『痘痕も笑窪』 カランコロンと軽い音をたててベルが鳴る。チラリと入口を見れば入ってきたのは若い男女で待ち人ではなかった。
(まだ、か…)
仲睦まじく入ってきたアベックの楽しそうな会話をBGMに腕時計を見れば、時計の針は午後四時を指そうとしていた。
約束の時間は1500。お互い軍に所属しているから仕方ないと思うが久しぶりのデートだと言うのに"1500喫茶ヘリー"と誘い文句が一文だけと言うのも妙に味気なかった。デートに浮かれていたのは自分だけだったんだろうか。
時刻は1600。約束は1500。
帝国と共和国で表記に違いがないのならば午後三時で間違いがないはずだ。多分
少し早く着いてしまった為に既に二時間近くはここにいる。
三時に集合していたなら、待ち人が観たいと言っていた映画が四時ちょっとくらいから上映している筈だから観に行くのもいいかもしれないなんて思っていたのにうまくいかないものである。
(まぁ、計画通りにいったことなんて殆ど記憶にないけどな…)
ぼんやりと席から少し離れた窓越しに眺める外は静かな店内と違って、人で溢れかえり賑やかだった。
待ち合わせ場所は二人で何度も訪れた喫茶店。道に迷ったという訳ではないだろう。なにより場所を指定してきたのは先方なのだから。
待ち人の行きつけであるらしいこの店は共和国では珍しく古く歴史がある。共和国内はもちろん、今では帝国側の豆まで仕入れているらしい老舗の珈琲問屋だ。オーナーが趣味で店の一部を喫茶コーナーとして開放していて、店の奥まったところにある喫茶コーナーは存在を知る者は少なく待ち人いわく穴場なのだそうだ。
シュバルツが座る席は一番奥にあたり、窓から離れているせいか少し暗いが、天井から吊るされたランプの暖色が心地よい空間を演出している。秘密基地みたいだろ?と笑う待ち人のお気に入りの席だ。その席でもう2杯目になるアイスコーヒーに口をつける。水だしのアイスコーヒーは香りがよくそれだけでも美味しいのだがそれにミルクを垂らせばセットのケーキに良くあう。
コーヒーも2杯目ならケーキも2個目になる。1つめは季節のタルト、カスタードタルトをベースにサクランボがふんだんに敷き詰められ絶品だった。今出てきたのは店主オススメのザッハトルテ、何度かこの店に来ているが毎回このザッハトルテを頼んでしまう。
暑くなってきたから今日はアイスコーヒーを飲もうと店に来る前から考えていた。アイスコーヒーならいつものザッハトルテじゃなくてたまには違うケーキにしようと思っていたのに待ち人が来ないおかげで結局ザッハトルテも頼んでしまった。
喫茶店のマスターが知り合いの店にここの珈琲専用に作ってもらってるらしいケーキ達はどれも絶品でこのまま来なければでは3個めにいってしまいそうだった。
(いらない肉がついたら奴のせいだな…)
カランコロン
来客を告げるベルに顔を向けるけど待ち人ではなくてため息ひとつ。入ってきた体格のいい若い男と目が合ってしまい気まずさに顔を反らすためケーキを一口。ザッハトルテの控えめな甘さが待ち惚けで落ち込む気持ちを少し癒してくれた。
「なんだ、またザッハトルテか?」
上から掛かってきた求めていた声色に顔をあげればそこには待ち人であるハーマンが立っていた。ベルの音はしなかった、さっき入ってきたガタイのいい男の後ろにでもいたのだろうか。
それ好きだな。と笑いながらシュバルツの向かいの椅子に腰をかける。俺にもアイスコーヒーをと慣れた仕草で注文している。来てくれて嬉しいと浮かれてしまう暢気な自分が許せなくて、とたんに綻びそうになる表情を引き締めると怒っていると思ったのかハーマンがテーブルに額を擦り付ける。
「待たせて悪かった、地獄の門番がな非番を取ったと言うのに離してくれなくてな…」
「また書類を溜め込んだのか?普段から処理していればそんなに溜まるものでもないだろう。」
テーブルに手をついて謝る姿にもうため息じゃなくて苦笑するしかない。この光景はいったい何度目だろうか既に怒る気にもならない。
国は違えど軍なら書類仕事などだいたい同じだろう。大佐ともなれば以前に比べ紙の上の仕事は増えたが内勤ではないのだ、捌けない量ではない。のらりくらりとしているせいか遊び呆けているハーマンが大方悪いわけで地獄の門番に成らざるをえないオコーネルが憐れだ。
「いや、処理出来るものはオコーネルが処理してる。残念ながら俺は机上よりも屋外が向いているらしい。余程重要な書類でない限り俺の方に回ってこないから少ないし、たいして溜まらないさ。」
(…少ないと言いつつも溜まるんだな)
大半を処理する。まるで事務官、いやハーマンの秘書官のようになっているオコーネルに同情したい。それプラス彼には彼の仕事があるだろう、もしも自分がハーマンならオコーネルに頭があがらない。
「…それで、そこまで優遇されていて遅くなった理由は?言い訳くらいなら聞いてやる。」
「本当にすまなかった。これでも溜まった書類の為に午前中から執務室に籠ってたんだ。昼には終わるくらいの予定でな。」
あからさまにため息をつけば此方の機嫌が相当悪いと思ったのかハーマンが焦って身振り手振りで言い訳をする。その様子が少し可笑しくて怒ってはいないのだけどついまだ機嫌が悪い振りをしてしまう。
「で、実際終わったんだよ。珍しく捗ってな予想より早く午前中に!」
