令尹近衛の甘い秘技 変わらぬ日常の中で、今日も積み重なる公文書に向き合い、今汐と散華は執務室の中2人で椅子をしばらく温めていた。
「はぁ……」
今汐の口から小さなため息が自然と漏れ出すと、隣に散華がいたことを思い出して口元を押さえた。
「ごめんなさい、つい、ため息なんて」
「いえ」
誤魔化すように笑ったのは、散華が日頃から今汐の過労を憂いていると知っていたから――当の散華は、今汐の行動に対して口々に咎めたりはしない。が、やはり誰よりも今汐の心身の疲れを気にしていた。
今日の政務に取り組んでいる間、今汐は昼食、夕食の時間もあまりとっておらず、休憩らしい時間を過ごしていない。連日の政務で疲れが溜まっているのもあるのだろう。自然と出たため息も仕方のないことだと、散華も捉えていた。
ちょうど仕事を手放すべき時間にも差し掛かっていたが、今汐は手を止める気配もない――それは散華も同じことだが、散華は近衛として今汐を支える身である。少なくとも、主人にはいつも健やかに過ごしていてほしいものだ。
散華の表情が、ひときわ険しくなる。ちょうどちらりと横目で散華の表情を伺っていた今汐が、それに気づく。
「散華、どうかしましたか?」
「……いいえ、何も」
「余の承認が必要な書類があれば、迷わずこちらに回しなさい。遠慮することはないわ。円滑に事を進めることが肝要なのだから」
「……承知しております」
散華の表情が険しくなったのは、今汐を慮ってのことではあったが、今汐の想像する散華の内心からはかけ離れたものだった。
散華は、先日長離に言われたことを思い出していた。
長離の元に残像の処理に関する仕事を済ませた報告をしていた時、報告だけに済ませるつもりだったが、長離はたおやかな笑みを浮かべて、「散華、一局付き合いなさい」と正面の席に座るよう促した。
散華は長離に言われたことを断る理由もなく、その日も碁の相手をした。これも二人の間では日頃からよくあるやり取りだった。
散華が令尹近衛としての役を与り、辺庭で暮らし始めたばかりの頃、長離はこうして散華を碁に誘うようになった。はじめ散華は、特に碁の手腕に優れているわけでもない自分が長離の相手が務まるのだろうかと、疑問に思いながら碁を指していた。しかし長離はたどたどしく打ち始めた散華の一手一手を見ながらこう言った。「碁盤には心の機微がよく現れる。……そうね、妾の意図や、碁を指す意義を気にするのなら、これは親睦を深めるためのものだと捉えて」。この碁の時間は長離にとってコミュニケーションを主眼とした目的に置いていたらしいと知り、散華は恐縮しながらもそれに応えるようになった。
長離の思惑通りだったのかはわからないが、散華は日を追うごとに柔らかに素の表情を見せるようになっていた。碁を差し合いながら、互いにとって最近悩ましいことや、日常的な雑談を交わす。――とりわけ互いが気にかけている今汐に関する話題がほとんどであるが、二人自身もそれなりに砕けて会話を交わすようになっていた。そんなことが、2人の独特な日常の風景だった。
長離が碁の相手をしてほしいという時は、日常的な雑談をしたいという申し出でもある。立場のことがなかったとしても、散華にはその温かな感情の周波数を纏った長離の誘いを断る理由がなかった。――が、先日の長離は〝何か面白いことを思いついた〟というような表情を浮かべていて、切り出される前に散華は嫌な予感もあった。
その日、散華は長離から、とある〝秘伝の技〟を授けられていた。それを行えば忽ち今汐の疲労が拭えて、更に今汐を政務から引き剥がすことが出来るという。今汐の心労を憂う散華にとっては、この上なく素晴らしい秘伝の技だった――眉唾な内容を除けば。
散華は、覚悟を決めたように公務の処理を行っていた手を止めて、ペンを机の上に置く。それから、すっと凛とした佇まいで立ち上がる。
「散華、疲れましたか?……今日は先に休んでいてもいいですよ」
