心臓の所在 銃口が一斉に火を噴くよりも先に跳躍したヴァッシュの体躯が凶弾を受け、さらに跳ね上がったあと背中から地に落ちるさまを、ウルフウッドは遮蔽物の陰からスローモーションで見ていた。
泣きじゃくりながら町へ、両親の元へ一直線に走る子供の背中へと銃身が動く軌跡を見逃さなかったヴァッシュが火線に割って入ったのだった。人質の解放を条件に愛銃を敵へと放り投げていた彼が取った行動はまさに捨て身だった。
「おどれらあああッ!」自らも戦場に飛び出したウルフウッドはパニッシャーを轟音で唸らせ、敵が籠城していた廃墟を瞬く間に瓦礫へと変えていく。
「大丈夫か!トンガリ!坊主!」
駆けよれば子供は砂埃煙る往来のただ中に立ち尽くし、号泣してしまってはいるがどこにも怪我はなさそうだった。ウルフウッドの視界の端、彼が先まで身を隠していた遮蔽物よりさらに後方から、ある名前だけを繰り返し叫びながら駆けよってくる男女の姿が見えた。この子の両親だろう、ならば後は彼らに任せればよいとウルフウッドは判断した。敵を蹴散らした側とはいえ、まだ放熱も終わっていない機関砲を担ぎ持っている自分が近くにいたら両親は警戒してしまう。
ウルフウッドはヴァッシュが放り投げた銃を回収しながら、まだ立てずに地面に倒れ伏している彼へと近づいていった。胸を苦しそうに押さえ顔面を苦痛で盛大に歪めてはいるが、ウルフウッドが二人に駆け寄った時から震える手で子供を指さしていた。致命傷は逃れているのだろう。
憎々しいやつや、ウルフウッドは心の中で唾棄した。
どこまでも自分を捨てている。
「胸、撃たれたんか」苛つく心はそのままに、しゃがみ込み目の前の男の状況を検分する。
「大丈夫だ、ウルフウッド。ただの、打ち身、猛烈な」
左腕に内蔵された仕込み銃のメンテナンスで、義手を取り外し分解している最中に騒ぎは起こった。せめて義手を装着してから行けというウルフウッドの怒声を尻目にヴァッシュは愛銃と生身の右手だけで飛び出していってしまった。その結果が今目の前に広がっている光景だった。
「……医者、行くか?」
その必要は無い、と首を横に振る彼を見つめ、ウルフウッドはある決断を下した。
「なら帰ってオンドレに説教やな」
え、と痛みに歪んだ顔をさらに引きつらせたヴァッシュの脇を掴み、そのまま一気に肩まで担ぎ上げたウルフウッドはもう片方の肩にもパニッシャーを担いだ状態で、人が集まってきた往来を背に宿へと歩き出した。
抱え持った男が一度バタバタするのをウルフウッドは背中越しに感じていた。恐らくあの子供か両親にジェスチャーを送っているのだろう。前だけを見て歩く彼には見えない世界の出来事だった。
※※※
道途中からは肩から下してもらいヴァッシュは自力で歩いたが、被弾箇所はずきずきと痛み熱も出始め、歩みはいつもより鈍重だった。それを何も言わぬがウルフウッドは全身で感じ取っているらしく、歩調を合わせてくれていることがヴァッシュには嬉しかった。そして同時に怒っているということもありありと伝わってくるのが胃痛の種でもあった。
さっきは熱烈なお誘いでしたネ、とはとてもでもないが言える雰囲気ではなかったので、未だ怒気を漲らせているウルフウッドの背中の数歩あとを、口をつぐんだまま遅れて歩くことしかできなかった。
宿へと戻った二人は──ヴァッシュはそそくさと自室へ引っ込もうとしたがウルフウッドがそれを許さなかった。自分の部屋まで一緒に来い、と顎をしゃくり無言で促した。
「遠慮したいかな……なんて」ヴァッシュは最初こそ丁寧に誘いを辞退したが、サングラス越しでも分かる彼の剣呑な視線に敢え無く押し負けた。
