から覗く眼光がジロリと光る。
小さい子どもだったが、間違えるはずがなかった。10年、それよりもずっと前から、世界を越えてもずっと会いたかった男。
その男が今起きましたとでも言いたそうな眠気交じりの顔をして立っていた。
「ウルフウッド」
「なんや」
名前を呼べば返事がくる。
当たり前のそれがヴァッシュの心に空いた隙間を埋めた。
「ウルフウッド?ほんとに?」
「そうや言っとるやろうが。」
「いる、ちゃんといる。」
「死んどるけどな。」
ウルフウッドはあっけらかんと言った。
「親に殴られて外出されて、寒いわ腹減ったわ思っとるうちにお陀仏や。」
「…そう、そっか。ごめ…」
「やから腹減っとるんや、なんか食わせろ。」
「……え?」
斜め上からの要望に、あぁそういえば第一声でも食事を求めていたなと思い出した。
先ほどまで張っていた気が身体中からしゅるしゅると抜けていくのを感じた。
「…パスタでいい?」
「おん。」
*****
ガスコンロのつまみを回す。
当たり前のように火がついた。先ほどまでつかなかったのが嘘のようだ。
引越し前に買っておいたパスタとパスタソースを棚から出して、ウルフウッドに味を選ばせる。
腹が減っていると言っていたから喜んで選ぶと思っていたのに、その眉間には皺が寄っていた。
「どうした?」
「字が読めん。」
「あー、そっか。」
『以前』いた世界とは、二人が生まれた国とは文化圏が違いすぎた。ヴァッシュも記憶を取り戻した当初は馴染むのに時間を要した。
「これがミートソース、こっちがカルボナーラで、たらこと和風きのこ。ミートソースは前に食べてたのとよく似てるかな。」
ひとつひとつパッケージを指して教えてやると、幼いまん丸の目が指先をなぞっていく。
「じゃあそれ。」
「わかった。」
子どもの体の彼がどれくらい食べるかなんて予想がつかないので、ひとまず二束のパスタとパスタソースを取り、使わないものをしまった。
「ねぇ、君ってさ幽霊ってやつなの?」
ヴァッシュは自分の声が震えていることに気づいた。だが、どうして震えているかは分からなかった。
「なんや怖いんか?……まあ実際、ワイもわからん。外で意識飛ばして、騒がしい思って起きたらオンドレがおった。」
「…そうなんだ。」
「トンガリこそオレのことようわかったな。」
「あー、5歳くらいの時に前のこと思い出してさ。なんとなく、そうかなって。」
彼が死んだニュースを見たからとは言わなかった。
「ふーん、オレはぎりぎり最後に思い出した。でも生きとる間に思い出せてよかったわ。じゃないとお前のこと呪っとったかもな。」
「なにそれジョーク?」
「さあな。…あ、沸いたで。」
鍋を覗くとぐつぐつと湯が煮えたぎっていた。
傍に置いていたパスタソースの裏を覗く。レンジで温めるか、湯煎しなければならないものだった。
面倒だが、中身だけ皿に出して麺を茹でている間に温めるしかない。
「どうしたんや?」
キッチンの台にぎりぎり届くほどの身長のウルフウッドが覗いていた。
「中身温めなきゃいけないらしくてさ。」
「ほな麺と一緒に茹でたらええんちゃうか?」
何でもないような顔して言う彼に、衛生面の話をしようとしたが口を閉じた。ヴァッシュも空腹だったからだ。効率よく飯にありつきたいという本能的な欲求には勝てなかった。
かくして、調理時間10分の料理が出来上がった。
引越し立てで不揃いの皿しかなかったので、大皿に盛って取り皿を出した。ウルフウッドのものは小さめの皿にしておいた。
「じゃあ、食べようか。」
「いただきますー。」
ヴァッシュは調理しながら、幽霊が食事をすることができるのかという疑問が何度かよぎっていた。しかし、腹を空かせているという訴えを無碍にできずそのまま作っていた。
そんな心配は至って不用であった。
ウルフウッドはフォークを手に取ったかと思うと、大量の麺を巻き取っていった。
そしてそのまま口いっぱいに頬張り貪り食った。取り皿に盛っていた分はすぐになくなっていった。
次の手が伸びたところでようやくヴァッシュもフォークを手に取った。
負けじと自分の分を確保しようとするのが、『前』と同じで懐かしく感じた。
また彼と食卓を囲めた。
それは、それまでのヴァッシュの焦燥感や困惑を全て流すことに足り得るものだった。
「なに耽っとるんや?」
「何でもないよ。」
「ほな、おかわりくれんか。」
「え?」
大皿の上には一本も残っていなかった。彼の皿にも、そしてなぜか自分の皿にも。
「なんで!?僕のは!?」
「お前食う気なさそうやったから代わりに食ぅたった。」
悪気がなさそうにいう彼の口周りにはたくさんのソースがついていた。大人の体だったなら笑い飛ばしていたかもしれないが、子どもの姿の彼はどうにも可愛く見えた。
ティッシュを取って、彼の口元を拭おうと手を伸ばす。
手は、彼を捉えることはなかった。
目の前にいるはずなのに、手は彼の顔を貫通した。
「なにしとるんや?」
彼の顔は、自分の手が邪魔で見えなかった。どんな顔をしていたのかヴァッシュには知ることができなかった。
「触れんよ。死んどるんやから。」
手を下ろす。幼い顔で、ヴァッシュが知らなかったその顔で微笑む。
年齢に沿う無邪気なものではなく、悪いことを考えたような笑みだった。
「まあ、しばらくの間世話になるからヨロシクな?」
その日、一人暮らしを始めるつもりが幽霊との奇妙な共同生活が始まることになった。