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    NAGISA

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    NAGISA

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    年上ジェ×19歳大学生トの現パロジェイトレの起の部分
    6月に本になって欲しい。進捗はいまいちです!

    恋する凡人***

     春の夜は湿っぽくて苦手だ。空気も小さな虫のようにさわさわと騒がしくて落ち着きがない。この世界で自分ひとりだけが停滞しているのだと、そんなくだらない錯覚をしてしまう。
     弱々しい照明がまばらに灯った駐輪場に背を向け、飲食店のネオンが眩い駅前の本通りへ愛車を押しつつ向かう。バイトの疲れが詰まったせいか行きよりも重い気がするリュックを背負い直し、さて家路へ漕ぎ出すかと視線を上げたところで厄介な光景を目にしてしまった。
     ――本通りとの対比で更に暗く見える裏路地で、力なくしゃがみ込む男性とそれを囲む見るからにやんちゃなそうな男がふたり。
     深く俯いた男性の表情までは分からない。しかし、かっちりしたスーツと磨き上げられた革靴を身に着けた彼と、お世辞にもガラが良いとは言えないふたり組が親しい間柄には思えなかった。酔い潰れた人間の介抱をしているなら履き潰したスニーカーの先で肩を小突いたりはしないだろうし、脇に置かれた男性の所持品らしいビジネスバッグを漁ったりもしないはずだった。
     ――最悪だ。とても嫌なものを見てしまった。
     警察に……いや、ここからなら駅の方が近い。とりあえず駅員さんに相談するか。そろそろとその光景から遠ざかろうとしたところで、一際浮かれて下卑た声が耳を貫く。反射的に振り返ると無理に袖をたくし上げられたのだろう白い腕がよく見えた。男性が身に着けた高級そうな腕時計が、わずかな光を集めてきらりと輝く。
     ――駄目だ、今から助けを呼んで来るのではきっと間に合わない。
    「……兄ちゃん!」
     胡乱な視線が二対、ぎょろりとこちらを向いたのが薄暗闇でもよく分かった。咄嗟に口をついて出た言葉に自分でもぎょっとしたのだが、当然もう取り消せない。見知らぬ男性の弟の振りを続けるしかなかった。
    「……まったく、探したぞ! 『駅まで迎えに来てくれ』って言うならちゃんと分かりやすい所に居てくれないと困るだろ。電話にも全然出てくれないから、さっき駅前のお巡りさんにも聞いちゃったよ」
     ゆっくりと近づきながら、わざとらしいくらいの大声で話しかける。ぐったりした男性の蔦意識を取り戻すためではなく、やんちゃなふたり組を追い払うためだけに打った下手な芝居だった。
     無抵抗ではない目撃者が現れたこと。その目撃者には逃走手段があり、右手にロック解除済みのスマホを持っていること。これは単なるブラフだが、近くに巡回中の警察官が居ること……。
     すぐさまこの場を逃げ出すのでも、白々しく介抱していた振りをするのでも、この際どちらでも良い。安易な金儲けの芽が潰えたのだと理解してくれれば、もうなんでも。このふたりがどうか少しは頭の回る奴らで無益な喧嘩を売ってきませんように、と祈りながら歩を進める。
    「……なんだァ? てめェ。こいつの身内か?」
    「こんな所で蹲りやがってジャマなんだよ。迷惑料を寄越しな!」
     ――あ、これ駄目だ。まずいぞ、こいつら俺が思っていたよりずいぶんアレだ。
     無駄に勇敢なふたり組は無抵抗な男性から俺へとターゲットを移したらしく、怒鳴りながらどんどんとこちらとの距離を詰めてくる。ぐ、と自転車のハンドルバーを強く握った。