脳天に一発重い拳骨でも食らわされるのだろうか。結局ウルフウッドの部屋までついていくことになり背後で廊下と部屋を繋ぐドアの閉まる音を聞きながら、ヴァッシュは完全に退路を断たれた被食者の心持ちでいた。
「そこ座れ。コートも下も、全部脱げや」往来から退散以降、ようやく聞けた声にもやはり怒気が混じっていた。これは思った以上に相当お冠だとヴァッシュは判断した。つくづくさっきは口を滑らせなくて良かった。彼が怒る理由に心当たりがありすぎたヴァッシュは大人しく、そして痛む躯を庇いながら慎重に服を脱いでいった。
目線を下ろせば惨憺たる光景が広がっていた。胸は一面、覚悟していたとはいえそれでも目を背けたくなるような濃い紫やどす黒い赤に変色している。盛り上がり、あるいは抉られた不格好な傷跡の多くは表面上は内出血の影響が出ていないため肌は一層まだら模様で、不気味ともいえる様相を呈していた。
「うわぁ……でも骨折もしてないし良かったよ。少し休めば元に戻る……ウルフウッド?」
声を掛けられた当人は無言のまま背を向けて荷物が置いてあるテーブルに向かったかと思えば、軟膏や瞬間冷却材を取り出しまた戻ってきた。
こんなに怒ってるのに応急処置してくれるのか、そう考えていたところに軟膏が塗布された指先が近づいてきて、ヴァッシュは反射的にピクリと動いた。
「……触るで」
「ああ、頼む」
それからはまた無言の時間が続いた。ヴァッシュの胸にガーゼが当てられ、それを男が丁寧な手つきで包帯で固定していく。
いつ見ても手際が良い、とヴァッシュは自身の胸囲にまかれていく包帯とその手さばきを見つめていた。
(日頃からパニッシャーに布やベルトを巻いているから慣れてるのかな)
(それもあるだろうし、包帯の巻き方を明らかに教わっている手つきだ)
(一体、彼はなぜこうも戦闘における全てに手慣れている?)
「終わったで」
ヴァッシュの頭部に冷ややかな声が降り注いできた。まるで手刀のようだった。
ついに説教が始まる。もしかしたら本当に手刀が降ってくるかも知れない。ヴァッシュは礼もまだ満足に言えぬまま覚悟して目を瞑ったが──過去に礼を言っている最中に拳骨を食らい、猛烈に舌を噛んだことがあったので口も噛みしめた──続く言葉や打撃は暗闇の中いつまで経っても降りてこなかった。恐る恐る開けた視界に映ったのは、巻き終わった胸の包帯をただじっと見つめる彼の顔だった。
ヴァッシュは即座に彼が何を見ているのか理解した。包帯の上からでも明らかに凹凸が目立つ左胸の格子だ。先ほども軟膏を塗りづらそうにしていた。
どんな声を掛ければよいか迷っているうちに先に視線を外したウルフウッドが、先ほど用意していた冷却剤を手の甲側で軽く叩き、冷却が始まったそれを布でさっと巻いてヴァッシュへと放りやった。
「しばらく横になっとき。寝たければそのまま寝て構へん」
ヴァッシュは一瞬躊躇ったが、結局それに応じた。戦闘の疲労はすぐさま彼を深い眠りへ引き込んでいった。
※※※
廊下を歩く旅客の微かな足音に目覚めれば、すでに日は落ち室内は暗がりに満ちていた。先ほどまでは感じなかった風の流れに気づき窓際に顔を向ければ男が煙草をくゆらせ、じっとこちらを見つめていた。
「おはようさん」
「ああ、おはよう」
「調子はどうや」
「多分もう治った、さっきはありがとう」
ウルフウッドが椅子から立ち上がり室内を一直線によぎっていくのを見て、このまま部屋から出て行ってしまうのだろうかとヴァッシュは一瞬考えたが、彼は電気をつけただけでまた戻ってきた。