今汐は自分の疲労感をおくびにも出さずに、散華に優しい笑顔を向ける。散華は首をはっきりと振って否定を示す。
「令尹様。……令尹様こそ、お疲れだと思います。連日睡眠時間も多く取れてはいません。昼休みの間も睡眠が少なく、疲労が溜まっていると思います」
「……そこまで気にするほどではないわ」
今汐は少し悪びれるように視線を逸らした。やはり、散華に働きすぎたことを咎められるのは一度や二度ではない。自分も無理をしたくてしているわけではないのだが、憂慮させることもまた本位ではない。
散華はしかし「今日の政務はここまでにして休みましょう」と切り出すこともない。そう素直に休むことを促して休むような人ではないこともよく知っていた。
散華は今汐の座る席の隣に立ち、その横顔をじっと見下ろす。実直な赤の瞳に刺されると、今汐も何かを感じ取って真剣に散華を見上げた。
「……散華?」
「今汐様。……。……疲れが取れると言われているとっておきの方法がございます」
「え?……ええ。どんなもの?」
「……。……」
散華は何かを言いたげだったが、今汐は散華の頭を悩ませていることが全く読み取れず、首を傾げてしまう。
「散華?どうしたの……?」
「……その方法はいくつか、ございます」
「そうなのね……?」
「……――失礼します」
すると、散華は膝の上においていた今汐の手をそっととって、持ち上げる。――そのまま少しだけ腰を折って、今汐の柔らかな指先に口付けを落とした。
「……――……っ!?」
今汐は驚いて椅子の上で少しだけ身体を引いてしまうが、散華は凛と澄ました表情で、今汐の白く輝く瞳を見つめる。
「――今汐様。私はあなたの従者です。天地神明に誓って、あなた様のために尽くし続けます。この身は今汐様だけのもの。どのような事でもお申し付けください」
「……っ、さ、散華?」
セリフだけ見れば、改めて言っただけのことで驚くべきことではないが、いつも以上に凛とした散華の様子に今汐は胸の鼓動を強くした――しかし、意識する以上に明確にときめいてしまったのには理由もあった。
散華は言い終えると、ぴたりと深く瞼を落として、今汐の手を膝の上にそっと戻した。
「この、指先への口づけは、忠誠を誓う意味のある、儀式的なものなのだそうです……」
「さっきのセリフは?」
「……こういった事は、改めて申し上げたほうが良いと……」
散華は一瞬視線を逸らして、誤魔化すようにそう説明した。しかし、今汐は薄く瞼を落として散華の嘘をすぐに見抜いてしまう。
「長離先生に言われたのでしょう。こういうセリフを言ってみなさい、と」
「……はい。しかし、今の言葉に偽りの気持ちはありません」
「……そう」
さっき、散華が口にしたセリフは、今汐にとって覚えのあるものだった。最近今汐は長離のすすめで、ある娯楽小説を読んでいた。その本の内容はお姫様と、姫に仕える女性騎士の物語だった。2人は苦難を共にしながらも、いずれ立場を超えた愛を交わすようになる……というものだったが、今の散華の台詞は物語の中の女性騎士の言い方にとても似ていた。――おそらく散華自身にはそれを再現する意図はなく、長離が「散華がこう言ってみると、あの子は喜ぶだろう」と助言されただけ……今汐はすぐにそう納得して、しかし、心臓の音はやけに弾んだままだった。
今汐は気を落ち着けるように、散華の唇で触れられた自分の指先に視線を落としていた。それを見て散華は失態したように深く瞼を落としていた。
「やはり、普段の私らしくはありませんね……驚かせしまい、申し訳ありません」
「……いいえ、とても様になっていたから。……謝らなくてもいいわ」
今汐は表情に出ていた照れを隠すために、右の手のひらで口元を覆い隠して顔ごと視線を逸らす。
散華は思っていたよりも、今汐の嬉しそうな反応を得られたことを不思議に思いながらも、今汐の高鳴る周波数をじっくりと観察するように見ていた。その視線もまた、今汐にはこそばゆく、こほんと咳払いをする。
「……その、いくつかあると言っていたのは?他にもあるの?」
