熾火③ 村には年齢の近い子供たちが何人かいて、話すことはいつも同じだった。
孵化した雛に誰が名前を付けるかと云うこと。拾った蒼雷晶の欠片の数。家畜のこと。家族のこと。村で生まれ、育ち、生きてゆくこと。良いも悪いもない。そう云うものであって、他を知らない。村の外は門の内側から見るものであって、危険を承知で踏み出してゆく場所ではないのだ。
遠くから来て、村を救ってくれた人たちの中に、その少年はいた。
故郷を一人離れて彷徨い、離ればなれになった家族を探しているのだと聞いた。恐ろしいものに追われて一人ぼっちになることを想像しようとしてみたけれど、うまくいかなかった。けれど――兄とはぐれただけの自分があんなに心細くて寂しい思いをしたのだから、きっととても心細くて寂しいのだろうと云うことだけは判った。友達になろうと言った時の――驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を、今でも覚えている。
そうだ。
素直で、真っ直ぐな子供だった。
悲しい時、寂しい時。怒っている時。怯えている時。笑っている時。どんな顔をしていたのかを、今でもすぐに思い出せる。そして。
――先生。
皆が『ハンター』と呼ぶ人の後を、懸命に追いかけていた。
褐色のつややかな頬に差す、仄かな赤み。その意味を漸く悟ったのは、いつだっただろう。おまえとナタくんはどうなってるんだ――などと見当外れなことを言い出した兄に、だから、随分と閉口したことを覚えている。
直接聞かされたことはないし、敢えて確かめたこともない。ただ、知っていた。『あの人』がいなくなって、その名前を口にしなくなってからも、ずっと――忘れてなんかいなかったことを。その気持ちが、まだそこにあることを。
足を止めた天幕の前で、ひとつ息を吸い、吐き出す。
「――いるんでしょ。入るわよ」
隙間なく閉じられていた布を押し上げると、ハンモックの上に仰向けになったまま、青年はこちらを一瞥することさえなかった。ひたりと天井に向けられたはしばみ色の目が、そこに映るものを何も見ていないことは明らかだった。
「戻ってるなら戻ったって言ってよね。ニクスが心配してたわよ」
深く吸った息を緩々と吐き出した後、ごめん、とナタは呟いた。
「報告書――手伝うよ」
「もう終わったわよ。取得素材の種類と数が合ってるかどうかだけ、後で確認しておいて」
「……判った」
「――ねえ」
傍らに座り込んでもまだ視線を合わせようとしない青年の顔を、ノノはずいと覗き込んだ。
「エルヴェさんと、何を話したの」
他人の領域にずかずかと踏み込むのはやめろと、ザトーに苦言を呈されたことがある。反省するところがないとは言わないが、そう云う性分なのだから仕方がない。そもそも男と云ういきものは臆病なのか何なのか、肝心なことを言わないで済まそうとするのだ。
「好きだって言った? 言ったのよね、その様子じゃ。で、砕けちゃったって訳?」
「……きみって人は」
さすがにやや憮然とした様子で眉を寄せると、ナタは緩々と半身を起こした。
「よくもそんな、ずかずかと踏み込むようなことを――」
「踏み込まなきゃ埒が明かないでしょ。まさかわたしが、面白がったりからかったりするために訊いてるんだと思ってる?」
唇を強く結び、顔を背けて、いや、とナタは言った。
「そうは思っていない。思っていないけど――」
「だったらちゃんと教えてよ。心配してるの。ナタくんはハンターで、わたしは編纂者だけど、でも――そうなるよりずっと前から、『お友達』でしょ」
身を乗り出し睨み付けてみせたその先で、青年はやがて、結んでいた唇を解いた。
深い息を吐き、こちらへと視線を向ける。
「……ノノ」
「なによ」
「ザトーさんの時は、イサイさんに叱られたって聞いたけど」
「叱られたし、ちゃんと謝ったわよ。それはそれとしてわたしが黙ってたら今だって独り身のままだったんだから、感謝はしてもらいたいけど。でも――あなたとエルヴェさんのことは、わたしがどうにかしてうまく行くものじゃないでしょ。それくらいはちゃんと弁えてるから、安心して」
長い睫毛を瞬き、そうして――ふ、とナタは笑ったようだった。
「――大人しい子だと思ってた頃も、あったんだけどな」
「いつの話なのよ。わたしだってあなたのこと、素直な子だと思ってたわ」
殊更に子供っぽい仕草でいー、と歯を見せてやると、また少し笑った青年の、肩のあたりにわだかまっていたこわばりが、僅かに緩んだ気配がした。
「きみが、心配――してくれてるのは、知ってる」