     ここは俺のアパートの最寄り駅だから、夜でもそれなりに土地勘はある。順調に漕げば自転車に乗るこちらの方が速度だって出るだろう。きっと逃げおおせるはずだ。……しかし、Uターンをする分のタイムロスが出てしまうこと、これから向かう先は更に奥まって人気のない路地のため『万が一俺が奴らに捕まった場合、きっと誰も助けに来ない』という後ろ向きな考えが手のひらをじわりと湿らせた。
     それでも、もうやるしかない。せめて俺が逃げている間に、善良な誰かが男性を保護してくれるといいが。
     そう覚悟を決めてスニーカーを強く踏みしめた瞬間、突然ふたり組に影が差した。――奴らの背後に何者かが、いつの間にか音もなく立っている。
     かなりの長身、そしてきつい逆光のせいで全身が黒々としたその姿はとてもこの世のものとは思えず『持ち主のいない影が勝手に動き出した』なんて、まるで非現実的な思考が頭を過ぎった。
    「……ふふ、」
     この場に不似合いの柔らかな声が路地に落ち、驚いたふたり組が振り向いたときにはもう手遅れだった。長い脚と腕が鞭のようにしなったかと思うと、それぞれを悲鳴をあげる隙も許さずに打ちのめす。鈍い音と共に薄汚れたアスファルトに崩れ落ちたふたりは、もうピクリとも動かなかった。
     じゃり、と足元の小石を踏み躙った男がそのままこちらに向かって歩み寄る。まるで肩の埃を払うような気軽さで暴力を振るってみせた男が、先程まで道端で力なく蹲っていた男と同一人物だと理解するには少々の時間が必要だった。
    「……あなた、僕を庇ってくれたんですね。ありがとうございます」
    「は、」
     至極穏やかで優しげな口調だったというのに、得体の知れない男に話しかけられた恐怖で肩が揺れる。『早く逃げろ! あいつらよりもこの男の方が遥かに恐ろしい生き物だ!』となけなしの本能と人生経験が告げていたが、足が凍ったように動かなかった。縋るように握り続けたハンドルのゴムが不快な熱を持っているのに対し、指先はすっかり冷えて固まっている。浅い呼吸だけをわずかに返した俺をどう思ったのか、こちらを覗き込んだ顔が痛ましそうに眉を顰めた。
     白磁のように透明感のある肌、すっと通って高い鼻筋、左右で異なる輝きを放つ涼しげな瞳、そして下がった眉とは反対に釣り上がり鋭く白い歯を零す唇。男がぞっとするほど美しい顔をしていることに、この段になって初めて気が付く。
    「おやおや。……そうですよね、きっととても怖かったですよね。この辺りは治安が良い所だと思っていたのに、まさかあんなごろつきの方達がいるなんて。……ああ、そうだ」
     にこりと笑みを浮かべた男の手がハンドルをきつく握りしめたままの手に重なった。棒立ちしたまま動けない俺の耳に吹き込むように、男がそっと囁く。
    「気持ちが落ち着くまで僕の部屋で休んでいきませんか。すぐそこなんです。……あなたに助けて頂いたお礼もしたいので」
     強張った手の甲に浮き出た薄青い血管を、長い指が品定めするようにゆっくりとなぞった。

    ***

    「……あの〜、あのね? トレイくん。オレは『こないだの休みどうだった〜?』って聞いただけじゃん? なのになんで急に怖い話すんの?」
    「これが、こないだの休みの話だからだ」
    「ウソでしょ……」
     普段はにこやかな頬を引き攣らせたケイトを見て、あの出来事からずっともやもやしていた胸の溜飲が少しだけ下がった。気分良く学食の醤油チャーハンを口に頬張る。提供が早く、財布にも優しく、そして美味い。最高だった。いっしょに付いてきた具の少ないスープも好きだ。とろみがあって美味い。
     昼食をもりもりと食べ進める俺の様子を見たケイトは『完全にホラーの語り口だったけど、さっきの話はそれほど深刻なものじゃないみたい。だってこいつ今ピンピンしてるし』と、とりあえず結論づけたらしい。