褒めてくれと非を責められる立場の筈なのに尻尾を振ってこちらを見つめてくる。しかし、まだ許してやるポーズには早いだろう。実際遅刻してきたのだからもう少し反省させなくてはいけない。
「んで、終わったから帰って支度しようかと思ったんだが、あー…うっかりあいつに捕まってしまい。…うん、すみませんでした。」
「…まぁ、捕まってしまったものは仕方ないだろう。」
あいつと言う単語にその相手が容易に想像がつく。
「あいつらに基地に居るのがバレてな執務室の外で待ち伏せしてたんだ…。全員揃って」
「なんだ、トーマもいたのか?」
「あぁ…それであいつらが離してくれなくてな…演習に付き合ってたらこんな時間になってしまって…」
若さと元気を有り余らしているGFの彼等に捕まってしまったのなら仕方ないだろう。ハーマンは彼等に兄のように慕われている。ハーマンの暇をいつでも狙っているバンのことだオコーネルあたりにでも非番の日を聞いていたのかもしれない。
ハーマンは遅刻したことを気にしてと言うより自分の顔色を気にして随分悄気ているが自分の弟が遅刻に絡んでいるんだから許してやるしかないだろう。
「しかし、意外だな。よくこんな短時間で解放してもらえたものだ…」
バン達が三時間そこらで満足するとは思えない。いったいどんな言い訳をしてきたのか興味が沸いた。
「あぁ、それは…そうだな、シュバルツ少しテーブルの下に入ってみないか?」
「…は?」
「いいから、俺も入るから!」
「あ、あぁ…?」
必死なハーマンの様子に訝しみながらも勢いに負けて訳もわからずテーブルの下に入ってみた。自分で言うと悲しいが小柄な方の自分はなんとか入れるが大柄なハーマンには大分きつそうに見える。
「いったいなんだと言うんだ…」
カランコロン
「ジーク、ほんとにここにハーマンの匂いがするんだな?」
聞き覚えのある声にテーブルの脚の隙間から入口を伺えばキュイ、と甘えるようにジークがバンに首を擦り寄せていた。
「バン。ジークはここの入口でハーマン大佐の匂いが途切れたと言っているわ。」
「…でも中にはいないみたいだな。仕方ねーな、みんなで合流して違うとこ探しに行くか?」
「でも、これだけコーヒーの匂いがしていたんじゃもう追跡は無理じゃないかしら?」
「くそぅ、便所って言葉に騙された!」
成る程、用を足しに行くふりして逃げ出してきたらしい。
「あー、まだ試したいフォーメーションとかたくさんあったのによー。」
賢明な判断だったみたいだ。ハーマンが逃げ出して来なければいったいどれくらい待たされたことだろう。
(…考えたくもないな)
チラッとハーマンの方を見れば精一杯身体を縮めてテーブルからはみ出さないように必死でなんとも滑稽な姿だった。
「なぁ、おっさん。ここにこんな頭の男来なかったか?」
こう…植木鉢みたいな
バンが一生懸命身振り手振り頭の上で髪型を表現している。
ハーマンが髪に手を添えていた。少し気になったらしい。思わず吹き出してしまったら恨めしそうな目で見られた。まぁ、しかしこのかくれんぼも潮時だろう。
「テーブルの下にいるのがバレるのも時間の問題だな。さて、一緒に隠れている俺はなんて言い訳したものだろうな?」
そう呟けばハーマンが珍しく決まり悪そうに頬を掻いた。
「開き直って交際宣言でもしようか?」
「それもいいかもな。テーブルの下で交際宣言なんて記憶に残りそうだ。」
いつかバレるとは思っていたが、まさかこんな形でバレるとは思ってもいなかった。腹をくくってとりあえずテーブルから出ようと天板に手をかけるとオーナーと目が合った、此方に目配せをしたので少しとどまってみた。
「あぁ、ハーマンさんですね。」
「知ってるのか?」
「えぇ、昔から御贔屓にしていただいてますので。今日もこちらに珈琲豆を買いにいらっしゃいましたよ。残念ながらすぐにお帰りになってしまいましたが…」
「そっか…さすがに何処に行ったかは…分からないよな?」
「そうですね、さすがにそこまでは…すみませんね。」
「いえ、マスターさんが悪いんじゃないわ。こちらこそ急にごめんなさい。ありがとうございました。」
「あぁ、ありがとう」
行くぞ、ジーク。と、入ってきた時のようにバン達がまた慌ただしく出ていった。
きっとバン達はまたこの暑い中ハーマン探しに街を走り回るのだろう。これからハーマンを独占するのが少し悪い気がした。まぁ、先約は自分だから譲る気はないのだけど。
「ハーマンさん。もう、大丈夫ですよ。」
「あぁ、マスターありがとう。助かったよ。」
テーブルの下を覗き込んでマスターが微笑む。
マスターがすっかり温くなってしまった珈琲を交換してくれた。礼を告げればマスターは目を細めた。
「しかし、懐かしいですな。よく昔もお稽古事やらから逃げ出しては此処にかくれんぼしていましたねぇ…」
「ははは、そうだな。言われてみれば久しぶりにこの下に隠れたな。」
すごいだろ?ここに隠れると見つからないんだぜ?そう言って、自慢気に笑うハーマンと穏やかに笑うマスターの顔を見比べながらマスターが淹れなおしてくれたアイスコーヒーに口をつけた。
(なんで自分はこんな男を好きなんだろう…)
時刻は間もなく午後五時になるところ。今日も無駄に休日が終わるのだろうかとシュバルツは苦笑した。
(それでも嫌えない俺も大概だな…)