雨粒おちた 曇った朝だった。春の曇りは嫌に空気が生ぬるくって重たい。ため息をついて制服に袖を通す私の動きは、それはゆるゆると緩慢に見えただろう。
「ほら、遅刻するよ。さっさとしなさい」
しびれを切らしたように母が言った。せかせかと家を歩き回る母は玄関のドアを開け、空を見上げた。雨が降りそうだよ。そう言うと、着替えを終えて追いついた私に傘を差しだした。
外へ出ると、今にも雫がこぼれおちそうな空模様だった。制服のシャツが湿った空気を含んでいる。学校へは緩やかな坂や階段が続く。毎日こうして歩いているのに、息が切れた。
学校に着くころ、雲の切れ間から太陽が見えだした。
教室に荷物を置いて、グラウンドへ向かう。今日は一限目からグラウンドで授業があった。ゲートを抜けると、視界がぱっと明るくなった。柔らかい、それでいて鼻がツンとするような日差しの中、私は目が慣れないまま当てずっぽうに数歩歩いた。
「おはようございますですよ」
少し先から声がした。春の陽に似た、柔らかくてよく通る声だ。
「おはようございます、ハッサク先生」
今日は晴れてよかったですね、そう言おうとしたところで、後ろから大きな声が飛んできた。
「ハッさーん! おはよう!」
「ハッサク先生、でしょう」
先生の意識はたちまちそちらに向いてしまった。順番抜かしだ。私は思った。先生はみんなの先生なのに、あの子はちょっと分かってない。それに、馴れ馴れしくって失礼だ。あの子はまたヘラヘラして、「はーい、ハッサクせんせー」なんて気の抜けた返事をしている。私はその場から離れて、日差しを受けて光る池を見た。
今回から始まる美術の課題は、「グラウンドで見つけたものを描きましょう」だった。私は前からこの池を描くと決めていた。きらきら光る水面、ぬらりとした肌のコイキング、波紋に揺れる蓮の葉。私はこの池が好きだった。
チャイムが鳴り、ハッサク先生がみんなを集めて課題の説明をした。
「皆さんにとって身近なグラウンドですが、絵を描くという視点で観察してみると、思わぬ発見があるかもしれませんよ。それでは、よーい、ドン!」
先生の掛け声で、幼い生徒たちは弾かれるように駆け出した。他のみんなも、それに続くようにグラウンドを歩き始めた。
池には既に数人が集まっていた。へりに身を寄せて、一生懸命に池をのぞきこんでいる。彼らも絵に入れたら面白いかもしれない。私は近くのベンチに座り、画板を構えた。
しばらく絵を描いていると、池のそばの子たちが落ち着きなく騒ぎ始めた。顔を上げると、ハッサク先生が見回りにやってきていた。
「先生、見て、コイキング」
「おや、迫力満点に描けておりますね!」
「ね、先生、ここのぶぶんが……」
「そうですね、ここは……」
「ねー、先生」
「ひ、一人づつお願いしますですよ!」
先生はみんなの話を聞き、順番にアドバイスをしていく。
一通り話し終えて、次は私の番だった。先生は私の方に近づいてきた。
「どうですか?困りごとはありませんか」私の隣に腰掛けながら言った。
「えっと、描きたいものが全部ずっと動いていて、描くのが難しいです」
静物画や止まっている人のデッサンはやってきたけれど、こういう景色を描くのは初めてで、苦戦していた。
「確かに、風景の移ろいを一枚の絵に収めるのは、難しいことですよ」
「特にコイキングがよくはねるので大変で……」
「そうですね、動くものを描くには、それ単体をよく観察して、動きの法則を見つけることが大切です。資料を集めてみると、参考になるかもしれません」
先生はスマホロトムを出し、図鑑や検索サイトでコイキングがはねる様子を試しに検索してくれた。その画面に、ぽつりと水滴が落ちた。
「おや、雨ですね」先生が言った。
「お天気雨だ」