    「じゃあ、その話は怖くてあんまり掘り下げたくないから、けーくん話変えま〜す! ……トレイくんさ、前にバイト掛け持ちしようかなって言ってたじゃん。どこか良いとこ見つかった?」
    「……」
     すっかり気を取り直した様子のケイトが当たり障りのない話題を場繋ぎに置いて、湯気を立てたラーメン鉢に向き直る。真っ赤なスープがよく絡んだ麺を美味そうに啜る親友を眺めながら、なんと答えたものかとしばし悩んだ。……あの辛そうなスープで噎せでもしたら、いくらケイトが大の辛いもの好きとはいえ、きっと地獄の痛みだろう。
    「……バイト先は見つかったよ。けど、良いバイト先かは微妙なところだ」
    「え〜、なにそれ。忙しそうなの? それとも時給が安め?」
    「いや。働くのは金曜日だけ、それも一回三時間だけでいいみたいだ。始まる時間は遅めだけど、翌日に授業もないし今のバイト終わりにそのまま寄れて都合がいい。場所も最寄り駅の近くだから終わったらそのまま自転車で帰れる。報酬はその……日給で、」
     がやがやと騒がしく健全な昼時の食堂の空気に相応しくない気がして、小さな声でごにょごにょとその破格過ぎる報酬額を伝えると……すっかり目を据わらせたケイトが静かに箸を置いた。
    「……あのさ。それ、詳しい仕事内容は?」
    「ええと、その……すごくざっくりと言うと、雇い主の部屋を訪ねて時間いっぱい仲良くお喋りとかをする……」
    「……。トレイ、」
     言いたいことがあるのも、その内容も分かっているからとても気まずい。緑色の厳しい視線からすばやく目を逸らした。
    「ケイト、早く食べないとせっかくのラーメンが伸びるぞ」
    「話を逸らさないで。……こいつ、ほんっと信じらんない。いくら手っ取り早いからってママ活始めやがったよ」
     脱力して天を仰いでしまった友人の信頼を取り戻すべく、自分でも苦しいと分かっている言い訳を重ねる。
    「人聞きが悪いな、そういうのじゃない。雇い主は男だし、その人の部屋まで行ってちょっと趣味の手伝いをするだけだよ」
    「より性質悪いじゃん! どうせヌード写真とか絵のモデルでしょ。それともオイルマッサージ?」
    「まさか、服は脱がない約束だ。……部屋に着いたら、まずシャワーを浴びることにはなってるけど」
     あんぐりと開いたケイトの口から、俺も密かに気に入っている白い八重歯がよく見えた。どうしても歯並びというと画一的な形を理想としがちだけれど、ユニークな八重歯だって魅力的だと俺は常々考えている。笑顔のときにちらりと覗くのが特に好ましい。ただ、その性質上どうしても他の歯より手入れに手間が……すまない、ただの現実逃避だ。
    「ハァ〜? ……もうやだこいつ、賢いのにバカなんだから。事前にシャワーを浴びなきゃいけない趣味の手伝いってなに? そんなのお喋りだけで済むわけないでしょ、絶対いかがわしいやつじゃん!」
    「違うんだよ、ケイト。……その、実はそいつは……」
     生々しい報酬額を口にした時よりも更に抑えた声で、雇い主の一風変わった趣味を説明した。呆然として、瞳と口がまんまるになったケイトとしばしの間見つめ合う。かすかに震えた唇が次に発するだろう言葉を、もう大体予想できていた。
    「……へ、へん、」 
    「変態だ、とは俺も思う。すごく変わった趣味だ。そこは否定出来ないし、きっと本人も否定しないだろう。……だけど、内々で発散しようとしているだけまだ無害な方じゃないか?」
     ケイトはどうしてか、目の前の俺のことも変人を見る目で眺めた。親友との心の距離が開いていくのをひしひしと感じる。
    「……トレイくんってさ、事なかれ主義のくせしてトラブルの中でなきゃ息出来ないの? も〜、これならさっきの話の方がまだ平和だったじゃん!」
