#毎月25日はK暁デー 「熱帯夜」「蛍」「宿題」六月に入って梅雨の前の暖かくて湿った夜、八時過ぎるのを待って外に出る。
夏至が近くてももう暗く、田舎は家の光も街灯も、車のヘッドライトも疎らだ。
それでも日中走り回っている祖父母の家の周辺は目が暗闇に慣れてしまえば少年のテリトリーである。
蛇が出るから草むらに入るなと言った祖父母も駄菓子をくれた近所のお婆ちゃんも家の中で虫の声と蛙の声ばかりが少年に存在を伝える。
けれども今捕まえるのはそれらではない。
虫捕り網を持って小川の方に行くと目当てのものたちがすぐに姿を現した。
「いたいた」
声を出して笑っても彼らは逃げない。不規則に飛び回るか草むらでじっとしているか。どちらにしてもぴか、ぴか、と白熱電球よりも黄色く柔らかく光っている。
「蛍、捕まえるの?」
急に背後から声をかけられて少年は悲鳴を上げて飛び上がった。
「わ、ビックリした!」
「それはコッチのセリフだ!」
思わず虫捕り網を振り回すがひらりと優雅に避けられてしまった。
それは若く背の高い大人の男だった。興味のない少年にもわかる程度に垢抜けていて、オシャレだし顔もいい。
「町から蛍を見に来たのか?」
時折そういう親子連れやアベックを見る。しかし男は一人だけのようだ。
「車は?」
「車じゃなくてバイクだよ」
「バイクぅ? ……アンタワルそうには見えないけど」
「あっ、そういうイメージなんだ」
男は愉快そうに笑うのでちょっとムッとしたが少年をバカにしたわけではないようですぐにごめんと謝って
「それで蛍を捕まえてどうするの?」
と聞いてきた。
「どうって……別にカゴ一杯にして終わりだけど」
蛍は見に来る人はいても買う人はいない。弱くてすぐ死ぬからだ。
しかし男はカゴ一杯という言葉に目を輝かせた。
「いいね、それ見てみたい。 僕も手伝ってもいい?」
「いいけど」
乗ってくるのは意外だったので少年は言葉を濁したが男はすぐに目の前の蛍を下から掬い上げた。
「はい」
「……アンタ上手いな」
「まあ……捕まえるのは慣れてるかも?」
イタズラっぽく言って少年が開けた虫かごに蛍を入れる。
後は二人でひたすら光を追いかけた。
少年は男の名前を聞かず、男も少年について何も聞かなかった。会話も捕獲報告だけですぐに目標を達成した。
「うわっ、風情がない!」
にも関わらず男は身も蓋もないことを言って笑った。
確かにプラスチックの虫かごに詰め込まれて光る蛍にワビサビのようなものは感じられない。
「文句あんのかよ」
「ないよ、サイコー! スマホがあればなあ」
「すまほ?」
男は虫かごを上下左右に回して見ると満足したらしく逃がす?と聞いてきた。
元々そのつもりだったので頷いて蓋を開ける。数匹飛び立ったが意外とじっとしているので少年は虫かごをひっくり返した。また数匹飛んで数匹地面に落ちて数匹カゴに留まっている。
「やっぱり風情がないね」
「うっせ」
「一匹とまってる」
男が少年の肩に触れ、摘まんだ蛍を草むらに下ろす。
「よく飛び回るのがオスで岩や葉で待ち受けてるのがメスなんだ」
「ふーん、オレにとまってたのはメス?」
「そう、光るところが一つだったし」
「町の人間のクセにくわしいな」
言った後で今のは良くなかったと反省したが男は気にした風もなく
「田舎のおじさんに教わったんだ」
と答えた。
「ふーん」
「おじさんは誰から教わったか覚えてないって言ってたけど」
「オッサンだから忘れたんだろ」
「ふふっ、そうかも」
今度はカゴを叩いてようやく飛んだ蛍の内の一匹が男の頭にとまる。
「ソイツはオスってことか」
「え、どこ?」
当然男に見えるはずもなく捕ってやると手を伸ばす。男はありがとうと屈む。
「でも僕らには合ってると思わない?」
「は? 何が?」
「風情がないの」
しゃがみこんでこちらを覗いてくる男のやや切れ目な瞳は少年が掴んだ蛍の光を映していてあまり日に焼けていない白い肌と相まってまるで物語に出てくる妖怪のようだ。
もしかして人攫いか人喰いかもしれない。
急に寒くなってきた。まだ六月の夜に半袖はまずかったかもしれない。
「冷えてきたね、そろそろ帰ろうか」
「どこに?」
「どこって君はお祖父さんとお祖母さんの家で、僕はバイクだろ?」
当然のことを男が口にするので少年も我に返った。
「アンタ、もう来ないのか?」
「……来てもいいなら来月、また君がここに泊まりに来た時に」
「……わかった」
何で毎月祖父母の家に泊まりに来ていることを知っているのか。気づいたのは布団に入って寝る時になってやっとだった。
月が変わり梅雨が明けても何となく湿気は残っていて暑く感じる。そっと縁側に出ると生垣の向こうに人影があったので少年はつっかけを履いて外へ駆けた。
「いるなら言えよ!」
男は驚いた顔をして
「いるかどうかわからなかったし、何て呼んだらいいかわからなかったし」
「名前か? なら」
「待って!」
突然遮られて驚いた。しかし男は余裕がないようで少年を見ず掌を突き出して少年を制する。
「知らない人に名前を教えたらダメだよ!」
「……知らない人じゃねえだろ」
「そうかもしれないけど、でも今聞きたくない!」
なんだそれと少年は肩をすくめる。しかし短気なはずの自分が何故か男のワガママはしょーがねえなと受け止められた。
「まあいいや。 つか暑くね?」
「……そう? こっちは涼しい方だよ」
平静を取り戻した男は相変わらず月の明かりしかない周辺を見回した。虫の声があちらこちらから聞こえてくる。
男は山から来る風のお陰かもと目を細めた。少年はその男の顔をそっと盗み見る。時折変なことを言うけれども綺麗な顔だ。じわりと自分のかいた汗が寝間着を濡らし肌と密着する感覚に眉を潜める。
「やっぱり暑いって」
「家に戻って冷たいものでも飲む?」
「いや、そこまでじゃないけど……」
多分男は少年の家に入ろうとはしないだろう。何となく確信してアンタは喉が渇かないのかと聞いてみる。
「僕は大丈夫。 来る途中で飲んだから」
「ならいーけど」
男の方こそ倒れられると名前も住所も知らないのだから困る。
(あ、でも免許証持ってるか)
男はウエストポーチを襷のように胸にかけていて、貴重品もそこに入っているようだ。
(きっとあそこにオレの、)
「もう夏休みに入った?」
「えっ、ああ……うん」
急に現実に引き戻される感覚に少年は戸惑いながらもなんとか肯定だけ返す。
男は気付かずにこの時代もドリルや自由研究や絵日記や読書感想文があるのかと尋ねたので更に肯定する。
「どこでも大体一緒かあ」
「アンタはキチッと宿題やりそうだな」
「君は始業式の朝に終わらせそう」
「じゃあ来月手伝いに来いよ。 ドリルだけでいいから」
「なんで頼む方が偉そうなんだよ」
男は笑って、それでも「いいよ」と受け入れてくれた。
来月もまた会える。少年は嬉しそうに約束だぞと念押ししてもう帰らなきゃと踵を返した。
またねと手を振って見送って、見えなくなると男は詰まっていた長い息を静かにゆっくりと吐き出した。
「アンタが目覚めるまで付き合うよ」