Framed Memories「いえーい! また俺の勝ち~」
「くそー……音也! もう一回勝負だー!」
広大な館の中、大理石で一際きらきらと輝く大広間に足を踏み入れれば、その荘厳で美しい雰囲気には全く似つかわしくない騒々しい声が聞こえてくる。声のする方向には階段があり、そもそもその階段を利用しようと思ってここへ訪れた私は、もう何度目か分からないため息をついた。それからすぅ、と大きく息を吸い込む。
「……音也! 翔! ここは遊び場ではないといつも言ってるでしょう!」
「げっ」
「あ~…やっぱ見つかったか」
階段の手すりに足をかけていた二人は、イタズラがバレた子どものように嫌そうな顔をし、片方は苦笑いを浮かべた。私がカツカツと靴音を鳴らして階段へと近づけば、先ほどまでの遊びを中断してとりあえずは反省している素振りをして見せる。
「ごめんってトキヤ~。さっき遊び始めたばかりだからさ」
「そういう問題ではありません! そもそも、手すりを滑って遊ぶなんて危ないでしょう」
「それは分かってるけどよー…。俺達の場合、間違って落ちても死ぬことだけはないだろ?」
美しい装飾の施された階段を見下ろしながら、翔はそう言って皮肉げに笑う。その言葉を受けて、音也も少しだけ影のある笑みを浮かべた。
──確かに、彼らが階段から落ちても死ぬことはない。そもそも大前提として、この館には生きた人間が存在しない。だからといって自分達はもう死んでいる、と決めつけてしまっていいのかどうかすらもよく分からないのだが、とにかくここでは『そういうこと』になっていた。
人間の世界から完全に切り離されたこの館には存在し得ない言葉ではあるが、世間一般的に言えばきっと、私達は幽霊という存在に一番近い。なのに成仏出来るわけでもなく、ただこの館の中に存在し続けるだけの彼らにとっては、『死なない』という事が余計に自らの存在を再認識させられるのだろう。その事実は音也と翔だけでなく、ここで暮らす十一人の兄弟全員に当てはまる。
私は先ほどの言葉が失言だったことに気づき、少しだけ口調を和らげた。
「……死ななければいい、という問題ではありません。私達のような存在であっても、痛みは感じるのですから。とにかく、遊ぶならここではない別の場所にしなさい。もしまた見つけたら、今度は蘭丸兄さんかカミュ兄さんに言いつけますからね」
「……おー」
「……はーい」
普段はなかなか言うことを聞かない二人だが、上の兄達、特に蘭丸とカミュの名前を出せば比較的素直に言うことを聞く。怒らせると怖い兄筆頭だからだろう。一応自分も二人から見れば兄のはずなのだが、上から数えれば真斗と共に六番目と七番目にあたるので、そのすぐ下の弟である音也と翔にはあまり敬われているとは言えない。
共に去っていく二人の弟を見送ってから、もう一度ふぅ、と息を吐き出し、気を取り直して階段を上る。
階段を上がった先にはたくさんの絵画が飾られた廊下があり、その中を歩き進めていくと大きな扉の前に辿り着く。重厚な造りのそれは、何度見ても他の部屋とは一線を画すほどの荘厳さだ。
私は軽くノックをしてからドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を押し開く。ギィ、と重苦しい音が響き渡り、それと同時に中にいた人物が顔を上げた。
「──ああ、いらっしゃい。今日は少し遅かったね」
部屋の中央付近にある大きな木の机。そのすぐ側にある、お世辞にも座り心地の良いとは言えなさそうな木の椅子に腰掛けていた彼は、私が入室した事に気づくと気安い笑みを浮かべた。
付近にはたくさんの木材や工具が雑然と並んでおり、木屑も大量に散らばっている。その様子はここに入る直前に見た扉の風格とはあまりにもかけ離れているが、この工房の主である彼こそが十一人兄弟の長兄、嶺二だ。
それらに囲まれながらも不思議と衣服は綺麗なままを保っている彼は、よほど集中していたらしく少しだけ疲れた様子が見て取れた。
「音也達が階段の手すりで遊んでたので、叱ってたんです。何度言っても聞かないんですから……」
「ははっ、だろうねぇ。後でぼくからもガツンと言っておこうか?」
「……フラグにしか聞こえません。嶺二兄さんの場合、むしろ一緒に遊び出さないか心配です」
「信用ないなぁ。ぼくはそこまで子どもじゃないもんっ。ここで額縁を創るっていう大事な仕事もあるしね」
机の側に積み上がった木の枠──これから額縁になるのだろう──をコンコン、と曲げた指で叩いてみせる。仕事、というよりは彼が自発的にやっている事のような気もするが、私は彼の創り出す美しい額縁達の、いわばファンの一人なので創ってもらえるのならむしろ大歓迎だ。この工房に定期的に訪れている理由もただの退屈しのぎというだけではなく、何の変哲もない木材や石、金属達が絵画を彩る美しい額縁へと生まれ変わる過程を楽しみたい、という気持ちも大きい。