     大きく息を吐いたケイトがまた箸を持つ。「絶対やめときなよ、そんなバイト。その種の変態ってどんどんエスカレートしていくんだからね!」と恐ろしいことを言いつつラーメンを再び啜り始めた友人を宥めながら『ケイト、残念だけどさっきの男と怪しいバイトの話はほとんど繋がってるんだよ。なにせそいつが雇い主だ』と告げるタイミングにまた悩んだ。

    ***

     さて、問題の金曜日になってしまった。約束通りの夜十時――その十五分前に単身者向けらしいマンスリーマンションの前に立つ。永遠にも思えるたっぷり五分間の逡巡のあと、半ばやけくそでチャイムを鳴らすとあっさりと目の前の扉が開かれた。
    「ああ、トレイさん。お待ちしておりました」
    「……。ジェイドさん、今日はよろしくお願いします」
    「そんな他人行儀な、どうぞジェイドとお呼びください。敬語もなしのお約束ですよ」
     正真正銘の他人だろう。そう思いながらも「わかった。今日はよろしくな、ジェイド」と素直に返事を改める。目の前の男が分かりやすく顔を綻ばせた。
     そういえばこいつも特徴的な歯の持ち主だったな、と思考を心休まる所へしばし避難させる。あの薄暗い路地でジェイドが見せたのは、歯というよりも牙と呼ぶのが相応しい歯列だった。上品で控えめな笑みを浮かべている今は確認できないし、あのときの笑顔は肉食動物のように獰猛だったのでまた見せてもらおうとも思えないが。
     甲斐甲斐しく俺からリュックを受け取った長身が、すんすんと俺の髪に鼻を寄せた。
    「……ふふ、ポテトの匂いがします。今日もアルバイトだったんですね。お疲れ様でした、スマイルはたくさん売れましたか?」
    「……ぼちぼちだよ。ところでジェイド、早速で悪いけどシャワーを借りたいんだが」
     言外に『油臭い』と言われているようで落ち着かない。さり気なく距離をとって返事をした俺の肩を、眉を下げたジェイドが柔らかく抱き寄せた。
    「ああ、そんな。誤解なさらないで、美味しい匂いで僕は好きですよ。あなたに助けて頂いた夜を思い出します」
     高い鼻梁が懲りずに揚げた芋の匂いを探ろうとしているのが分かったので、慌てて身を離す。
    「いいから、早く風呂場に案内してくれ。約束の時間になったら俺はさっさと帰るからな。……大事なラストノートとやらが嗅げなくても知らないぞ」
    「おやおや、それは困りますね。ではどうぞ、トレイさん。バスルームはこちらです」
     年下の小僧に悪態をつかれることの何がそんなに嬉しいのか、ジェイドはより笑顔を深めて俺を案内した。あと少しで美しく尖った歯が見えそうだった。顔が整い過ぎているせいで何をしていても常に胡散臭いなこいつ、と八つ当たりのような感想を抱く。
     あの夜にも通った真新しいフローリングの廊下を進み、しかし前回よりも手前の扉に案内される。小綺麗で機能的なバスルームに通され、ふかふかのバスタオルと白が眩しいバスローブ――バスローブ! 映画の中でしかお目にかかったことがない――を手渡され「ではごゆっくり」と微笑んだジェイドが静かに扉を閉める。その場にひとり残されて初めて、やっとひっそりと息をつくことが出来た。
     自宅でも友人の部屋でもましてや宿泊施設でもない、扉を隔てたすぐそこに赤の他人が居る場所でこれから裸になる――。
     味わったことのない種類の心許なさを振り切るように勢いよく服を脱ぎ、初めましてのバスローブの上に大切な眼鏡を置く。俺に負けず劣らず居心地の悪そうな相棒を置き去りに浴室にずかずかと踏み入って、シャワーのコックを勢い任せにひねった。頭上から降り注ぐ冷水が地肌を伝って鼻先を濡らすのがひどく鬱陶しい。ひとつ大きくため息を吐き、ぬるくなってきたシャワーを止めてシャンプーボトルと思わしき物体に手を伸ばした。
     ……ここまで来ておいて、今更ぐだぐだと悩んでも仕方がない。あの男の口車に乗せられたとはいえ、最後に『やる』と返事をしたのは間違いなく自分なのだから。
     

