汗 暑い
茹だるような暑さである。
もう九月に差し掛かろうというのにこの暑さは気がくじける。原稿を前にしても汗で腕に原稿用紙が張り付いて気になって仕事が進まなかった。
自宅の窓硝子から差し込む日差しの熱々しさを憎らしく見つめ、したたる汗にももう構うことなくただ垂れ流している。
「おい、関口くん、いるかい」
玄関口から聞きなれた声がする。しかし返事をする気力もない。妻は夕刻まで戻らない。まぁ勝手に上がってくるだろう───そんな適当な気持ちで書斎でごろりと横になった。
「まさか死んでいるんじゃないだろうな」
「勝手に殺さないでくれ」
頭上から落ち着いた低い声が聞こえる。私はこの声が───好きだ。
「大丈夫か?熱射病じゃないだろうな」
「そういう訳じゃないよ。ただ暑くて仕事にならないだけさ」
そういって体を起こして友人を見るときっかり着込んだ着流し姿なのに汗ひとつかいていない。
「おい、どういうことだ。君に暑さという概念はないのか?」
「僕をなんだと思っているんだ。君に折角土産を持ってきたというのに」
そういえば、と見やると手荷物を持っている。
「なんだ?どこか旅行でも行っていたのか」
「僕が、じゃないがね。取引のあった書家が兼業農家でね」
手荷物の風呂敷を解くと、そこには大ぶりの梨がいくつかあった。
「梨の収穫時期なんだそうだ。取引でこっちに来たついでといくつかくれたんだよ。君は水蜜桃みたいな水分が多い果物が好きだと思ってね。これは幸水という最近出来た品種だそうだ」
それでわざわざ持ってきてくれたのか、と言うとそういう訳でもなく、田舎から出て来たその書家を中野の駅まで送っていったついでだと言うのだった。
「僕はついでか」
「まぁそうむくれるな」
冷たい麦茶をついで友人に手渡すと、彼はぐいっと一気に飲み干した。汗をかいていないように見えても案外暑いのかもしれないな、とぼんやりと考えているとその友人は信じられない言葉を継いだ。
「僕の声が聞きたかったんだろう?」
「──────え」
「さっきそう云ったじゃあないか」
「────声に」
「出ていたね」
汗がどっと噴き出る。
暑さだけのせいじゃない。
急な失語症を発症しそうな程に動悸と汗が酷い。
そんな自分をよそに、友人はぐいと近寄って耳元でこう言った。
「君は何週間もうちに来ないというのに自分がついでと知るとむくれるのか。僕こそ君に会いたかったというのに」
「────き」
「君はひどい男だ」
そう言って
べろりと自分の首筋を舐めた。
「────────っき、きょ、」
「はは、汗がすごいよ、君」
「なっ────なん」
開襟がべっとりと汗で肌にはりつく。
笑いながら友人───京極堂は懐から手ぬぐいをこちらに差し出した。
「日頃の仕返しだ、関口」
それはまだ暑い夏の出来事だった。
了