私は工房内でのいつもの定位置へ移動すると、彼が使っているのと同じ簡素な木の椅子に腰掛けた。
「今日はどのくらい創る予定なんです?」
「う~ん、全部で十枚くらいかなぁ」
「それはまた……多いですね」
「まぁ、楽できるところは楽させてもらってるからね」
苦笑して、その辺にあった適当な木材を手に取る。宙に放ると、それは瞬く間に切断されて組み立てられ、額縁の基となる木の枠が生まれた。それらはふわふわと宙に浮き、彼がぱちんと指を鳴らすと同じ木の枠がたくさん保管されたところへ飛んでいく。
「それに──聞いたよ。また新しい部屋が増えたんだって?」
「ええ。私はまだ直接確認していませんが、真斗はもう新しい部屋の鍵を作り始めているようですよ」
人ならざるものである私たちが住んでいるこの館は、当然ながら普通の館ではない。内装は常に美しさを保っており、さして珍しくもない頻度で新しい部屋が増えていく。なので昨日まではそこになかった扉や廊下が今日は増えていた、なんてことはざらにあり、その度に真斗がその扉に合わせて鍵を作っていた。
「へえ、ならぼくもますます頑張らないとだね」
拳を作り、「ファイトーオー!」と一人で喝を入れるような仕草をする嶺二に、少しだけ呆れる。こういうところは初めて出会った時から何も変わらない。もう少し長兄らしい威厳を持ってほしいのだが、そうでなくともこの兄は、全員が集まる時以外この工房からほとんど出てくることがない。すでに他の部屋の壁は彼が創り出した額縁で埋めつくされているが、結局次々と新しい部屋が生まれてくるのだから、彼の仕事が終わることはおそらく永遠にないのだろう。比喩ではなく、文字通りの意味で。
「そういえばさ、最初の話の続きなんだけど。他のみんなはどうしてる?」
「特に変わりはないですよ。皆、それぞれに過ごしています。いつも通り」
「……いつも通り、ね」
含めた皮肉の意味を察したのだろう。嶺二は曖昧に笑った。本当に、何もかもいつも通りだ。音也と翔はまだどこかで遊んでいるのだろうし、蘭丸は天球儀の近くでよく寝ている。セシルは空想の世界で遊んでいるし、那月はまたティーパーティを開いているのだろう。他の皆も、毎日毎日同じことの繰り返し。
──いや、いつだったか。弟の誰かがここから出たい。外の世界に行ってみたいと言い出したことがあった。だがそれに否定的な上の兄達と最終的には言い争いに発展し、それを見ていた他の兄弟達ももう二度とその話題には触れなくなった。
「トキヤはさ」
「はい」
「ここから出たいって思う?」
この館にいる時間が誰よりも長い彼は、本当に唐突に、そのタブーとも言える言葉を私に投げかけた。返答に詰まりつつ、彼は件の言い争いの時もただ静観しているだけだった、と思い出す。つまり嶺二が求めている答えは分からない。だから私は、ただ素直に思っていることを口にした。
「……出たくない、と言えば嘘になります。でも今はこのままでもいいと思っています」
「どうして?」
「この時間が……好きだからでしょうか。ここにいると落ち着くんです」
この館に訪れた当初、私はほとんどずっと書庫に籠っていた。そして無限にあるように見えた全ての本を読み尽くし、飽きるまで何度も読み返し、それでも時間を持て余していた時にふと目についたのが大量に飾られた絵画と、それを彩る美しい額縁たちだった。額縁は基本木製のものだったが、絵画によっては石や金属だったりと素材を変えて創られており、その繊細さに当時はかなり驚いたものだ。それを創っているのがまさかこんなへらへらした男だとは思いもしなかったが、実際に創っている姿を見せてもらってからは『人は見かけによらない』と考えを改めた。
それからこの工房に足を運ぶようになるまでは、あまり時間はかからなかった。嶺二は作業中は静かだったし、他の兄弟達がこの工房に訪れることもほとんどなかったので、ただ静かな空間で書庫と似た木の匂いを嗅ぎながら、美しい額縁が創られていく様を眺めているのは心が安らぐような感覚だった。
「……そっか。よかった。ぼくもこの時間は好きだよ」
私の返答に微笑みながら、嶺二が私の目を真っ直ぐに見つめる。同じことを言われただけのはずなのに、何だか妙に気恥ずかしい。この感覚は何だろう。思わず視線を逸らすと、兄はさらに続けた。
「君がいなかったら、ぼくはもっととっくの昔に挫けてたと思う」
「……それは、お互い様でしょう?」
「そうだね。でも、もしぼくたちが無くした記憶を──生きてた頃の記憶を取り戻したら、きっとこの時間も、簡単に崩れちゃうんだろうな」
最後の言葉は、私に向けて言ったというよりは独り言のようだった。
