ぼくの名を呼んで◇
美しい、という言葉が相応しい人だと思った。
男の人に、ましてやおじいちゃんを形容するのに適した言葉ではない気がしたけれど。
シルバーブロンドの髪を後ろに撫でつけたその人は、大きな物音に目をぱちくりと見開いて、音源ーーすなわち、ガラス窓を割って建物に侵入しようとしていたぼくを見ていた。
流行りの俳優やモデルに興味のないぼくでも、目を奪われるような整った顔立ちをしていた。今の状況を忘れて、思わずぼうっと見惚れていると、その人は手に持っていた植木鉢を床に置いて、緩慢に立ち上がり近付いてきた。
気が付けば文字通り、目と鼻の先にその人の顔があった。
吊り目がちで、くっきりした二重瞼。すっと通った鼻筋。形の良い眉と唇。それぞれがバランス良く収まっている。
顔にはいくつか深い皺が刻まれていたけれども、それは老いを象徴するものではなく、これまでの経験値を物語るような、聡明さを強調していた。(実際、賢い人だった。彼は博士号をもっていた。)
中でも印象に残ったのは、メイプルシロップに似た、淡い色をした虹彩だった。今朝食べたパンケーキが頭を過ぎる。そこに間の抜けたぼくの顔が映っているのを、どこか他人事のように見つめていた。
「こらっ!」
彼は不意に声を張り上げた。至近距離からの怒声にたじろぐ。窓枠に片足だけをかけた中途半端な体勢だったものだから、驚いた拍子にバランスを崩し、背中を強かに打った。
草の上にひっくり返った間抜けな少年の上を、アブリーがつい、と横切っていく。その小さな生き物の黄色いお腹を呆然と目で追いながら、そういえばおかあさんが出かけるぼくに何か言いかけていたな、と今更ながらに思い出していた。
◇
その人は「グリーン」さんと言った。
ぼくの名前を知ると、「おまえも色の名前なんだな、オレと同じで」と頭をぽんと叩いた。
両親やきょうだいに限らず、この地域に住む人は、花や月、太陽に因んだ名前がほとんどだったので、ひとりだけ仲間外れのようなこの名前があまり好きではなかった。
お母さんに名前の由来を聞いても、
「顔を見たときに頭にぽんと浮かんだのよね、他にも候補があったのに一番しっくり来たの」
と、にこやかに言うばかりで、ぼくの淋しさを埋めてはくれなかった。グリーンさんが「オレと同じ」だと声を掛けてくれるまでは。
「……また来たのか『クソガキ』」
グリーンさんは、ほぼ毎日のように訪問するぼくに憎まれ口をたたきながらも出迎えた。
彼が住居とするこの場所は、元は廃墟で、ぼくだけの秘密基地だった。
前までなかったはずのガラス窓が復活している時点で気付くべきだったのだが、細かいことにこだわらない性格が裏目に出てしまった。あまり疑問に思わずいつものように窓から入ろうとして、手頃な石でガラス板をかち割ったのだった。
彼がここアローラに越してきたのを知らなかったのは、その間ちょうどぼくが夏風邪を拗らせ外出できずにいたからだ。一度体調を崩すと長引いてしまう体質のため、布団の中で高熱にうなされていた。
風邪から復活し外出をきめた当日、おかあさんが声をかけようとしていたのは、まさしくその話だった。
廃墟同然だったあの館を、グリーンさんが業者とともに数日かけてリフォームし、ようやく腰を落ち着けて生活できるところまできた矢先に、現れたのがぼく。
あのあと、彼と共に自宅へと戻り、事の詳細を話した。
話の途中でオチが分かったのか、みるみるうちに顔を青くしたおかあさんは、息子の頭を押さえつけながら、目の前の老紳士に非礼を詫びに詫びた。
グリーンさんは、きれいな顔を柔和に崩しながら(その時見せた人の良さそうな笑顔はよそ行きの顔だとあとで気付く。)、落ち着かせるようにゆったりと、大丈夫ですから顔をあげてください、と声を掛けていた。
「怪我がなくて何よりでした……えっと」
ようやく母の手から解放され、頭をあげたぼくをグリーンさんが見ていた。名前を知りたいのだと察し、『×××』と答える。
琥珀色の虹彩をもつ双眸が一瞬だけ揺らいだ気がした。
名前を聞いたくせに、グリーンさんは一貫してぼくを『クソガキ』と呼んだ。
彼がぼくの名前を呼ぶのは、おかあさんや近所の人と話している時だけ。ふたりきりになれば『クソガキ』呼ばわりに戻ってしまう。
最初こそ「ちゃんと名前で呼んで」と抗議したが、「クソガキだから『クソガキ』で充分だろ」と眉間に皺を寄せながら、さも愉快そうに目を細めて笑った。
他所んちの窓ガラスを割った大罪人にも罪の意識はあるのでぐうの音も出ない。何度も鼻であしらわれ、いつしかぼくは不服の申し立てを諦めた。
「また花増えた?」
「昨日今日でそんな増えるかよ」
ふん、と鼻で笑いながら、掲げた左手をひらひらと宙を払うように振る。