胸の上に置いて寝た冷却剤を触ってみればとっくに冷たさは無くなり、ただのぬるいジェルの重しとなっていたので、傍らにどかして上半身を起こした。包帯をゆっくりと外せば彼自身の言葉通り、痣は殆どがすでに癒えていた。治癒能力の高さはありがたいが、人間にとっては驚異すぎる治りの早さだ。それを人であるウルフウッドの目の前で曝け出さなくてはならないのはどこか気が重く、ヴァッシュは複雑なため息をついた。
「まだ痛むん?」
「大丈夫、もう痛みは──」
そこで言葉は途切れた。
歩み寄ってきたウルフウッドが、いつもはパニッシャーを握るその逞しい手を静かに胸に沿わしてきたからだ。
指が伝ってくる。右胸を下から無残に抉った傷跡を、肩を周り背中まで裂けている裂傷痕を、そして左胸の格子、そこに閉じ込められている醜い肉の盛り上がりを静かに撫でている。傷跡に触れるウルフウッドの手つきはとても優しい、多分そうだとヴァッシュは感じた。傷跡はどこも感覚が鈍く、触れられても直接の感覚はそこには無い。何重にも見えない何かが傷跡を覆ってしまい、外部からの圧迫をわずかに感じる、そんな曖昧な感覚しか伝わってこない。それを今は残念だとヴァッシュは思った。
この指をもっと知れたらと思う
指から伝わる体温を、優しさをもっと深いところで感じることが出来たなら
「おい」
「え?」
「羽出とるで」
ウルフウッドの言うとおりだった。左胸の傷跡から、淡く発光する羽が鉄格子の隙間から手を伸ばすように、彼の指に緩く絡みついていた。それはまるで、つい先ほど格子に阻まれ届かなかった彼の体温を、傷口が感じ取れなかった指の形を確かめるように、なぞるように蠢いていた。一度意識すればコントロール下に入った羽はヴァッシュが知りたかった感覚を拾い上げてくれたが、それを受け入れる前にヴァッシュは羽を引っ込めた、はずだった。即座にヴァッシュの意図に気づいたウルフウッドが、羽を摘まんで離さなかったからだ。
「なあ、それ意地悪? それともお誘い?」
「どっちやろなあ」
目の前の男が離す気が無いと悟ったヴァッシュが仕方ないと引っ込めるのを諦めれば、抵抗の消失に気づいたのか摘まむ手も弛み再び羽は自由になった。少し逡巡したあと、ヴァッシュが躊躇いがちに彼の爪の生え際を優しく撫でれば擽ったいかのように手が一瞬揺れたが引っ込められはしなかった。
それが愛おしい。今度こそ伝わってきた体温が愛おしい。皮下越しに感じる彼の鼓動が愛おしかった。
「コレ、トンガリの意思で動かしとるん?」
「えと、まあ……」
「ふぅん……」
言われればなかなかに際どい触り方をしていたし、そもそも胸から出た羽を自分の意思でどう動かしているのか言葉にするのは難しかった。そしてなにより己のしていた行為に恥ずかしくなった。思考に連動するかのように羽はしおしおと丸まりぎみになって、ウルフウッドの指から退散し、胸に染みこむようにして全て消失した。今度こそはウルフウッドも摘まもうとしなかった。でも指先はまだ左胸から離れていない。
悪い予感がする
「コレ、どないな怪我だったん?」
ヴァッシュは瞑目した。ああ、今まで聴かれない事の方が奇跡だった
目の前の彼は殆ど詮索はしてこない男だったから
「……あまりいい話じゃないよ」
「この傷でええ話なんか期待せんわ」
「それでも聞きたい?」
「……」
ウルフウッドは無言だったが見つめてくる視線が、その気配の全てが肯定だった。ヴァッシュにはそう感じた。
いつもなら話さなかっただろう。今まで人に話したことも無かった。
でも今日だけは、なぜか話したいと思った。
──いつもなら聞いてこないウルフウッドが聞いてきたから?