「……はい、また別のこともあります」
「散華がしたいのなら、余も気になります……ので……してみてほしい、というか……」
話の流れを逸らそうとしたのに、むしろせがむような言い方をしてしまったことで、言葉尻が辿々しくなる。
散華は今汐の居た堪れないような視線の泳がせ方に、恥をかかせないよう今度は自分のほうが小さく「こほん」咳払いをする。
「今汐様、立ち上がって頂けますか?」
「……ええ」
散華の言う通りに今汐は椅子からゆっくりと立ち上がる。
「……――失礼したします」
「ん……っ!?」
何をするにしても、さっきのように逡巡する間もあると思いきや――散華は立ち上がってすぐ眼の前にいた今汐を、優しく抱きしめた。
急なことで今汐は慌てて視線を泳がせて、散華の纏う冷たい空気に触れているのにもかかわらず、自分の体の芯がぼうっと熱くなるのを感じた。
「さ、散華……っ?」
「……。……」
「あ、あの、これは……」
「……今汐、様。どうかあなたのそばにずっと居させて。……こうしてあなたの温かな体温を感じさせて。……あなたの声を近くで聞かせて」
「――っ……!」
散華の、聞いたこともないような甘いささやき声が、抱きしめあったまま、今汐の耳のすぐそばに響いた。言葉選びも、言い方も、甘い声色も散華から聞くものとは思えない――けれど、今汐の心をひどく揺るがして、ときめかせた。それは読んだようなセリフだとわかるほど、堅苦しさの残ったものだったが、散華なりのぎこちなくも甘い言葉がより、今汐の胸の奥にぎゅっと突き刺さった。
トクン、トクンと心臓の音が聞こえてしまいそうで、今汐は柔い力で押しのけようとする。
「……さ、散華っ……あの」
「し、失礼いたしました」
散華はすぐに抱擁する腕を離して、一歩分余計に後ずさった。今汐はまだ焦点が定まらないで、ななめ下の散華の靴先のあたりをぼうっと見て気持ちを整理していた。
今の言葉も、かつて長離におすすめされた別の娯楽小説のひと台詞にあったものに似ていた……が、散華らしいエッセンスが加わったことにより、今汐はより別の意味を感じてしまっていた。
「……っ、それも、助言されたのね」
「……はい。しかし……いえ。……」
「……」
――今の言葉も本心からです。というには、さっきのセリフよりあからさまに甘い内容だったと、散華本人にも自覚できて、口を噤んだ。
「……散華」
「はい……」
「他には、あるの?」
今汐は敢えて次の内容があるのかと散華に聞いて、促した。それは、あくまで今のようなやり取りがごっこ遊びのようなものと捉えないといけないと、平静を装おうとするという意味もあった。
散華もそんな今汐のやりどころのない内心を汲み取って、すぐに次の伝授された〝秘伝の技〟を披露しようとした――が。
「……あるには、ありますが、その……」
「せっかくだから全部聞いてみたいわ。……その、散華が、劇の台詞のようなことを言うのも珍しいもの」
「……あとひとつの言葉は、疲労回復の効果がより高いと長離様は仰られていましたが……今汐様が望まれているようには……」
「……言ってみて?」
さっきのセリフも特別なシチュエーションでのものだと散華にはわかっていた。今汐も、それ故にたどたどしくなっていたのだろうとわかっていた。しかし、それ以上に甘いものなのだろうか……今汐は口元に手を当てて、しかし、やはりこの際だから聞いてみたいと思って口元を綻ばせる。
「お願い。余が聞いてみたいと言ったら、言ってくれるでしょう?」
「……しかし」
「余のために尽くしてくれるのでしょう……?そばに、いたいとも言ってくれた」
「っ……それは」
「ふふっ、冗談だとわかっているから、言ってみて?」
今汐は白い肌をわかりやすくぱっと赤くさせていて、表情には楽しみながらも恥じらいがあった。けれど、それでも散華の言葉を聞きたいと言ってくれている。――他でもない主君にこう言われては、散華も断る理由がなく、心のなかで覚悟を決めるように深く深呼吸する。