「そのようですね。今朝は曇っていましたから、あの雲が降らせた雨が、今地上に届いたのでしょう」
「へえ……」
私ははるか頭上で雨粒が落ち、届くまでの長い距離を想像した。
「あっ、先生、調べてくれてありがとうございました。後で自分でも調べてみます」
私は先生にアドバイスをもらっている途中だったことを思い出し、あわてて切り上げた。このままみんなの先生を独占し続けるのは居心地が悪かった。
先生はベンチから腰を浮かせ、しかし思い出したようにまた座りなおしてこちらを向いた。
「あの」先生は内緒話でもするようにこちらに体を寄せてきた。ジャケットの布目が見えるほどに肩が近づいた。
「先程、なにか言いかけていませんでしたか」
すぐに「先程」の指すところが分かった。挨拶をした後、あの子が来た時のことだ。
私は困った。晴れてよかったですね、なんて今言ったらおかしい。そのことを自然に伝える方法が分からなかった。先生の肩に雨粒がてんてんと落ちて、染み込んでいく。
「いえ、別になにも」
結局なにも言えなかった。遠くで誰かが先生を見つめている。私はせかされるような気持ちで言った。
「先生、あそこにいる子が先生に用事があるみたいです」
先生はいくつか私の絵に助言をしてから、その生徒の方へ向かった。
次の美術の授業は美術室で、絵の進捗を先生に見てもらう時間だった。順番を待っている間、私は集めたコイキングの資料を見ながら絵を進めた。そうしているうちに私の番が来たので、先生の机へ向かった。
「よく観察して描けておりますよ。この調子で進めていきましょう」
「ありがとうございます」
色の塗り方などの質問をした後、私は席に戻った。次の人が先生に呼ばれた。順番抜かしのあの子だ。先生の机に手をついて、くねくねと何か話している。かすかに聞こえてくる内容は、雑談のようにしか思えなかった。
まただ。私は思った。
先生の時間を奪って、関係ない話をしている。だって先生はみんなのものだ。独り占めしてはいけない。順番を待てば、均等に自分の番が回ってくる。それなのに、あの子はまたずるをしている。
あの子なら、なんて言ったろうか。ふと思った。
先生に何か言いかけていたか尋ねられた時、あの子ならもっとうまく話しただろうか。「晴れてよかったって思ったんですけど、今言ったらおかしいですね」なんてヘラヘラ笑って、関係ない話をして、先生を独り占めして……。だんだんと変な気持ちが込み上げてきて、私は止まっていた鉛筆を慌てて動かした。こんなことを思っていたらおかしい。だって、先生はみんなのものだ。
「さて、少し時間が余りましたね」全員の絵を見終えた先生はそう言って、みんなに話を始めた。テーブルシティで近々開かれる春祭りについてだった。
「屋台や催し物が沢山ありますです。ぜひ足を運んでみてください」
私は騒がしい場所が苦手なので、きっと行かないなと思った。
「ねえ、お使い頼まれてくれる?オルノなんだけど」
休日の夕方、リビングのソファに寝そべってパチリスと戯れていると、母が声をかけてきた。家のあるプラトタウンから一番近いベーカリーオルノは、テーブルシティにある。そして、今日はテーブルシティで春祭りが開かれている。
「え……。明日なら」
「悪いけど、今夜必要なの。行ってきてちょうだい。ついでに春祭りを見てきたら?」
それが嫌なのに……。そう思うが、母は否応なしに財布を突き出してくる。私はしぶしぶお腹からパチリスを降ろすと、財布を受け取った。
「クリームチーズなんて、なくたっていいじゃん」
テーブルシティへの行き道、買い物メモを読みながら文句を言った。街へ近づくにつれ、道を歩く人が増えていく。