    『俺は何もしてません』『むしろあなたに助けられた側です』『ありがとうございました。ではこれで』『本当にお気遣いなく』『俺はもう家に帰らないと!』『あの、話聞いてますか?』
     どれだけ声を掛けても、背筋の伸びた長身がこちらを振り返ることはない。俺から自然な仕草で愛車のハンドルを奪い『ではご案内しますね』と夜道を先行する男に、こちらの意図を汲む気はさらさらないようだった。
     あれよあれよと言う間に駅から近いマンションの部屋に連れ込まれ、薫り高い紅茶でもてなされ、革張りのラブソファ――男は迷いなく俺の隣に座った――で縮こまっているうちに、怪しい男の身の上話を聞く羽目になり……気が付けば、こちらからもぽつぽつと話をしてしまっていた。
     会話の主導権を巧みに握った男はジェイド・リーチと名乗り、自らをしがない会社員と称したが……絶対に嘘だ。どう見ても裏社会の人間に決まっている。
     『仕事のためにひとり淋しくこちらに越してきた』と眉を下げていたから、その部分だけを信じるのであれば標的を狙っている最中の殺し屋なのだと思う。見るからにそんな感じだ。
     殺し屋はターゲットを黙らせるのが主な仕事のはずだが、ジェイドは口が上手いだけでなく大変な聞き上手だった。俺が当たり前に警戒する個人情報には直接触れず、なんでもないような雑談にさり気なく質問を織り込ませて情報を次々に引き出していく。
     そのため気の進まない自己紹介は名前を明かすだけの最低限では済まされず、美味しい紅茶に顔を綻ばせたばかりに出身地が、最寄り駅の話題から俺もこの近くに住んでいることが、『トレイさんって、すごく大人っぽい方ですね』というみえみえのお世辞に引っ掛かってしまったことから年齢と学生の身分であることがバレた。不自然なほど心地が良い会話に身を委ねているうちに、この男に何を隠すべきなのかも次第に曖昧になっていく。
    「……おや。では、トレイさんは新しいアルバイトを探していらっしゃるんですね」
    「いえ、新しくというか……掛け持ちを考えているんです。学年が上がって研究室に配属される前にもう少し、」
    『金を稼いでおきたくて』という言葉は流石に俗物的すぎる気がして言い淀む。そもそもが出会ったばかりの、しかも推定裏社会の人間に話すべき内容ではないと思い至るのがあまりに遅れた。

    「それでしたら、僕のところで働きませんか」 
     
     それまで和やかだった空間に、鈍く光る刃物が持ち出されたような緊張が走った。油断しきっていた肩がびくりと揺れる。
    「トレイさんならお人柄の良さも分かっているので安心ですね。……ああ、良かった! ずっと相応しい方を探していたんです」
     さも『話は決まった』とばかりにはしゃぐ隣のジェイドには悪いが、もちろん引き受けるわけがない。怪しい男の身なりがいくら良くても……いや良いからこそ、仕事内容の不穏さが増す。辞退の意思を示すべく、恐る恐る口を開いた。
    「……ジェイドさん。折角のお話ですが俺は、」
    「ご安心を、お願いしたいのは未経験の方でも出来るとても簡単な仕事です。……ですが、どなたでも良いわけではありません」
     僕は、あなただからお願いするんです。
     そう囁く声は響きこそ優しく甘いものの、俺が口にしようとした断りの言葉を明確に遮って牽制した。ソファの上、拳三つ分ほど空いていたはずの距離が膝同士が触れ合うほどに詰められる。
    「仕事内容をお伝えする前に、報酬の話をするのは少々下品かもしれませんが……」
     勿体ぶった前置きのあと、耳に吹き込まれた報酬額とこそばゆい吐息の両方に首筋が粟立つ。あまりに破格な金額に思わずジェイドの涼しい顔を凝視してしまった。にこり、と胡散臭い笑顔に迎えられる。
    「ね、悪くはないでしょう?」
    「……」
     報酬だけに目を向けるなら、悪くないどころの話ではない。……その他すべてに見て見ぬ振りするならな!