今汐は、何が来ても激しく動揺しないようにじっと心の準備をして散華の言葉を待つ。
「それでは、今汐様は仕事を終えて、自宅に帰ってきたところ……というシチュエーションだと考えてください」
「え?……わかったわ」
「今汐様は、素直に思った通り受け答えをされてください」
「ええ。どうぞ」
今度もおそらく何かしらのセリフめいたものなのだろうとわかっていたので、流れを汲んで今汐は散華の言う通りにしようとうなづく。
散華はためらうように一度瞼を落としてから、聞いた。
「……今汐様、お疲れですか?」
「えっと、そうね……少しだけ」
「ご飯にしますか?」
「ご飯は……今はお腹が空いていないから大丈夫」
今の状態で、散華の質問に素直に答えた。
「……お風呂にしますか?」
「え?お風呂には入ったから平気……」
帰ってきたところというシチュエーションなら少し違和感はあったが、今汐は素直に受け応える。
散華は、その問いに今汐が答えてから不自然にほんの少しためらうような間を置いた。ふわ、と眼の前の散華から冷気を帯びた空気が一瞬漂ってきて――散華が胸元に手を当てて、言う。
「……では、……〝私に〟されますか?」
「……」
散華がその言葉を言った瞬間、ぱっと頬を赤くさせていた。さっきまでの『どのようなことでも尽くす』『あなたのそばにいたい』というセリフも踏まえられて、仮に冗談ごとだとしても、いつもは厳粛な令尹近衛の口から決して出ないような、甘い言葉の意味は、ぼかされたものでもわかった――が、今汐はカチリ、と固まって、眼の前を見ているようで虚空を見ているように視線が無を眺めている……。
是非はともかくとして――散華は何かしらのリアクションを今汐から得られると思っていたから、今汐が宇宙猫ならぬ宇宙龍のような状態になってしまったことで、数十秒の間、辺庭の執務室の中に沈黙が流れる。
「……あの、今汐様」
「……」
「今汐様……」
「……」
気まずいような沈黙でも、今汐の反応をひたすら待っていた散華だったが、ようやく話しかけてみても、やはり今汐は石化したように固まったままだった。背後には広大なる銀河が見えるかもしれなかった。
「も、申し訳ありません……失礼を」
「……」
今汐はようやく身体を動かして口元に手を当てる。ゆっくりと深く、強く、瞼を閉じる。――それから、カッと強く目を見開いて、感情の混乱のせいか頭に淡い龍角が顕れた。
「今汐様?」
「――今回ばかりは、からかいでは済まされません……っ!」
「あっ」
今汐は執務室の扉の方へ早足に歩き出し、ぷんぷんと別の感情を誤魔化すように頭の角の上に怒りマークを浮かべていた。
「長離先生にははっきり言わないとわからないのです……!!」
「今汐様、その……」
扉から出ていく前に足を止めて、机の近くに立つ散華の方へと振り返る。
「散華!あなたは……あなたは悪くありません!余は不快に思ったわけでもありませんから……気に病まないように!いいですね?今回のことは長離先生の行き過ぎたいたずらです!それでは、余は先生を諌めてきます!あなたも今日は自室で休むように……!」
矢継ぎ早に言い切ると、赤く染まった頬が背を向けてまた見えなくなった。
散華は少し止めようとも思ったが、今汐の勢いのある様子にどうしようもなく、ずんずんと部屋から出ていってしまった――。が、やはり長離の狙い通り、仕事から今汐を引き剥がすことは出来た。
そっと散華は自分の胸元にまた手を当てて、感情を落ち着かせる。いつも以上に風雪を御しきれず、感情の乱れが顕れるように、冷気が周りに漂っていた。深呼吸をして、頭の中で心経を唱えて心を整え直す。
「……はぁ……」
長離の助言をもとに、こういった遊び心のようなもので、今汐を仕事から引き剥がすことは数度あった。が……これからは行き過ぎた言葉を言わないようにと、冷気を操りきれないほど心の乱れた理由も見ないふりをして、胸の中に秘めておくことにした。