Cafaea Avium④「――こちら、お下げします」
きれいに空いたカツカレーとサンドウィッチの皿を取り上げ、盆に載せる。ありがとうございますと笑顔を見せた若者と、黒縁眼鏡ごしの黙礼を寄越した男に一礼して、ルークはキッチンへとへと戻った。食器を洗いながらふと上げた視線が、グレイのそれと出会う。畳んでラックに戻した新聞は三紙目の筈で、コーヒーカップはとうに空になっていた。
「お代わり、いかがですか」
「……では、いただきます」
氷の色をしたグレイの双眸は、鋭いようでいてどこか遠くを見ているようでもある。左目の下に二つ並んだほくろが、よく整った涼しげな面差しに程よい人間味を添えていた。布巾で丁寧に水気を拭った食器を棚に戻したところで、ドアベルが鳴った。
「こんにちは! いつものください!」
明るい声を上げた小柄な娘は、ここ暫く足繁く通ってくれている客だ。おそらく近くの大学の学生なのだろうが、なぜか判で押したように同じメニューしか頼もうとしない。
「ドリンクはアイスカフェラテでお願いします! ヒューゴくんも同じでいいよね? それかアイスコーヒー? ホットもあるよ」
「え? あの、おれ、カレーがいいかな……」
連れがいるのは初めてだが、ボーイフレンドと云う空気感ではなさそうだった。童顔の青年の気圧され気味な主張を聞いて、ええー? と女子は唇を尖らせる。
「ここでエビグラタンを食べないなんて、人生の損失だからね」
「なんか急に壮大な話になるなあ」
「だって、世界一エビを愛するわたしおすすめの最強エビグラタンだよ?」
そこまで言うならと青年はため息を吐き、すみませんと手を挙げた。
「エビグラタンと、アイスカフェラテ二つください」
「承りました。少々お待ちください」
スパイスの香りに惹かれてやってくる客が多いのか、ランチタイムは圧倒的にカレーの注文のほうが多く入る。ただ――。
――ボク、ルークの作るグラタン大好き。
同居人でもあり恋人でもある青年の笑顔を思い出し、我知らず唇の端が綻んだ。
炒めたエビと玉葱に小麦粉を振り入れて、牛乳と生クリームで伸ばしてゆく。なめらかになったホワイトソースをバターを塗った器に移し、シュレッドしたエメンタールチーズとパルメザンを載せれば、後はグリルで焼き目を付けるだけだ。
「――美味そうですね」
こちらの手元を観察していたのだろう、やや乗り出していた身体を引いて、次はグラタンをいただくことにします、とグレイは笑う。
気づけばするりと傍らにいるようで、境界線はしっかりと引かれている。とある件で少々行動を共にした際も、背後、あるいは斜め前に、必ず半歩離れて立っているような印象があった。その癖、他人を決して懐に入れないと決めている訳でもないらしい。
不思議な男だ――と、思う。
「ぜひどうぞ。グラタンには、少々自信がありますので」
「『にも』でしょう。カレーは最高に美味いですから」
「そう言っていただけると嬉しいです」
アイスカフェラテのグラスに氷を入れたところで窓際の客たちが立ち上がるのに気づき、ペーパータオルで手を拭いてから、ルークはレジへと向かった。
「――ところで先生、明後日は何時に来ればいいですか?」
「……五時半」
本当に勘弁してくださいよ、と若者は深い息を吐く。
「悪いですけど僕、遠慮なく寝ますからね。ちゃんとナビ見て運転してくださいよ」
「善処する」
「その『善処する』が信用できたこと、一回もないんですけど、あ――すみません。幾らですか」
伝票に書き付けた金額を示してみせると、若者の背後にいた男が財布を取り出した。時折連れ立って顔を出すこの二人が、担当編集者と小説家であることは知っている。長い髪を一つに縛り黒縁の眼鏡を掛けた男の顔立ちは、どこかぼんやりとした佇まいを裏切って、美貌と呼んでも差し支えがない。
「大体その村、マップに登録されてるんですか? 何て言いましたっけ――こく、こく」
「黒巌村」
釣り銭を受け取って、男は頭を下げた。