……記憶を取り戻したら、この時間が崩れるとは一体どういう意味なのだろう。私たちは気がついた時にはもうこの館にいて、今はこの館が世界の全てだ。今さら記憶を取り戻したところで──いや、もしその記憶が外の世界での幸福に満ち溢れた記憶だったら? その先を想像しそうになり、私はかぶりを振った。
「そんな仮定の話は聞きたくありません。想像したところで時間の無駄です」
「ふふ。君ならそう言うと思ってたよ。でも、あるかもしれないってだけで十分だとは思わない?」
「……どういう意味ですか?」
「こんなところなんて飛び出して、その記憶を探しに行くでしょ。他のみんなもさ」
意味が分からず、再び返答に詰まる。ずっと記憶とは、頭の中にあるものとばかり思っていた。物体として存在するわけではないのだから、探しに行ったところで見つけられるはずがない。そう思っていた。
……でも。もしこの不思議な館では、記憶も物体として存在するとしたら。一番知りたくなかった答えに辿り着きそうになって、よせばいいのに、その先を促してしまう。
「その、私たちが無くした記憶とは……一体どんな見た目をしているんです?」
「さぁ、記憶って言うくらいだから何かの情景だろうけど……どんな姿だと思う? トキヤは賢いから、もう気づいてるんじゃない?」
質問に質問で返す馬鹿げた問答に、含まれた意味を嫌でも理解してしまう。嶺二が何のために額縁を創り続け、何のために壁という壁を星の数ほどもある絵画で埋めつくしているのか。何故これが自分の仕事だと言って、いつも工房に籠りきりなのか。
「……っ!」
怒りとも、悲しみとも言い表せない感情が暴風のように胸の内を渦巻いて、思わず立ち上がる。木の椅子がガタンと大きな音を立てて倒れたが、嶺二は普段と変わらない落ち着いた笑みを浮かべていた。そこには悪意は一切ない。ただ彼は、葉を隠すなら森の中と同じ理論で、井の中の蛙に大海を見せまいとしているだけだ。記憶を取り戻したところで、ここから出られないのであればもう今まで通り、この館で暮らしてはいけない。言い争い以上の、もっとひどいことが起こる可能性もある。
「どうして……その話を今、私にしたんですか」
「いつか話そうと思ってたよ。君なら分かってくれると思ってたから」
「……私がその話を、兄弟達に漏らすかもしれませんよ」
「それはありえないよ。だってトキヤは優しいじゃない。口では厳しいけど、みんなの事を大切に思ってるって知ってるよ。──ぼくのことも」
そうでしょ?と言って、嶺二は立ち上がると、私と視線を合わせた。震える手をそっと握られて、その肌の温かさに少しだけ安堵する。それがたとえ生きている人間なら冷たいと思う体温だったとしても、もう死んでいる人間同士であればそんなことは関係ない。温かさも、冷たさも、幸せも不幸も、全ては何かと比べて初めて分かる相対的なものだ。だからこの場所以上に幸せな場所を知らなければ、この場所が一番幸せだという暴論もまかり通る。そして私は半ば強制的に、そのための共犯者にさせられてしまった。彼の創る額縁の美しさに魅せられただけ、だったはずなのに。
「……それを話して、あなたの心は、少しでも軽くなりましたか」
「うん」
「なら……もういいです。せいぜい、ちゃんと隠し通してください。あなたは私たち全員の兄さんなんですから」
「もちろん分かってるよ。……って、え? どこ行くの?」
手を振りほどいて扉の方へと足を返した私に、嶺二が間の抜けた声を出す。この話の流れでまさか帰るとは思わなかったのだろう。けれど手を握られたままいつまでも見つめ合っているわけにもいかず、かといってこの後もこの部屋に居続けるのはさすがにいたたまれなかった。重要な秘密を共有した後でもある。一人で心を落ち着かせる時間がほしい。
「一度部屋に戻るだけです。心配せずとも、また来ますよ」
「……うん。いつでも待ってる」
最後に振り返った時に見た嶺二は、もういつも通りの笑顔を浮かべて手を振っていた。ただそれだけなのに、何故か胸が締め付けられるような錯覚に襲われる。
……彼は一体いつそのことを知って、いつからこの工房で一人額縁を創り続けていたのだろう。考えたところで分かるはずもなく、それを本人に問う勇気もない。私はもう知ってしまった。兄が創り続ける額縁が、私たちの“今”を閉じ込める檻であることを。いつも通りのこの日常が、彼の手によってずっと守られていたことを。
しかし私が知ろうと知らまいと、この先も兄は永遠に額縁を創り続ける。血の繋がりなんてない、偽りの家族のために。その共犯者である自分が彼のために出来るのは、せいぜい時々話し相手になることだけだ。
工房から足を踏み出すと、廊下に飾られた無数の絵画たちが、まるで見送るようにずらりと並んでいる。
その額縁の一つ一つに、誰かの記憶が閉じ込められているのだとしたら──この館こそが私たちの全てであり、ここにいる限りきっと何も変わらない。
それでも私は、またこの工房へ足を運ぶのだろう。いつも通りに。