彼が意地悪な物言いをするのは、知っている限りぼくだけにだと思う。他の人には(それは子どもも含めて)、にこにこと物腰が柔らかで紳士然としている。全くもって、対応が真逆である。
だけどそのぶっきらぼうな扱われ方が、不思議とイヤではなかった。むしろ素の部分を剥き出しにされていることが、なんだか友人同士のようでくすぐったくもあり、ずっと会えなかった旧友にようやく再会したかのような懐かしさすら感じていた。
まだ会って一年にも満たない年上過ぎる人に、郷愁にも似た思いを抱いてしまう理由は不明だ。分からないから、こうして会いにいってしまうのかもしれない。
今ではすっかり見慣れたリビングに足を踏み入れる。
侵入未遂後、詫びの品を携えて再訪したときは少々ぎょっとさせられた。
まるで花畑か温室に迷い込んだのかと錯覚するくらいの花々が床を埋め尽くし、植物特有の甘く青い匂いが部屋を満たしていた。
生活動線用に人ひとりが通れるくらいの細いスペースがあって、それは四方の壁に伸びていた。
壁は壁で、隣部屋へのドアがある面以外は、巨大な本棚が置かれていて、ざっと数千冊は下らないだろう本やファイルが綺麗に並べられていた。
よく見ると、プランターも水やりしやすいように等間隔に置かれており、主人の几帳面さが伺える。
「……お花屋さんでも開くの?」
きっとたぶん、そう言ったと思う。
部屋の第一印象のままを言葉にすると、部屋の主はきょとんとしたあと、ははは、と腹を抱えるようにして笑っていた。
「それもいいかもしれないな……でもこれは、全部オレのだ」
もう構うもんかと言わんばかりに、黒い本革のウイングバックチェアに腰掛けると、数冊の本が積まれたデスクから眼鏡と新聞紙を手に取った。
ばさり、と紙を広げる音が響く。中老期の男性にしては長すぎる脚を組んで、グリーンさんは活字の海へと潜っていった。次に控えている本たちのぶ厚さも考えると、数時間は相手にされないことを知っているので、大人しく本棚に近付いて『今日の本』を選ぶ。
まだ十になったばかりのぼくには、文字は読めても意味の分からない言葉や専門用語が多すぎるので、持参したノートに書き出してみる。
『どりょくち』『へんかわざ』『とくせい』
子ども特有のへろへろとした文字がたくさん並んでいる。
いずれはポケモントレーナーになって、バトルだってするんだろうけど、こんな難しいことを全部覚えなきゃいけないのかな、と思う。文字を追うのに疲れて、活字だらけのページから顔をあげれば、視界に入るのはたくさんの本。
グリーンさんは全部読んでるのだろうか。それならば、ここにあるもの全てが彼の、途方もないような努力の証明だ。
文字を書き出すのにも飽きたら、なるべく挿絵のありそうな本を探してぱらぱらとめくる。この地方には居ないポケモンを見つけたら大当たり。リュックサックにノートを戻して、スケッチブックとクレパスを取り出しお絵描きを始める。
この地方で見るラッタの毛は黒いけれど、『カントー地方』のラッタは黄土色っぽい色をしているんだな、と思いながら、その生き物の輪郭を茶色いクレパスで描く。黄土色がないからオレンジでいいかな、と毛も塗って。
どれだけ夢中になって描いただろうか。初めて描いたにしては良い出来だろう、と少々短くなったクレパスを置いて、顔の前にスケッチブックを掲げて眺める。
すると、ひょいとスケッチブックが引き上げられた。するりと手から離れていったそれは、いつのまにかぼくの近くに居たグリーンさんの手に渡り、ちょうど開いていたページを真顔で眺めていた。
描いた絵を見られたのは今日が初めてだった。いつもなら気付かれる前に片付けていたから。
絵を注視しているその横顔を見て、なぜか早鐘を打ち始める鼓動。グリーンさんがぼくに声をかけるまでのたった数秒の間に、やたら口の中が乾いていくのを感じていた。
「……上手いもんだな。よく似てるよ」
ぽん、と頭を撫でられ、スケッチブックを返された。鼓動はますます速くなった気がした。顔がぽかぽかと熱くなっていく。
「……あ、あげる!」
ぼくは返されたばかりのスケッチブックからラッタのページを破り取って、グリーンさんに押し付けるように渡していた。衝動的な行動の直後、はっと我に返る。
要らないって言われるかも。弱気が顔を出し始めた瞬間、彼は意外にも何も言わずにその絵を受け取った。
「サンドイッチくらいは出してやるから、そこ片付けて手洗ってこい」
「……ん、分かった」
背中に向けたままそう語ると、彼はドアの向こうに消えてしまった。散らばったクレパスを箱に戻して、リュックサックにスケッチブックと共にしまう。言われた通り洗面所に赴いて、手を洗う。ふと顔をあげれば、目の前の鏡の中に、頬を盛大に緩ませた少年の顔が映っていた。