「わたしだけじゃなくて、ニクスもね。あの人アイルーにしては珍しく気を遣って何も言わない派だから、わたしと足して二で割るとちょうどいいんじゃない」
伸ばした手を突っ込んだ物入れから携帯用の焚き火台を引っ張り出して、お茶でも淹れるわね、とノノは言った。
「あったかいお茶を飲んで、落ち着いたら――話して」
「……落ち着いてないように、見える」
「見えないわよ。でも、そうでしょ」
火を付けた台の上に、清水を注いだ薬缶を乗せる。合わせていた天幕の布を少し開くと、夕暮れの陽光を斜めに受けた岩肌が、橙色に染まっているのが見えた。さらりと乾いた風は、日光に温められた砂の匂いを含んでいる。
「ここ――ちょっとだけ、似てるわよね」
「砂原の、ベースキャンプ?」
「そう。あの時はびっくりしたな。初めて見るものばっかりで。西の人たちって、目とか髪の色とか、全然違うでしょ」
「――うん」
「皆優しかったけど、知らない大人の人だし、お兄ちゃんのことは心配だし。だからね、ナタくんが一生懸命話しかけてくれて、安心した」
銅のカップを水で濯ぎ、缶から掴み出した茶葉を放り込む。
編纂者となって以来、ハンターに随行して様々な地に足を向けることが増えた。食べるものや飲むものにはその土地土地の人々が守り受け継いできた伝統があり、新たに出会う味覚はつまり、新しい価値観との出会いなのだ。興味は尽きない。ただ――。
憧れ飛び出した『外』を知るごとに、生まれ育った場所への愛着が増してゆくことも、また認めざるを得ないのだった。だから、茶だけは子供の頃から馴染んだ村のものを、どこへ行く時も持参することにしている。クナファの村では茶葉に直接湯を注ぐが、西の茶葉は細かく砕かれていて味も濃いから、同じやり方では淹れられない。
薬缶に湧いた湯を茶葉の上から回しかけるようにして注ぎ分け、蓋をする。
「ナタくんのこと――ちょっとだけ、好きだったこと、あったかも」
「……え」
「その、『今更そんなこと言われてもすごく困る』って云う顔、酷くない?」
大きな目を見開く青年を睨み付け、子供の頃の話よとノノは言った。
「今思えばそうだったってだけだから、勘違いしないでよね。まだてんでお子様だったし、何でナタくんのこと目で追っちゃうのかなんて、自分でも全然判らなかったし」
「――そう、か」
「でもね。だから、気づいちゃった。ナタくんが、あの人のことばっかり見てるって」
はしばみ色の目の奥にぽつりと灯り揺れるそれは、ちいさな炎に似ていた。
「わたしのは――多分、突き詰めてみれば憧れとか、物珍しさだったんだと思うの。村の子じゃないって云うだけで、なんか良さそうに見えたって云うか」
「なんか良さそう、って」
「その程度の、子供の『好き』だったってこと。でも――ナタくんのは、違ったでしょ」
蓋を開け、香りと水色を確かめてから、ノノはカップを差し出した。
「あの人がいなくなってからあんまり喋ってくれなくなったし、無茶ばっかりするようになったって、アルマさんからも聞いてたから、心配してた」
熱い茶を啜り、言葉を継ぐ。
「編纂者になろうと思ったのは、もちろん村を出て外の世界を見たかったからだけど――ナタくんのことを一人で放っておけないって思ったのも、ちょっとはあったんだからね」
「ノノ――」
「あっ、別に要らないから。ありがとうとかごめんとか、そう云うの。今更だし。なんか、言ってて恥ずかしくなってきちゃった。熱ッ」
慌てて含んだ一口に舌を焼かれて、思い切り顔をしかめる。気遣わしげに口を噤んだ青年の顔を睨み付けて、だから、とノノは言った。
「……泣きたかったら、泣けばいいと思うよ」
カップを両手に抱えたまま、ふ、と――ナタは、微かに笑ったようだった。
「もう、子供じゃ――ない」
「判ってるわよ、お互いにまあまあいい年だってことくらい。でも、それが何? いい年した大人が泣いちゃいけないの? 十年以上想い続けた人にフラれた時に泣かないで、いつ泣くの?」
「フラれたなんて……俺、言ったっけ」
「言ってないけど、大体判るわよ」
「きみは――」
本当に、とナタは言った。
「……ずかずかと、踏み込むね」
「そうね。でもわたし、誰かが立ち止まったり迷ったりしているのを黙って見ていられる程、冷たい人間にはなれないの。それが、大事な人なら――尚更よ」
手を伸ばして触れた黒い癖髪を、小さな子供をあやすように叩いてやる。カップを抱える両手を額に触れて俯いたナタが、やがて、消え入りそうは吐息をこぼした。
「……ごめん」
「だから、要らないって」
「少しだけ――こうしていても、いいか」
白く揺れながら立ち上る湯気を眺めて、いいんじゃない、とノノは言った。