胸の内の答えは出ないままに、ヴァッシュはポツポツと喋り始めた。
「……ある街をごろつきたちから守ったんだけどその時にへましちまってね」
多勢に無勢だった。人質がいた。ジュライで消してしまった人を返せと絶叫された。叫びはヴァッシュの動きを明らかに鈍らせた。ごろつきたちを撤退させ、人質を無事救出した時にはすでに立っていられないほどの大怪我を負ってしまったヴァッシュは町民たちによって病院に担ぎ込まれた。その時すでに町では、雇った用心棒があのジュライを消し去ったヴァッシュ・ザ・スタンピードだということが知れ渡っていた。戦闘を遠巻きに見守っていた者が町中に広めたのだった。そして町医者もまた、ごろつきの一人と同じく妻をジュライで亡くしていた。
「医者は俺のこと恨んでいたのに手術してくれたんだ、町を救ったからって」ヴァッシュは全てを精細に覚えていた。
「彼は泣いていた。生かしてやる、これ以上ない醜い傷跡にして、もう誰も綺麗にできないようにしてやるって」
ウルフウッドは続きが連想でき顔をしかめた。自分の想像を否定してほしかったがヴァッシュは困ったようないつもの笑顔で笑いかけ──左胸の傷跡に大仰に被さった格子を、やはり傷だらけの右手でなぞった。
手術し終えたばかりのまだ生々しい傷口のすぐ近く、麻酔もないままに直接打ち込まれていくビス。本来ならば純粋な補強器具が傷口の上の禍々しい格子となっていくさまを、ヴァッシュは壮絶な痛みと共に迎え入れた。医者が胸に楔を打ち込む手を振り払う事は出来なかった。
「ずっと泣いて叫んでいた。ミランダを返してくれと」
「……外そうと思うたこと、ないんか」ウルフウッドは煙草を吸いたい気分だったが、箱ごと窓際に置いてきてしまっていた。
「無いよ、もう癒着しちまってるし」
それにこの格子が弾除けになってくれたことも何度もあるんだ、とヴァッシュが続けた。何度も、そうさらりと言って眉を下げて笑うヴァッシュを、ウルフウッドは静かに見つめていた。
──何度もって、言うたな?一体今までにどれほど胸を撃たれそうになって、一体どれほど実際撃たれてきたんや?──
話はこれで終わりとばかりに、ベッドから立ち上がりかけたヴァッシュにウルフウッドは足払いを掛けた。
「うわ!」
不意を突かれバランスを失ったヴァッシュが再びベッドへ倒れそうになったところを、ウルフウッドが乱暴に掴みあげそのまま胸へと抱き込んだ。
一瞬の騒乱のあと、満ちた静寂を破ったのはヴァッシュからだった。
「ウ、ウルフウッド?」
「黙っとれ」
「ハイ……」胸元でヘッドロックを掛けられた状態で体勢も不穏だったが、頭上から降ってくる声音は優しかった。
「ええか、今抱いとるのはワイやない。今日おまえが助けた小こいガキや」
ヴァッシュはわけが分からず固まったままだった。
「心臓の音、聞こえるか? よう聴きいや。これと同じんのがガキにも流れとる」
先ほど羽越しに感じた脈動が、今ははっきりと耳元で聞こえる。
「おどれが知ってるように敵さんにも同じの流れとる」
「うん……」
「……ワイにも」
「うん」堪らなくなったヴァッシュは腕を彼の背に回した。もっと鼓動が近くなった気がした。誰にでも等しく流れている。
銃で撃てば人は死ぬ。
だから誰も死なないように、誰も死なせないようにしてきた。その生き方を続けてきた。
これまでも、そしてこれからも。
「トンガリ。おまえにも同じの流れとるの、ワイさっき指先から感じたで」
ヴァッシュは再度固まった。刹那にもウルフウッドは拘束を解き、逃げるようにして自分が抱き込んでいた男から離れてしまったが、ヴァッシュの耳には彼の鼓動が鮮やかにまだ残っていた。耳が熱い。
「だからおどれも命ぐらい、大事にせえや」
胸の痛みはもうとっくに無くなっていたが、ヴァッシュは自身の胸に手を添えてみた。耳に残った音と同じ旋律を刻む鼓動をしばしの間、指先で感じていた。