テーブルシティ入り口の大きな門は開いたままになっており、右側通行の案内がされていた。周りが進むのに従って中へ流れ込むと、カラフルに着飾った人や、道に沿って立ち並んだ屋台がひしめいていた。もう夕方だというのに、人のざわめきはどうどうと鳴り、大通りはまっすぐ歩けないほどに混雑していた。
私は人の流れをどうにか抜け出して、左の通りへ行った。ここは大通りよりいくらか空いていた。いつもはバトルコートのある芝生はシートが敷かれて休憩スペースになっており、私は屋台のフードを食べてくつろぐ人たちを眺めながら、ベーカリーオルノへ向かった。
祭りのせいか、店内の客は少なかった。店員も祭りの屋台に出払っていて今は数人しかいないのだとレジの人が言った。
クリームチーズと明日のバゲットが入った紙袋を抱え、オルノを後にした。ドアを開けると、先程の喧騒が一気に流れ込んでくる。さっさと帰りたいが、無性に喉が渇いてきた。自動販売機は学校の向こう側にあったはずだ。あまり街の中心には行きたくなかったが、混雑のせいか異様に暑く、このままでは体調を崩しそうだった。私は仕方なく自動販売機の方へ歩き出した。
街の中心はやはり人が多い。紙袋をかばいながら歩いていると、ふと見知った人の気配がして私は顔を上げた。学校の大階段へ差し掛かろうという所だった。金髪に淡い緑のジャケットの人物とすれ違った。ハッサク先生だ。先生も祭りに来るのだなと思いながら、道の端に避けてなんとなく先生の方を振り返る。先生は、私がさっき来た方へ歩いていった。それを見届けて正面を向こうとしたとき、人ごみの隙間から、先生の隣を歩く誰かが見えた。私はどきりとして動きを止め、目で先生の隣の人物を追った。二人は人通りの少ない方へ向かう。人ごみを抜けた先生は、隣の人物の肩を抱いていた。
気づくと、私はふらふらとした足取りで二人の後を追っていた。ハッサク先生は肩にもたれながら歩く隣の人物に何か話しかけている。
私は動揺していた。だって先生は、先生が、誰か一人のものになるなんて。
その考えには無視できない違和感があり、私はそれをようやく認めた。
違う。先生は人間だ。物なんかじゃなかった。誰か一人を選ぶし、それは私ではなかった。私はそのことに動揺しているのだ。
そうか、私は先生を諦めるために、ずっと先生を人じゃない存在にしていたんだ。
ふと私はあの日のお天気雨を思い出した。雨が地上に届くころには、雲はもうずっと遠くに流れ去っている。私はただその名残りを感じることしかできない。今更恋心を自覚したって、もう手遅れなのだ。
二人は広場へ入り、花壇に備え付けられたベンチに座った。先生は隣の人物に「大丈夫ですか、お水を買ってきますよ」と声をかけていた。体調を崩しているらしかった。先生を見つめ返すその人の横顔が見えた。
その顔には見覚えがあった。美術の授業で一緒になる、あの子だった。
私は自分の思い違いに気づき、ほっとした。それからすぐに、じわじわと押し寄せる悲しみを感じた。
私は花壇から離れ、大通りの雑踏の中を歩いた。人に押され、喧騒に包まれながら、私の頭はしんと静かだった。
門を出て、足を止めた。手に持った紙袋の重さをようやく思い出した。
私はあの子を見てほっとした。だって、それって、ハッサク先生が生徒と付き合うわけないって心底分かってるってことだ。
手遅れなんかじゃなかった。最初から私には望みなんかなかった。
ただの教え子としていられた頃に、もっと先生と話したらよかった。順番なんて言い訳しないで、あの子みたいに、笑ってたくさんお話しがしたかった。今になってそう思っても、先生への気持ちを自覚する前には戻れないのだ。私はもうどうしようもなく変わってしまった。
乾いた地面にてんてんと雫が落ちる。私は先生の肩に染みをつくる雨粒を思い出していた。