    「お断りします。絶対にやりません。俺はもう帰ります」
    「おやおや」
     ソファから立ち上がりかけた体を横から押され、柔らかい座面に尻餅をつく形で重心が崩れた。慌てて起き上がろうとする俺に細身だが上背のある男がすかさず覆い被さる。
     ジェイドが見た目通りのやわな優男ではないことを、俺はすでにあの路地で思い知っていた。見上げた先、釣り上がった唇から零れた歯の美しさに思わず見惚れそうになるのもこれで二度目だ。
    「トレイさん、もしや報酬にご不満が? では、おいくらなら引き受けてくださいますか」
     考えの浅い若造程度なら容易に意のままに出来ると思っているのだろう。余裕の笑顔を浮かべたままの男が憎たらしい。ソファに縫い留めようとする腕を掴み、下っ腹に力を込めて美しい顔を睨みつけた。
    「……ジェイド。俺はいくら簡単に金が稼げても、故郷の家族が悲しむようなことはしたくない。絶対にしない」
    「……。おやまあ、なんと……」
     こちらを見下ろすジェイドが色違いの瞳を大きく見開く。恐ろしいほど整った顔がほんの少しだけ幼く見えた。
     オリーブとゴールドの奥できらめいた感情の正体を見極める前に、ジェイドが勢いよく胸に飛び込んできたので呼吸が詰まる。ついで背中に回された親しげな腕の感触にしばし硬直した。――よく分からない男に抱きしめられている。我に返って抜け出そうと藻掻いても、俺を抱き締めるジェイドの力は強くびくともしなかった。
    「っは、離せよ、離せ!」
    「……。……すみません、つい嬉しくなってしまって」
     くぐもった声で謝罪らしき言葉が一応返ってきたものの、俺の理解の範疇を超えた男が離れていくことはなかった。それどころか、ぴたりと寄せられた鼻が首筋の匂いを探っている気配があって体の芯から震え上がる。もういやだ、なんなんだこいつ。
    「……ねえ、トレイさん。落ち着いて聞いてください。仮に、あくまでも仮定の話ですが……もし、僕が悪い大人で悪いお願いごとを誰かにするとしたら、僕はあなたではなくあのふたり組を選ぶと思います。だって、彼らの方がすんなりと引き受けてくれそうじゃありません?」
     共通の友人についての話をしているわけじゃあるまいし、同意を求められてもなんとも答えようがない。どちらにせよ、あのふたりを拾ってきて今更『お願いごと』をするのが無理だということは分かる。ジェイドが思いきり殴り倒してしまった後だからだ。
    「……それなら一体、俺に何をさせようって言うんだ」
    「僕の、ほんの些細な趣味の手伝いを」
    「趣味?」
     やっと俺から身を離したジェイドはどうしてか、ほんのりと頬を染めてこちらを見ていた。

    「香水です。……とても良い匂いのするあなたに、僕が選んだ香水を身に付けて欲しいのです」

     やや興奮気味のジェイド曰く、香水は時間の経過と共に変化する香りを楽しむものなのだそうだ。
     付けたては印象的で際立ったトップノートが軽やかに香り、香水の心臓部とも言えるミドルノートが淑やかな花嫁のべールをめくるようにふくよかに漂い、やがて肌の匂いと溶け合うような濃厚なラストノートへと移り変わっていく……らしい。
     ジェイドは長々と香水の魅力について語ってくれたのだが、教え甲斐のない生徒で申し訳ない。俺にとってはソファに組み敷かれたままの体勢の方がよっぽど重要で、内容がほとんど頭に残らなかった。