「――ごちそうさまでした」
「あっ、ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」
ぺこりと一礼した若者が、扉を開けた小説家の後を追う。
「で、先生、その村――」
鳥のチャイムがりんりんと揺れ、やがて大人しくなった。
グリルのタイマーが切れる音を聞いて、ルークはキッチンへと戻った。抽出したエスプレッソをスチームしたミルクの後からグラスへ注ぎ入れ、グリルから取り出したグラタン皿と共に携えて、学生たちのテーブルへと向かう。
「わあ――エレナちゃんの言う通り、美味しそうだね」
「美味しいんだから! ほら、冷めないうちに食べる! はい!」
「えっ、ちょっと待って。おれ、写真送らないと」
フォークを差し出す娘と慌ててスマートフォンを構える青年にごゆっくり、と言い置いて、そうして、ルークは入り口の扉へと歩み寄った。『Open』の札を『準備中』に裏返してからカウンターへと戻れば、今日はもう終わりですか――とグレイに声を掛けられた。
「助手と二人で、また夜にでもお邪魔しようと思っていたのですが」
「すみません。所用がありまして」
幼稚園教諭をしている恋人は昨日から春休みに入った。奔放なようでいて真面目なところのある男だから、一緒にいるためだけに店を閉めて欲しいなどとは口にしない。だからと云って、それを全く望んでいないとは思っていないし――何より、少しでも長く共に時間を過ごしたいのは、こちらも同じだ。
サイフォンとエスプレッソマシンを分解して清掃した後、残った食材をコンテナに移し替える。空になったコーヒーカップをカウンターごしに差し出してくれたグレイが、その時、ふと長い睫毛を瞬いた。
「この店の――店名ですが」
「ええ」
「飼っていた猫の名前だと」
「そう、お伝えしましたね。それが何か」
咄嗟にそんなふうに言ってしまったのだと打ち明けたら、『ルナ』は笑うだろうか。知り合って間もない相手に真実を告げるには、さすがに気恥ずかしかったのだ。そこに何か引っかかるものを感じているのか、それともただ話題として口にしただけなのか。曖昧に笑ってみせたグレイの真意はやはり掴めない。
さりげなさを装って、ところで――とルークは言った。
「急な話で申し訳ありませんが、実は明日と明後日も、お休みをいただきます」
「……ご旅行ですか」
「そんなところです」
エビグラタンを堪能したらしい二人連れを見送って、キッチンの片付けに取りかかる。口をきつく縛った生ゴミの袋を裏口脇の密封容器に押し込んで戻ると、グレイの事務所の助手の青年が、ちょうど扉から顔を覗かせたところだった。こんにちはと一度戸口で会釈をした後、スツールから立ち上がったグレイの元へと歩み寄る。
「先生。ご依頼の方、後三十分くらいで来られますよ」
「……ああ」
こちらを見た男の氷色の双眸には、青年へと向けたやわらかな眼差しの名残りが微かに残っているようだった。
「すっかり長居させていただきました。お会計を――お願いします」
伝票を出し、釣り銭を用意する間に、ふとグレイが口を開く。
「旅行と云えば――さっきあそこにいた二人も、どこかへ行くと言っていましたね」
「……そうでしたか」
「黒巌村と、聞こえましたが」
あの二人連れもこの男もどちらも『常連』の範疇に入る部類の客ではあるが、これまで顔を合わせたことはなかったかもしれない。何か気になることがありますかと問えば、やはりどこか曖昧な表情で、いえ、とグレイは言葉を濁した。その横顔を見上げながら、助手の青年が遠慮がちに上着の袖を引く。
「先生――」
「……ああ。判った」
振り切るようにひとつ息を吐いて、戻ろう、と男は言った。
青年の肩に触れた手の仕草が、思いの外優しい。
「ではまた――来週にでも」
「お待ちしております」
階上の事務所へと戻ってゆく二人の背中を見送り、そうして――。
ルークは、『準備中』の札を『臨時休業』に掛け替えた。