     要するに「プシュッと付けてハイ終わり」という単純なものではないのだと、目の前の美丈夫は熱を込めて俺に訴えかけていた。
    「……。まずは普通に、ご自分で付けてみたらどうですか」
    「おや、トレイさんたらまた敬語に。……それが僕は仕事柄、強い香りを身に付けるのはご法度なんです。休日にしか楽しめず、折角のコレクションの大半が埃を被っているのが現状でして」
     へえ、裏社会って意外と厳しいな。香水とタバコの匂いをぷんぷんさせて、開襟のシャツから金の鎖をじゃらじゃらさせているイメージだったけど。
    「……それなら、雑貨屋とかに置かれてる瓶に棒が突っ込まれたお洒落なやつは? 部屋であれを使ったらどうだ」
    「瓶に棒……? ふ、あはは。トレイさんが仰っているのはきっと、リードディフューザーのことですね。……ふふ、そうですね。確かにそうやって香りを楽しむ方もいます」
     インテリアに対する知識と興味のなさを晒してしまったのは痛手だったが……くすくすと笑うジェイドがこちらの言葉に一定の同意を示し、俺の上から身を起こしてくれたのは幸いだった。笑顔で差し出された白い手を断り切れず、渋々助けを借りて上体を起こす。
    「……でもね、トレイさん。やはり香水はヒトの生きた肌に乗せてこそ、なんです」
     熱の籠もったその声色にぎくりとして身を引いたが、ジェイドの手はびくともしない。爪先まで整った美しい手に、何の変哲もない自分の手指が艶かしく絡め取られていく光景は悪い冗談そのものだった。
    「……香水は調香師によって緻密に調合されますが、実際の香り方は付けるヒトによって異なります。トレイさん、それが何故かお分かりになりますか? ――肌の匂いが違うのですよ」
     顔を近づけてきたジェイドにすん、とまた首筋の匂いを嗅がれて身が竦んだ。
     ――父さん、母さん。
     心の中で故郷の両親に呼びかける。進学のために地元を離れ、より都会であるこの街で暮らし始めて一年ほど経ったが……今初めて強烈なホームシックに襲われていた。地元にだって話の通じない奴や変な人は居たけれど、都会の変態は切れ味が違う!
    「確かにディフューザーやムエットを使えば、いつでも一定の香りが楽しめます。美しく調和した、予定通りの香りが。……ですが僕が心から愛しているのは、ヒトの肌に乗せたときの香水の香りです。ふとした動作や呼吸の揺らぎ、体温の上昇によって表情豊かに漂う香りを愛しているんです」
    「それなら恋人を作れ」
     同じ変態趣味の、という言葉は辛うじて飲み込む。
    「会話が楽しくて、僕好みの肌の匂いで、そのうち遠距離になることを許してくださる方がいればすぐにでも。……ですが、現実はなかなかそうもいきません。鬼のような上司に命ぜられてこちらに越して半年経ちましたが、仕事が忙しいせいで親しく話す方すら出来ない始末」
     言葉がしぼんでいくにつれ、陶酔しきっていたマニアの瞳も少しずつ翳っていく。
    「……トレイさん。過酷な現代社会に疲れた人間を癒やすことを、恥ずべき行為だと思いますか?」
    「いや……それは……」
     ――どうだろう。法に触れない限りは『職業に貴賎なし』と聞くし、俺もそう思う。しかしアロマディフューザーは職業だろうか?
    「たった週一回、それも三時間だけで良いのです。僕のコレクションにはパルファムやオードパルファムもありますが、一番種類が多いのはオードトワレですから」
     呪文のような単語を羅列する僅かな間にも、ジェイドの声と瞳がどんどん湿っていくのでぎょっとする。
    「僕が選んだ香水を身に付けたその後は、この部屋で自由に過ごしていただいて構いません。大学の課題をするのでも、スマホをいじるのでも、ひと眠りするのでも……すべてあなたのお好きなように。ですから、どうか……」
     俺を見つめる色違いの瞳から、とうとう涙が零れて滑らかな頬を伝ってしまったのを愕然と見送った。年上の、しかも美形の涙を間近で目撃するというのは死ぬほど気まずく、根拠不明の罪悪感が湧き上がって心臓のふちにべったりとこびりつく。
    「な、泣くほどのことか……? ジェイド、大丈夫だって。それだけ顔が良いんだから騙される奴はいくらでもいるよ。諦めずに頑張れ」
    「しくしく……本来なら、僕は半年で元の職場に戻れる予定でした。なのでこの家具付きのマンションを借りたんです。ですが、どれだけ懸命に働いてもなかなか状況は改善されず……ぐす、『問題が解決するまで帰ってくるな』と無慈悲な命令が改めて下されたのが今日でした。住み慣れない街での孤独な生活、借り物ばかりの部屋、出口の見えない仕事……」
     俺の手を縋るように握っているせいで、ジェイドの涙はぽろぽろと流されるままだ。
    「すっかり無気力になって、ふらふらと歩いていたところをあのふたり組にぶつかってしまって……そこに、あなたが」
     あなたが僕を助けてくれたんです。
     涙で不安定に揺らめく瞳が、俺を見つめる瞬間だけは確たる芯を秘めていた。他人からそんな厳かな視線を向けられたのは初めてで、とんでもなく据わりが悪い。悪事を働いたわけでもないのに言い訳じみた言葉が口をつく。
    「……もう何度も言ったと思うけど、俺は何もしてないよ。あんな奴ら、本当ならいつでも簡単に伸せたんだろ」
     目の前の男が静かに、けれど何度も何度も首を振る。今までのエキセントリックな言動を忘れたわけではないけれど、弱々しいその姿にだいぶ心が揺さぶられた。もしかしたらジェイドは周りに振り回されやすく、真面目で苦労性な性格なのかもしれない。過度のストレスのせいでここまで趣味を拗らせてしまったのかも。
    「……。……本当に香水を付けるだけか? 名義を貸すとか、怪しい小包みの受け渡しとかは御免だぞ」
    「トレイさん、」
     隠しきれない期待を乗せた色違いの瞳が、きらきらと輝いて俺の様子を窺う。……自分でもよく分かっていた。こんな言い方、もう了承したも同然だ。
    「……分かった、やるよ」
    「トレイさん! ありがとうございます!」
     感極まった様子のジェイドが再び抱きついてきたけれど、ソファに組み伏せられていた先程よりは心にゆとりを持つことが出来た。何をするにもいちいち距離が近い男との接触にも多少の免疫ができ、広い背中を宥めるように撫でてやる。……ただ、自分よりも上背のある男に肩口に擦り寄られる感触には当分慣れそうもないので、気が済んだのなら早く離れて欲しかった。
     助けを求める数多の祈りがようやっと天に届いたのか、神経質な音を立ててジェイドの携帯電話が鳴る。これ幸いと「電話だぞ」と応答を促すと、渋々といった様子だったがジェイドが離れた。流石は哀しきハードワーカーだ。
    「くすん……はい、もしもし。ああ、フロイド。……ええ、ええ! そうなんですよ、赴任期間が延びてしまったんですよ!」 
     電話に応答した途端、哀れっぽく湿っていたジェイドの涙声が瞬時に聞き取りやすく明瞭な発音に変わった。思わず耳を疑う。気を遣って席を外そうと上げた腰が中途半端な位置で固まった。
    「まったく、どうして僕が横領犯の尻拭いなんて。全然楽しくありませんよ。ですので腹いせに、こちらで見つけた高カロリーなグルメを段ボールいっぱいに詰めてアズールに送りつけて差し上げました。……ふふ。ええ、もちろん。送料着払いです」
     つい先程まで、本当にほんの数分前まで涙に暮れていたはずの幸薄い苦労人の瞳が、今は見る影もなくからっと上機嫌に輝いている。俺の愕然とした視線に気がついたらしいジェイドが、悪びれるどころか晴れ晴れとした顔で笑ってみせた。
    「……でもね、フロイド。きっともう何もかもが上手くいきます。たった今素敵なお友達が出来たので。ふふ。はい、それはもう大切にしますとも。……それでは、また」
     通話が終わったらしいジェイドがこちらに向き直り、何事もなかったように微笑んだ。
    「……さて、それではトレイさん。詳細を詰めていきましょうか」

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